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憂鬱とシンデレラ  作者: 水瀬 結
第五章
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第二十話「ジン・リッキー」

 リッキーちょうだい、と言われ戸惑ってしまった。八月に入って最初の土曜日のことだ。代わりに大野さんが作ってくれたけれど、これで合ってるかは分かんないよ、と言われた。


 次の木曜日、開店前に、レジの横のメモ帳を最初のページからめくった。夏の飲み物が並んだページの隅に、癖の強い字で書いてあった。


『ジン・リッキー ジン、ソーダ、ライム半分 ライムは搾らない。客が潰す』


 ジントニックのトニックを、ソーダに替えたようなものだ。あとはライムの扱いが違うらしい。


 タンブラーに氷を詰めて、ジンを量って注ぐ。ソーダで満たし、バースプーンで一度だけ氷を持ち上げる。半分に切ったライムは、搾らずにそのまま落とした。マドラーを一本立てる。搾らなければ、酸っぱさは決まらない。酸っぱいのが好きな人は、自分でぐりぐり潰す。そんなに要らない人は、一回押して終わりにする。


 ソーダを注ぎすぎたり、氷が足りなかったりして、見た目だけでもそれらしくなるまでに三杯かかった。私には味の確かめようがない。


 開店してから、洗い場の陰でスマホを開いて、カクテル言葉を調べた。素直な心、と出てきた。


「橘(たちばな)さん。リッキーのカクテル言葉、素直な心なんだって」

「どこが素直なんですか」


 橘さんはグラスを拭きながら、首をかしげた。


「うーん、甘くしないところ、とか?」

「ジンとソーダとライムですもんね。混ぜ物なし」


 入って五ヶ月になる橘さんは、もうグラスを割らないし、常連の顔もだいたい覚えた。忙しい夜には、まだ時々、あの笑い方が戻ってくる。戻ったことに、本人が先に気づくようになった。


 二十三時を過ぎた頃、扉が開いた。


「いらっしゃいませ」


 蒼(そう)さんだった。トートバッグがまた重そうになっている。布越しに、本の角が浮いていた。


「発売、おめでとうございます」


 蒼さんは前髪に手をやって、小さく頭を下げた。カウンターの一番端に座る。


「ウーロン茶……いや、シャンディガフでお願いします」


 冷蔵庫からピルスナービールと、緑のボトルを出す。月乃(つきの)さんに教わった通りに作った。


 蒼さんが一口飲んだところで、カウンターの中ほどの客からリッキーの注文が入った。開店前に作った手順を、そのままなぞる。半分に切ったライムを落として、マドラーを添えた。


「ライムは、お好みで潰してください」


 客がマドラーでライムを押すのを、蒼さんが端の席から見ていた。


「潰さないで出すんですね」

「酸っぱさは、飲む人が決めるので」


 月乃さんのメモの受け売りで答える。蒼さんは鞄からスマホを出した。


「あの、これ」


 平台の一角が、青い表紙で埋まっている写真だった。後ろには、手書きのパネルが立っている。


「え、これ全部ですか」

「新宿の店なんですけど。本当は棚差し一冊のはずだったのに、担当の方が読んでくださって、こうなりました」


 蒼さんの声が、いつもより速い。


「明日から一週間、フェアをやってくれるんです。僕、木曜の昼にお礼に行くんですけど」


 彼は指で、コースターの向きを直した。


「……もしお時間があったら、見に来ませんか」

「私が、ですか」

「買うって言ってくださったので、せっかくならここでと思って。あ、いや、無理にとかではなく。昼は寝てらっしゃいますよね。すみません、変なこと言いました」

「行きます」

「え」

「木曜、行きます。何時ですか」


 木曜日の午後一時。新宿駅の東口の階段を上がると、ビルのガラスが、昼の光を何枚ぶんも跳ね返していた。この街に昼間来るのは、辞めた日以来だ。歩道の白さも人の多さも、記憶にあるものより線が太い。


 駅から少し歩くと、三年間立っていた百貨店の前に出る。一階の入口の奥に、ガラスケースの光が並んでいた。足は止めずに、通りの反対側の書店へ入る。平台は、入ってすぐの一等地にあった。


 青い表紙が、想像していたよりずっと多く積まれていた。パネルには、書店員さんの手書きの文字がびっしり入っている。何度も書き直したらしく、行の間隔が途中で詰まっていた。


 若い女の人が一冊手に取る。裏返してあらすじを読み、少しのあいだ持っていたけれど、やがて元の場所に戻して行ってしまった。そのあとに来た中年の男の人は、パネルも読まずに一冊掴んで、レジのほうへ歩いていく。棚の陰から、それを見ていた。買われるのも、戻されるのも、一分とかからない。


「黒田(くろだ)さん」


 振り返ると、蒼さんが立っていた。スーツを着ていて、店で見る時とは背格好が違う気がする。


「来てくださったんですね」

「はい。すごいですね、これ」


 蒼さんは真顔で頷いた。


「僕、今日ここに来るまでに何回も写真撮ってます」


 一冊を手に取って、レジへ持っていった。カバーをかけますかと聞かれて、いえ、と答える。去年の秋に買った文庫本には、店員さんがかけてくれたカバーが、今もついたままだ。この本には、表紙が見えていてほしかった。


 書店を出たところで、どこにしますか、と聞かれる。任せます、と答えると少し歩いた先のコーヒースタンドに入ることになった。


「何にしますか」


 蒼さんがメニューの上のほうを指した。


「なんでもいいです。蒼さんと同じもので」


 メニューの上で、蒼さんの指が止まった。少しして、アイスコーヒーを二つ頼む。窓際の席で、買ったばかりの本を膝に載せた。


「黒田さん、変なこと聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「お店では、いつもお客さんに、何を飲みたいか聞きますよね。甘いのとそうでないのなら、どっちがいいですか、とか。強くないのがいいですか、とか」

「ああ……はい。仕事なので」

「リッキーも、ライムはお客さんに潰してもらってましたよね。なのに、自分のぶんは決めないんですね。店を選ぶ時も、任せますって言ってました」


 蒼さんは、ストローの袋をまっすぐに畳んでいた。


「すみません、責めてるわけじゃないんです。ずっとそうなのかなと思って」


 接客業ですから、とか、人に決めてもらうほうが楽なので、とか、返す言葉ならいくらでも浮かんだ。どれも、売り場で三年間使ってきた言葉だった。


「……何が欲しいか、分からないんです」


 自分の声が、思ったより小さかった。


「昔からです。子どもの頃から、欲しいって言ったことがあんまりなくて。姉がいるんですけど、彼女はちゃんと欲しがれる人で」


 蒼さんは、黙って頷いた。


「それで、そのうち、本当に分からなくなりました」


 膝の上の、青い薔薇を見た。


「一つだけ、分かってることはあります。私、お酒が飲めないんです。舐めただけで、顔が真っ赤になるくらい」


 蒼さんが顔を上げた。


「バーで働いてるのに、変ですよね。うちの店には、飲めない人のためのものが二つあるんです。シンデレラと、シャーリー・テンプル。どっちも甘いんですよ」

「甘いのは、苦手ですか」

「苦手というか、たぶん、そういうことじゃないんです。あの二つは、どっちも私が来る前からあったので」


 氷が溶けて、グラスの中で小さく鳴った。


「お客さんには、みんな、いつものがあるんです。金曜のマンハッタンとか、木曜のギムレットとか。私、十ヶ月で何百杯も作ってきたのに、自分のいつものは、一つもないんです」


「それはずいぶん、寂しいですね」


 まっすぐに言われて、笑ってしまった。


「そうですね。寂しいです」


 二人とも黙って、外を見ていた。信号が変わって、人が渡って、また変わる。


「僕も、飲めないんですよ」


 隣で、蒼さんが言った。


「昔から、味が苦手で。バーに通っておいて、ずっとウーロン茶でした」

「でも、シャンディガフも、この前のモヒートも」


 蒼さんが、しまった、という顔をした。


「それは、最初は月乃さんに勧められまして」


 コーヒーのグラスを、両手で持ち直す。


「少しならいけると分かったので、その……調子に乗っています」


 声を出して笑うと、隣の席の人がこちらを振り向いた。


「じゃあ、次は違うのを作りますね」

「お手柔らかにお願いします」


 別れ際、駅の改札の手前で、蒼さんが言った。


「今日、来ていただいてよかったです。なんというか、あの平台を、誰かに見てもらいたかったんだと思います」


 彼は鞄を持ち直して、目を逸らした。


「そういうのも、欲しいものに入りますかね」


 入ると思います、と答えた。


 その夜、店を開ける前に、買ってきた本を本棚の一番端に立てた。青い表紙が、客席から見えるように。


 零時が近くなった頃、四十代くらいの男性が、連れの人とカウンターに座った。見ない顔だ。


「車で来ちゃったんで、飲めないんですけど。何かありますか」

「お酒の入っていないものでしたら、いくつかございます」


 メニューを開いて示した。


「シンデレラと、シャーリー・テンプル。あとは、ウーロン茶とジンジャーエールになります」

「甘いのは、ちょっと苦手なんだよね。ウーロン茶で」


 男性はウーロン茶を一杯だけ飲んで、連れの人と少し話してから帰っていった。


 閉店後、いつもの報告を送った。八月に入ってから、既読は時々、三日ぶん、四日ぶんとまとめてつくようになっている。


 誰もいなくなった店で、タンブラーに氷を詰めた。ジンを量って注ぎ、ソーダで満たす。スプーンを底まで沈めて、一度だけ持ち上げる。半分に切ったライムを、そのまま落とした。マドラーを立てて添える。


 潰す人がいないので、味は決まらないままだ。しばらく置いてから、シンクに流した。

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