第二十話「ジン・リッキー」
リッキーちょうだい、と言われ戸惑ってしまった。八月に入って最初の土曜日のことだ。代わりに大野さんが作ってくれたけれど、これで合ってるかは分かんないよ、と言われた。
次の木曜日、開店前に、レジの横のメモ帳を最初のページからめくった。夏の飲み物が並んだページの隅に、癖の強い字で書いてあった。
『ジン・リッキー ジン、ソーダ、ライム半分 ライムは搾らない。客が潰す』
ジントニックのトニックを、ソーダに替えたようなものだ。あとはライムの扱いが違うらしい。
タンブラーに氷を詰めて、ジンを量って注ぐ。ソーダで満たし、バースプーンで一度だけ氷を持ち上げる。半分に切ったライムは、搾らずにそのまま落とした。マドラーを一本立てる。搾らなければ、酸っぱさは決まらない。酸っぱいのが好きな人は、自分でぐりぐり潰す。そんなに要らない人は、一回押して終わりにする。
ソーダを注ぎすぎたり、氷が足りなかったりして、見た目だけでもそれらしくなるまでに三杯かかった。私には味の確かめようがない。
開店してから、洗い場の陰でスマホを開いて、カクテル言葉を調べた。素直な心、と出てきた。
「橘さん。リッキーのカクテル言葉、素直な心なんだって」
「どこが素直なんですか」
橘さんはグラスを拭きながら、首をかしげた。
「うーん、甘くしないところ、とか?」
「ジンとソーダとライムですもんね。混ぜ物なし」
入って五ヶ月になる橘さんは、もうグラスを割らないし、常連の顔もだいたい覚えた。忙しい夜には、まだ時々、あの笑い方が戻ってくる。戻ったことに、本人が先に気づくようになった。
二十三時を過ぎた頃、扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
蒼さんだった。トートバッグがまた重そうになっている。布越しに、本の角が浮いていた。
「発売、おめでとうございます」
蒼さんは前髪に手をやって、小さく頭を下げた。カウンターの一番端に座る。
「ウーロン茶……いや、シャンディガフでお願いします」
冷蔵庫からピルスナービールと、緑のボトルを出す。月乃さんに教わった通りに作った。
蒼さんが一口飲んだところで、カウンターの中ほどの客からリッキーの注文が入った。開店前に作った手順を、そのままなぞる。半分に切ったライムを落として、マドラーを添えた。
「ライムは、お好みで潰してください」
客がマドラーでライムを押すのを、蒼さんが端の席から見ていた。
「潰さないで出すんですね」
「酸っぱさは、飲む人が決めるので」
月乃さんのメモの受け売りで答える。蒼さんは鞄からスマホを出した。
「あの、これ」
平台の一角が、青い表紙で埋まっている写真だった。後ろには、手書きのパネルが立っている。
「え、これ全部ですか」
「新宿の店なんですけど。本当は棚差し一冊のはずだったのに、担当の方が読んでくださって、こうなりました」
蒼さんの声が、いつもより速い。
「明日から一週間、フェアをやってくれるんです。僕、木曜の昼にお礼に行くんですけど」
彼は指で、コースターの向きを直した。
「……もしお時間があったら、見に来ませんか」
「私が、ですか」
「買うって言ってくださったので、せっかくならここでと思って。あ、いや、無理にとかではなく。昼は寝てらっしゃいますよね。すみません、変なこと言いました」
「行きます」
「え」
「木曜、行きます。何時ですか」
木曜日の午後一時。新宿駅の東口の階段を上がると、ビルのガラスが、昼の光を何枚ぶんも跳ね返していた。この街に昼間来るのは、辞めた日以来だ。歩道の白さも人の多さも、記憶にあるものより線が太い。
駅から少し歩くと、三年間立っていた百貨店の前に出る。一階の入口の奥に、ガラスケースの光が並んでいた。足は止めずに、通りの反対側の書店へ入る。平台は、入ってすぐの一等地にあった。
青い表紙が、想像していたよりずっと多く積まれていた。パネルには、書店員さんの手書きの文字がびっしり入っている。何度も書き直したらしく、行の間隔が途中で詰まっていた。
若い女の人が一冊手に取る。裏返してあらすじを読み、少しのあいだ持っていたけれど、やがて元の場所に戻して行ってしまった。そのあとに来た中年の男の人は、パネルも読まずに一冊掴んで、レジのほうへ歩いていく。棚の陰から、それを見ていた。買われるのも、戻されるのも、一分とかからない。
「黒田さん」
振り返ると、蒼さんが立っていた。スーツを着ていて、店で見る時とは背格好が違う気がする。
「来てくださったんですね」
「はい。すごいですね、これ」
蒼さんは真顔で頷いた。
「僕、今日ここに来るまでに何回も写真撮ってます」
一冊を手に取って、レジへ持っていった。カバーをかけますかと聞かれて、いえ、と答える。去年の秋に買った文庫本には、店員さんがかけてくれたカバーが、今もついたままだ。この本には、表紙が見えていてほしかった。
書店を出たところで、どこにしますか、と聞かれる。任せます、と答えると少し歩いた先のコーヒースタンドに入ることになった。
「何にしますか」
蒼さんがメニューの上のほうを指した。
「なんでもいいです。蒼さんと同じもので」
メニューの上で、蒼さんの指が止まった。少しして、アイスコーヒーを二つ頼む。窓際の席で、買ったばかりの本を膝に載せた。
「黒田さん、変なこと聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「お店では、いつもお客さんに、何を飲みたいか聞きますよね。甘いのとそうでないのなら、どっちがいいですか、とか。強くないのがいいですか、とか」
「ああ……はい。仕事なので」
「リッキーも、ライムはお客さんに潰してもらってましたよね。なのに、自分のぶんは決めないんですね。店を選ぶ時も、任せますって言ってました」
蒼さんは、ストローの袋をまっすぐに畳んでいた。
「すみません、責めてるわけじゃないんです。ずっとそうなのかなと思って」
接客業ですから、とか、人に決めてもらうほうが楽なので、とか、返す言葉ならいくらでも浮かんだ。どれも、売り場で三年間使ってきた言葉だった。
「……何が欲しいか、分からないんです」
自分の声が、思ったより小さかった。
「昔からです。子どもの頃から、欲しいって言ったことがあんまりなくて。姉がいるんですけど、彼女はちゃんと欲しがれる人で」
蒼さんは、黙って頷いた。
「それで、そのうち、本当に分からなくなりました」
膝の上の、青い薔薇を見た。
「一つだけ、分かってることはあります。私、お酒が飲めないんです。舐めただけで、顔が真っ赤になるくらい」
蒼さんが顔を上げた。
「バーで働いてるのに、変ですよね。うちの店には、飲めない人のためのものが二つあるんです。シンデレラと、シャーリー・テンプル。どっちも甘いんですよ」
「甘いのは、苦手ですか」
「苦手というか、たぶん、そういうことじゃないんです。あの二つは、どっちも私が来る前からあったので」
氷が溶けて、グラスの中で小さく鳴った。
「お客さんには、みんな、いつものがあるんです。金曜のマンハッタンとか、木曜のギムレットとか。私、十ヶ月で何百杯も作ってきたのに、自分のいつものは、一つもないんです」
「それはずいぶん、寂しいですね」
まっすぐに言われて、笑ってしまった。
「そうですね。寂しいです」
二人とも黙って、外を見ていた。信号が変わって、人が渡って、また変わる。
「僕も、飲めないんですよ」
隣で、蒼さんが言った。
「昔から、味が苦手で。バーに通っておいて、ずっとウーロン茶でした」
「でも、シャンディガフも、この前のモヒートも」
蒼さんが、しまった、という顔をした。
「それは、最初は月乃さんに勧められまして」
コーヒーのグラスを、両手で持ち直す。
「少しならいけると分かったので、その……調子に乗っています」
声を出して笑うと、隣の席の人がこちらを振り向いた。
「じゃあ、次は違うのを作りますね」
「お手柔らかにお願いします」
別れ際、駅の改札の手前で、蒼さんが言った。
「今日、来ていただいてよかったです。なんというか、あの平台を、誰かに見てもらいたかったんだと思います」
彼は鞄を持ち直して、目を逸らした。
「そういうのも、欲しいものに入りますかね」
入ると思います、と答えた。
その夜、店を開ける前に、買ってきた本を本棚の一番端に立てた。青い表紙が、客席から見えるように。
零時が近くなった頃、四十代くらいの男性が、連れの人とカウンターに座った。見ない顔だ。
「車で来ちゃったんで、飲めないんですけど。何かありますか」
「お酒の入っていないものでしたら、いくつかございます」
メニューを開いて示した。
「シンデレラと、シャーリー・テンプル。あとは、ウーロン茶とジンジャーエールになります」
「甘いのは、ちょっと苦手なんだよね。ウーロン茶で」
男性はウーロン茶を一杯だけ飲んで、連れの人と少し話してから帰っていった。
閉店後、いつもの報告を送った。八月に入ってから、既読は時々、三日ぶん、四日ぶんとまとめてつくようになっている。
誰もいなくなった店で、タンブラーに氷を詰めた。ジンを量って注ぎ、ソーダで満たす。スプーンを底まで沈めて、一度だけ持ち上げる。半分に切ったライムを、そのまま落とした。マドラーを立てて添える。
潰す人がいないので、味は決まらないままだ。しばらく置いてから、シンクに流した。




