第十九話「モヒート」
七月も半ばになると、昼のあいだに溜め込んだ熱が、夜になっても路地から抜けない。扉を開けるたびに湿った空気が流れ込んでくるので、この時期は氷の減りが早い。
開店前の準備には、三時間かかるようになっていた。月乃さんが一時間で済ませていたことを、手順を一つずつ確かめながらやる。昼過ぎに起きて、何も食べないまま店へ向かう日が、週に二日はあった。
その夜は、開店前からミントの葉を洗っていた。水気はよく切り、黒ずんだ葉は抜く。濡れたままだと香りが飛ぶし、一枚でも混ざれば見た目が駄目になる。月乃さんは夏になったらモヒートがよく出るから、と言っていた。
葉を一枚ずつ裏返しながら、指先で軽く弾いてみる。青くて鋭い匂いのあとから、少しだけ甘さがやってきた。
二十二時を過ぎた頃、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
蒼さんのトートバッグが、今夜は薄かった。分厚いゲラの束が入っていないらしく、肩の位置がいつもより高い。クマは相変わらずなのに、目だけが冴えている。
「こんばんは」
「今日は、荷物が軽そうですね」
蒼さんは自分の鞄を見下ろした。
「ああ、ゲラが全部手を離れたので」
カウンターの一番端に座ると、注文より先に、鞄の口を開けた。
「これ、見てもらってもいいですか」
鞄から、一冊の本が出てきた。濃い青のカバーに、女性の姿が白く抜かれている。腕いっぱいに、青い薔薇の花束を抱えていた。
「……綺麗ですね」
「見本なんです。発売はまだなんですけど、刷り上がったのが今日、何冊か回ってきて」
蒼さんは本を、カウンターの上にそっと置いた。私はその横に水のグラスを出して、エプロンで両手を拭いた。
「見てもいいですか」
蒼さんは返事の代わりに、本をこちらへ滑らせた。
持ち上げると、思っていたより重かった。紙が厚い。カバーの表面がざらついていて、指の腹に引っかかって存在を伝えてくる。開いて、一番後ろのページを見た。奥付のところに、見本と四角い印が押してある。
「本当に、本なんですね」
間の抜けたことを言ってしまったと思う。
蒼さんはグラスの水滴を指でなぞった。
「ずっとデータで見てたので。画面と、紙のゲラと。それが今日、いきなり物になって届いて」
本を閉じて、彼の前に戻した。
「今日は、何になさいますか。お仕事が終わったお祝いなら、それらしいものをお作りしますけど」
「それが、終わってないんですよね、まだ」
蒼さんは苦い顔で、指を一本折った。
「これから書店さんを回るんです。並べてもらわないと、そもそも人の目に入らないので。それが来週から二週間」
もう一本、指が折れる。
「発売してからは、動きを見て、追加で刷るかどうか。初速が悪いと、最初の一週間でほぼ決まります。上を説得して、反対を押し切った企画なので」
蒼さんは青い表紙を見ていた。
「売れなかったら、負けるのはあの人なんです。この本を書いた人。僕は次の企画をやります。何冊か落としても、会社にいる限り次があるので。でも作家さんは違う。この本が売れなかったっていう事実だけが、あの人の経歴に残るんです」
彼の前には、まだ水のグラスしかない。
「ミント、ちょうど洗ったところなんです。冷たいの、作りましょうか」
「じゃあ、お願いします」
ミントの葉を四、五枚取って、背の低い厚手のグラスに入れた。ライムを櫛形に切り、二切れ搾ってからグラスに落とす。砂糖を加えて、ペストルの先を差し込んだ。
軽く二回押した。青い匂いが、下から立ち上ってくる。
砕いた氷をグラスいっぱいに詰める。ホワイトラムを注ぎ、ソーダで満たす。バースプーンを底まで沈めて、氷を持ち上げるように一度だけ動かした。最後に、ミントの葉先を氷の上に挿す。
「お待たせいたしました。モヒートです」
白く曇ったグラスの中で、緑が氷に挟まれて透けていた。蒼さんはグラスに鼻を近づけてから、一口飲んだ。
「……すごい」
「お口に合いましたか」
「冷たいです。歯にしみる」
彼はもう一口飲んだ。
「あと、なんか、頭のうしろのほうが涼しくなります。これ、僕、今日みたいな日に一番必要なやつですね」
言い方が真剣だったので、笑ってしまった。半分ほど飲んだところで、蒼さんが表紙に指を置いた。
「これの青い薔薇なんですけど。昔は、花言葉が『不可能』だったんですよ。自然には咲かないし、品種改良でもどうしても青くならなくて」
「じゃあ、この薔薇は」
「作れたんです。二十年くらい前に、日本の会社が。それで、花言葉が変わりました」
蒼さんはグラスを置いた。
「今は『夢かなう』です」
私は表紙の花束を、指でなぞった。
「作者さんが、それを知っててこの花にしたのかは、分からないんですけど」
「聞いてないんですか」
「聞けないです。そういうのは、聞くと壊れるので。指摘すると、次から意識しちゃうんです」
蒼さんは少し得意そうな顔をした。
「だから、表紙にしました。何も言わずに」
その本を、もう一度見た。顔の見えない女性が、抱えきれないほどの青い薔薇を持っている。
拭いていたグラスを、棚に戻した。
「あの、これ、カクテル言葉があるんですけど」
「モヒートに?」
「はい。でも、言うと、わざとみたいなので」
「気になります、それ」
「……『心の渇きを癒して』です」
蒼さんはグラスを持ったまま黙って、それから声を出して笑った。
「渇いてるの、そんなに分かりました?」
「はい。入ってきた時から、顔に書いてありました」
彼はそのまま、グラスの残りを飲み干した。
「おかわり、いいですか」
「お強くないですよね。大丈夫ですか」
「もう一杯だけなら」
グラスがまた空になった頃、帰り支度を始めた蒼さんが言った。
「これ、よかったら読んでみてください」
「買います」
「あ、いえ、一冊持ってきますよ。何冊かもらえるので」
「いえ、買います」
蒼さんは鞄を閉じかけたまま、こちらを見た。
「なんでですか」
「……一冊でも多く売れたほうが、良いかなって」
彼は鞄の持ち手を、握り直した。
「ありがとうございます」
鞄を肩にかけて、蒼さんは立ち上がった。来た時よりも、背筋が伸びている。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました。お気をつけて」
空になったグラスの底に、ミントの葉が残っていた。シンクに落として、水を流す。
カウンターの端の、いつも蒼さんが座る席を見た。来月には、本棚にあの本を立てておくのもいいと思う。




