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憂鬱とシンデレラ  作者: 水瀬 結
第五章
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第十八話「マンハッタン」

 六月の終わりの土曜日、夕方の五時を過ぎた頃に、スマホが短く震えた。月乃(つきの)さんからだった。


『ごめん。今日休む』


 去年の冬、食あたりで休んだ時は、謝ったあとに『生牡蠣(なまがき)最高』と書き足してきた。続きが来るかと、画面を開いたまましばらく待った。


 『了解です。店、開けます』と返して、シャツに着替える。


 十九時四十分。扉の前に立っても、中から何も聞こえなかった。ドアノブには鍵がかかっている。鞄の底から合鍵を探し出して、開けた。冷凍庫には、割られていない氷の塊が、白く曇ったまま並んでいる。


 二十時の少し前に、大野さんが来た。


「あれ、月乃さんは」


 スマホの画面を見せると、大野さんはそこに目を落としてから、エプロンを手に取った。紐を結び終えるまで、俯いていた。


 氷は製氷機のもので間に合わせるしかない。カクテルは私が作り、ウイスキーの注文だけは大野さんが引き受けてくれた。ジャズが少し大きく聞こえる。


 常連の何人かは、カウンターの奥に目をやってから座った。今日は店長さんは、と聞かれるたびに、お休みです、と答える。三人目に答えたあたりで、自分の声が百貨店にいた頃の高さに戻りかけているのに気づいた。


 閉店の少し前、大野さんがバックヤードから、ラップに包んだおにぎりを二つ持ってきた。


「うちの夕飯の残り。今日、賄(まかな)いないでしょ。食べときな」


 具は鮭だった。カウンターの裏で、立ったまま二つとも食べた。


 日曜の夕方にも、一行だけ届いた。


『今日も休む』


 閉店後、大野さんと並んでグラスを拭いた。


「月乃さんのこと、何か知ってますか」


 大野さんは拭いていたシェイカーを棚に戻して、布巾を肩にかけた。


「……私から言うことじゃないから。それより、氷どうしようね。あれ、私は無理かな」


 私が何か言う前に、大野さんはエプロンを外していた。見送って、店の鍵を閉める。


 マンションの外廊下に出ると、夜明け前の風が湿っていた。柵の前を、壁際に寄って通る。そのまま隣の扉の前まで行って、足が止まった。


 インターホンは押さずに、スマホに打ち込んだ。


『生きてますか』


 返事はない。ドアポストの口から、チラシの端がはみ出していた。自分の部屋に戻って、シャツも脱がずに横になった。


 昼過ぎに目を覚ましても、『生きてますか』の横に既読の文字はない。


 月曜はいつもより二時間早く店に入った。十八時ちょうどに、扉が叩かれた。段ボールを積んだ台車の横に、紺の前掛けをした男の人が立っている。三十代の半ばくらいで、日に焼けていた。


「どうも、西村酒店です。あれ、今日は九条(くじょう)さんじゃないんですね」

「九条は、今週は休んでおりまして。アルバイトの、黒田(くろだ)です」

「ああ、黒田さん。お名前だけは聞いてます」


 西村さんは伝票をめくった。


「土曜に、注文の電話がなかったんですよ。いつもは、そこで次の週のぶんをもらうんですけど」


 バックバーを振り返った。発注の仕方は、何も聞いていない。


「いつもので入れときますね。足りないもんが出たら、黒田さんから電話ください」


 西村さんは伝票の裏に太いマジックで番号を書いて、こちらへ寄越した。


 台車の音が路地を出ていってから、冷凍庫の氷の塊を作業台に出した。月乃さんは毎晩、開店前にこれを割る。アイスピックでグラスに合う大きさに分け、ロックに使うぶんは、さらに角を落として丸くする。


 ピックの先は、思ったところに入らなかった。割れる線が、私の決めた線から外れていく。大きさの揃わないかけらが作業台に散らばって、丸くしようとした一つは、途中で二つに割れた。手のひらには、赤い筋が一本走った。


 出勤してきた山﨑(やまさき)さんも一つ試して、黙って首を振る。冷凍庫の扉に貼ってあった氷屋の番号に電話をかけて、しばらくは角氷を届けてもらうことにした。


 あとから来た橘(たちばな)さんが、バケツに残ったいびつなかけらを覗き込んだ。


「なんですか、これ」

「……私が割ったの」

 橘さんは頭に手を当てた。

「現代アートかと思いました」

 橘さんは製氷機の前へ行って、いつものように頭を下げた。山﨑さんが横を向いて咳をした。


 火曜の昼に、既読がついた。


『生きてる』


 出勤するまでに、その画面を何度もつけ直した。


 水曜の午後二時に、長いメッセージが一通届いた。店の家賃の引き落とし日から、酒屋への支払いの締め日まで、日付と金額が一行ずつ並んでいる。


『営業は当面、木曜から日曜。二十時から一時まで』

『黒田さんの時給は、今月から百円上げる』


 具合のことは、最後まで一行もなかった。レジの横の引き出しにある、角の丸くなった名刺を思い出す。『分かりました』と返した。頑張ってください、も、無理しないでください、も、打ちかけて消した。


 その週から、閉店後は帰り道のコンビニへ寄る。水と、ゼリーの飲み物。日によって、バナナかパンを足す。袋の口を軽く結んで、隣の扉の前に置く。店を開けた夜は、もう一つ、短い報告を送る。


『今日、開けました。お客さん十一人です』


 木曜の夕方、営業日と時間が変わることをマジックで書いて、扉に貼った。貼ってみると、自分の字の丸さが目につく。


 休みが始まって最初の金曜日は、店が混んだ。二十三時前に、マンハッタンの人が来た。今夜も一人で、カウンターに座るなり、中にいる私と山﨑さんの顔を順に見た。


「今日は、あの人は」

「しばらく、お休みをいただいています」

「そう」


 男性はおしぼりで手を拭いた。ミキシンググラスに角氷を落とすと、目だけがそれを追ってくる。


「氷、変えたんだね」

「すみません。店長みたいには、割れなくて」

「いいよ。私のはどうせ漉(こ)すんだから」


 ウイスキーが二に、ベルモットが一。甘口のベルモットを取ろうと冷蔵庫を開けると、一番奥に、ラベルの波打った小さな瓶が見えた。月乃さんがあれを手に取るところは、一度も見たことがない。


 ビターズを一滴落として、バースプーンを差し込む。長く、ゆっくりと回した。カクテルグラスに注いで、最後に、チェリーを沈める。


 男性はグラスを置いた私の手を見た。


「その手は、氷?」

「月曜に、割ろうとして」


 男性は一口飲んで、頷いた。


 日付が変わる少し前に入ってきた三人連れは、揃って酔っていた。指を鳴らして橘さんを呼びつけ、頼んだものと違うと言っては作り直させる。どれも、頼まれた通りの一杯だった。カウンターの中では私と山﨑さんがシェイカーを振り続けていて、手が空かない。


「申し訳ございません。すぐにお作り直しいたします」


 同じ言葉が三度目になる頃には、橘さんの声が一段ずつ高くなっていた。口角は上がったまま、下りてこない。


 零時半を過ぎて、三人が帰っていく。扉が閉まると、橘さんの肩が一度落ちて、すぐに戻った。布巾を手に、テーブルへ向かう。


「橘さん」

「はい! すぐ拭きます」

「拭かなくていいから、ちょっと来て」


 戻ってきた橘さんは、まだ笑っていた。


「え、私、何かやりましたか」

「やってないよ」


 カウンターを出て、橘さんの肩に手を置いた。


「無理して笑わなくて大丈夫。嫌なお客さんにまで、頭下げなくていいから」


 橘さんが私を見上げた。持ち上がったままだった口角が、ゆっくり下りた。


「……はい」


 閉店後の報告には、一つ書き足した。


『今日、開けました。お客さん十九人です。マンハッタンの人が来ました』


 橘さんのことは書かなかった。翌日の昼過ぎに外廊下を覗くと、袋はなくなっていた。

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