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憂鬱とシンデレラ  作者: 水瀬 結
第四章
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第十七話「ソルティドッグ」

 六月の最後の木曜日。二十二時きっかりに、ドアベルが鳴った。


「いらっしゃいませ、佐代子(さよこ)さん」


 二十二時を過ぎて来たことも、二十二時前に来たこともない。私がこの店で働き始めてから、八ヶ月間ずっとそうだった。


 佐代子さんは決まった席に座り、鞄を足元に置いた。仕立てのいいスーツも、乱れのない髪も前のままで、夏物に替わっているぶん、軽やかに見える。


「こんばんは。今日、少しだけ長居してもいいかしら」

「もちろんです」


 私はおしぼりと水を出した。


「ギムレットを。硬めでお願い」

「かしこまりました」


 月乃(つきの)さんがこちらを見た。私は一度だけ目を合わせて、それからバックバーに手を伸ばした。


 その時、月乃さんの髪の分け目に、暗い色が覗いているのが見えた。いつもは根元まで明るい金色なのに、指一本分ほど伸びている。売り場にいた頃の癖で、そういうところにばかり目が行く。


 ボトルを下ろすあいだ、背中に月乃さんの視線を感じていた。


 冷凍庫からグラスを出す。外側がすでに白く曇っている。ジンを量る。ライムを搾って、量る。シェイカーに氷を入れ、蓋を閉め、構える。低く、短く、十数回。注いだ液体が揺れる。


「お待たせいたしました」


 佐代子さんはグラスの脚を持ち、一口飲んで、それから私を見た。


「あら」

「硬すぎましたか」

「あなたが作ったのね」


 彼女はもう一口飲んで、グラスを置いた。


「上手になったわね」


 私は頭を下げた。カウンターの下で、指先を握り込む。


 半分ほど飲んだところで、佐代子さんが言った。


「実はね、来月、福岡に行くの」


 私は拭きかけのグラスを置いた。


「出張、ですか」

「異動。転勤よ。向こうに新しく拠点を作ることになってね。三人でやるの。私と、あと若いのが二人。今いる部署は五十人いるから、まあ、みんなびっくりしてたわ」


 佐代子さんは短く笑った。


「同期にね、『大丈夫なの』って三回聞かれたわ。私が何かやらかしたと思ってるのよ、あれ」

「佐代子さんが、ですか」

「そう思われても仕方ないわ。普通は行かないもの、立ち上げの三人なんて」


 彼女はグラスを小さく揺らした。


「自分で手を挙げたの。社内の公募でね。締切の日に出したわ。三十分前ぐらいかしら」

「ぎりぎりまで、迷われたんですか」

「ねえ黒田(くろだ)さん。私、四十六なの。あと何年働けると思う?」


 答えられずにいると、佐代子さんは自分で続けた。


「定年まで十四年。でも、新しいことを面白いと思える頭は、たぶん十年ももたないの」


 その言い方には、言い訳なんて一つも入っていない。


「去年、仕事を取られたって話、したわよね。あれね、あとから考えたら、当たり前だったの」


 彼女はグラスに両手を添えた。


「私、これまでずっと、誰かが作ったものを大きくする仕事しかしてこなかったのよ。もともとあったものを引き継いで、磨いて、数字を伸ばして。それは得意だったし、評価もされた。取られたあのプロジェクトだって、何年も準備はしたけど、始めたのは前の部長なの」

「でも、そこまで育てたのは佐代子さんですよね」

「育てただけよ。あれは最初から、誰のものでもなかったの。だから取られたのよ」


 佐代子さんはグラスを傾け、残りを飲み干した。


「今度は、何もないところから作るわ。取られたら、その時は本当に私が弱かったってことでしょう。そのほうが、まだ納得できるもの」


 空になったグラスが、カウンターに置かれた。私はそのグラスを引き取った。いつもならここで二杯目のギムレットを作る。シンクの縁に手をついた。


「佐代子さん。二杯目、私に選ばせていただけませんか」


 佐代子さんが少し目を見開いた。


「あら。どうしたの、急に」

「前に、おっしゃいましたよね。ギムレットは、本当は苦手だって」


 佐代子さんは、使ったおしぼりを畳み直した。


「言ったかしらね」

「言いました。去年の、十一月です。あの時、私、何も返せなかったんです」

「そんなことないでしょう」

「素敵な方だったんですね、って言いました」


 私は彼女の目を見た。


「あれ、私が百貨店にいた頃の声でした。お客様の身の上話に相槌を打つ時の。中身は何も入っていませんでした」


 佐代子さんは返事をしなかった。


「ずっと考えてました。あの時、何を言えばよかったのか。半年考えて、まだ分からないんです」

「真面目ねえ」

「でも、一つだけ思ったことがあって。苦手なものを、これから先もずっと飲まなくてもいいんじゃないかって」


 言い終えてから、ひどいことを言った気がした。客が何を飲むかは、客が決めることなのに。


 佐代子さんは、グラスのなくなったコースターを見ていた。


「……そうね」


 彼女はカウンターの上で指を組んだ。


「あの人と別れてから、一年半になるの。ずっと同じもの飲んでたわ。馬鹿みたいでしょう」


 私は首を振らなかった。


「馬鹿みたいなのよ。本当は」


 佐代子さんは顔を上げて笑った。


「二杯目、黒田さんにお願いするわ。何か、選んで」


 私は冷凍庫から、口の広いグラスを出した。レモンを一切れ切り、グラスの縁を濡らす。皿に広げた塩の上で、縁をゆっくりと転がした。白い結晶が細く均一に張りついていく。雪国の時と同じ手順で、載せるのが塩になる。


 氷を詰め、ウォッカを注ぐ。そこへ、絞りたてのグレープフルーツジュースを満たした。バースプーンを底まで沈めて、数回、軽く回す。淡い黄色がグラスの中できらめいている。


「お待たせいたしました。ソルティ・ドッグです」


 佐代子さんはグラスを目の高さまで運んで、縁についた塩を見た。


「綺麗ね」


 縁の塩を舐めて、眉を上げる。一口飲んで、目を閉じた。


「苦い」

「グレープフルーツなので」

「それに、しょっぱいわ」


 彼女は二口目を飲んで、それからグラスの縁を指でなぞった。指先についた塩を、舌の先で取った。


「涙みたいね」

「……すみません、狙ってはいないんです」

「狙ってなくてこれなら、才能よ」


 佐代子さんが声を上げて笑うのを、私は初めて見た。


「今日は喋りすぎたわ。このままだと泣くもの」

「泣いてもいいと思います」

「駄目よ。ここで泣くのは、もう済ませたの」


 佐代子さんはグラスに目を落とした。


「あの時ね、私、この店に来なかったら、たぶん本当に消えてたと思うの。大げさじゃなくてよ。仕事を取られて、離婚して、四十五で、何も残ってなくて。木曜日にここに来ることだけが、一週間の中で唯一決まってる予定だったの。毎週、この時間にここが開いてるってだけで、けっこう保つものなのよ」


 カウンターの奥で、月乃さんがグラスを拭く音が途切れた。二杯目を空にした佐代子さんは、伝票を持って立ち上がった。


「ごちそうさま」

「ありがとうございました」


 彼女は財布をしまう手を止めた。


「あ、そうだ。前にね、私、あなたに嫌なこと言ったわよね。若いからいいわね、って。何にだってなれるわ、って」


 働き始めて、二週間ほど経った頃のことだ。何もない人間ですから、と返すのが精一杯だった。


「あれ、八つ当たりよ。ごめんなさいね」

「少し、こたえました」

「でしょうね。私みたいに全部空っぽになってからじゃ遅い、とかも言ったもの。あれも間違い」


 佐代子さんは鞄を肩にかけた。


「遅くなかったわ。四十六でも、まだ何か始められるみたい。あなたも、たぶん大丈夫よ」


 彼女は入口へ向かい、扉の前で足を止めた。


「福岡から出てくることがあったら、また来るわ」

「お待ちしております。木曜日じゃなくても、いつでも」


 シンクの横に、空のグラスが二つ並んでいる。ほとんど無色の液体が入っていた脚の細いグラスと、縁に塩の残った、口の広いグラスだ。


「黒田さん。ギムレット、作れるようになったね」


 背中から、月乃さんの声がした。


「……はい」

「じゃあ、もう教えることないかな」


 急な言葉に私は振り返った。月乃さんは氷を割っていて、こちらを見ていなかった。

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