第十七話「ソルティドッグ」
六月の最後の木曜日。二十二時きっかりに、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ、佐代子さん」
二十二時を過ぎて来たことも、二十二時前に来たこともない。私がこの店で働き始めてから、八ヶ月間ずっとそうだった。
佐代子さんは決まった席に座り、鞄を足元に置いた。仕立てのいいスーツも、乱れのない髪も前のままで、夏物に替わっているぶん、軽やかに見える。
「こんばんは。今日、少しだけ長居してもいいかしら」
「もちろんです」
私はおしぼりと水を出した。
「ギムレットを。硬めでお願い」
「かしこまりました」
月乃さんがこちらを見た。私は一度だけ目を合わせて、それからバックバーに手を伸ばした。
その時、月乃さんの髪の分け目に、暗い色が覗いているのが見えた。いつもは根元まで明るい金色なのに、指一本分ほど伸びている。売り場にいた頃の癖で、そういうところにばかり目が行く。
ボトルを下ろすあいだ、背中に月乃さんの視線を感じていた。
冷凍庫からグラスを出す。外側がすでに白く曇っている。ジンを量る。ライムを搾って、量る。シェイカーに氷を入れ、蓋を閉め、構える。低く、短く、十数回。注いだ液体が揺れる。
「お待たせいたしました」
佐代子さんはグラスの脚を持ち、一口飲んで、それから私を見た。
「あら」
「硬すぎましたか」
「あなたが作ったのね」
彼女はもう一口飲んで、グラスを置いた。
「上手になったわね」
私は頭を下げた。カウンターの下で、指先を握り込む。
半分ほど飲んだところで、佐代子さんが言った。
「実はね、来月、福岡に行くの」
私は拭きかけのグラスを置いた。
「出張、ですか」
「異動。転勤よ。向こうに新しく拠点を作ることになってね。三人でやるの。私と、あと若いのが二人。今いる部署は五十人いるから、まあ、みんなびっくりしてたわ」
佐代子さんは短く笑った。
「同期にね、『大丈夫なの』って三回聞かれたわ。私が何かやらかしたと思ってるのよ、あれ」
「佐代子さんが、ですか」
「そう思われても仕方ないわ。普通は行かないもの、立ち上げの三人なんて」
彼女はグラスを小さく揺らした。
「自分で手を挙げたの。社内の公募でね。締切の日に出したわ。三十分前ぐらいかしら」
「ぎりぎりまで、迷われたんですか」
「ねえ黒田さん。私、四十六なの。あと何年働けると思う?」
答えられずにいると、佐代子さんは自分で続けた。
「定年まで十四年。でも、新しいことを面白いと思える頭は、たぶん十年ももたないの」
その言い方には、言い訳なんて一つも入っていない。
「去年、仕事を取られたって話、したわよね。あれね、あとから考えたら、当たり前だったの」
彼女はグラスに両手を添えた。
「私、これまでずっと、誰かが作ったものを大きくする仕事しかしてこなかったのよ。もともとあったものを引き継いで、磨いて、数字を伸ばして。それは得意だったし、評価もされた。取られたあのプロジェクトだって、何年も準備はしたけど、始めたのは前の部長なの」
「でも、そこまで育てたのは佐代子さんですよね」
「育てただけよ。あれは最初から、誰のものでもなかったの。だから取られたのよ」
佐代子さんはグラスを傾け、残りを飲み干した。
「今度は、何もないところから作るわ。取られたら、その時は本当に私が弱かったってことでしょう。そのほうが、まだ納得できるもの」
空になったグラスが、カウンターに置かれた。私はそのグラスを引き取った。いつもならここで二杯目のギムレットを作る。シンクの縁に手をついた。
「佐代子さん。二杯目、私に選ばせていただけませんか」
佐代子さんが少し目を見開いた。
「あら。どうしたの、急に」
「前に、おっしゃいましたよね。ギムレットは、本当は苦手だって」
佐代子さんは、使ったおしぼりを畳み直した。
「言ったかしらね」
「言いました。去年の、十一月です。あの時、私、何も返せなかったんです」
「そんなことないでしょう」
「素敵な方だったんですね、って言いました」
私は彼女の目を見た。
「あれ、私が百貨店にいた頃の声でした。お客様の身の上話に相槌を打つ時の。中身は何も入っていませんでした」
佐代子さんは返事をしなかった。
「ずっと考えてました。あの時、何を言えばよかったのか。半年考えて、まだ分からないんです」
「真面目ねえ」
「でも、一つだけ思ったことがあって。苦手なものを、これから先もずっと飲まなくてもいいんじゃないかって」
言い終えてから、ひどいことを言った気がした。客が何を飲むかは、客が決めることなのに。
佐代子さんは、グラスのなくなったコースターを見ていた。
「……そうね」
彼女はカウンターの上で指を組んだ。
「あの人と別れてから、一年半になるの。ずっと同じもの飲んでたわ。馬鹿みたいでしょう」
私は首を振らなかった。
「馬鹿みたいなのよ。本当は」
佐代子さんは顔を上げて笑った。
「二杯目、黒田さんにお願いするわ。何か、選んで」
私は冷凍庫から、口の広いグラスを出した。レモンを一切れ切り、グラスの縁を濡らす。皿に広げた塩の上で、縁をゆっくりと転がした。白い結晶が細く均一に張りついていく。雪国の時と同じ手順で、載せるのが塩になる。
氷を詰め、ウォッカを注ぐ。そこへ、絞りたてのグレープフルーツジュースを満たした。バースプーンを底まで沈めて、数回、軽く回す。淡い黄色がグラスの中できらめいている。
「お待たせいたしました。ソルティ・ドッグです」
佐代子さんはグラスを目の高さまで運んで、縁についた塩を見た。
「綺麗ね」
縁の塩を舐めて、眉を上げる。一口飲んで、目を閉じた。
「苦い」
「グレープフルーツなので」
「それに、しょっぱいわ」
彼女は二口目を飲んで、それからグラスの縁を指でなぞった。指先についた塩を、舌の先で取った。
「涙みたいね」
「……すみません、狙ってはいないんです」
「狙ってなくてこれなら、才能よ」
佐代子さんが声を上げて笑うのを、私は初めて見た。
「今日は喋りすぎたわ。このままだと泣くもの」
「泣いてもいいと思います」
「駄目よ。ここで泣くのは、もう済ませたの」
佐代子さんはグラスに目を落とした。
「あの時ね、私、この店に来なかったら、たぶん本当に消えてたと思うの。大げさじゃなくてよ。仕事を取られて、離婚して、四十五で、何も残ってなくて。木曜日にここに来ることだけが、一週間の中で唯一決まってる予定だったの。毎週、この時間にここが開いてるってだけで、けっこう保つものなのよ」
カウンターの奥で、月乃さんがグラスを拭く音が途切れた。二杯目を空にした佐代子さんは、伝票を持って立ち上がった。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
彼女は財布をしまう手を止めた。
「あ、そうだ。前にね、私、あなたに嫌なこと言ったわよね。若いからいいわね、って。何にだってなれるわ、って」
働き始めて、二週間ほど経った頃のことだ。何もない人間ですから、と返すのが精一杯だった。
「あれ、八つ当たりよ。ごめんなさいね」
「少し、こたえました」
「でしょうね。私みたいに全部空っぽになってからじゃ遅い、とかも言ったもの。あれも間違い」
佐代子さんは鞄を肩にかけた。
「遅くなかったわ。四十六でも、まだ何か始められるみたい。あなたも、たぶん大丈夫よ」
彼女は入口へ向かい、扉の前で足を止めた。
「福岡から出てくることがあったら、また来るわ」
「お待ちしております。木曜日じゃなくても、いつでも」
シンクの横に、空のグラスが二つ並んでいる。ほとんど無色の液体が入っていた脚の細いグラスと、縁に塩の残った、口の広いグラスだ。
「黒田さん。ギムレット、作れるようになったね」
背中から、月乃さんの声がした。
「……はい」
「じゃあ、もう教えることないかな」
急な言葉に私は振り返った。月乃さんは氷を割っていて、こちらを見ていなかった。




