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憂鬱とシンデレラ  作者: 水瀬 結
第四章
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第十六話「サイドカー」

 五月の終わりの火曜日は、二十三時を回っても客が二組しか来なかった。カウンターの中には、私と月乃(つきの)さんしかいない。スマホが震えたのは、その二組が帰ったあとだった。


『今日、行っていい?』

『友達も連れてく』

『もう出た』


 瑠依(るい)から三通が二秒差で届いた。聞く気がない。


「月乃さん。姉が来るそうです。友達連れてくるって」

「はいはい」


 月乃さんはグラスを磨いたまま答えた。国民的女優が来ようが、雨に濡れない幽霊が来ようが、たぶん同じ顔をしているんだろうなと思う。


 二十分ほどして、ドアベルが鳴った。先に瑠依が入ってきて、後ろから、小柄な女性が続いた。灰色のパーカーに黒縁(くろぶち)の眼鏡で、化粧っ気のない顔をしている。


「いらっしゃいませ」

「こんばんはー。あ、空いてるね。よかった、火曜だから空いてると思ったんだよね」


 瑠依は薄手のジャケットを脱いで、右奥から二番目の席を引いた。


「ほら座って。ここ、一番奥は出る時通りにくいから」

「ん」


 連れの人は椅子に腰を下ろすなり、眼鏡を外して、目頭を指で押さえた。顎の線で切りそろえた黒髪が、頬にかかる。


 カラン、と音がした。月乃さんが磨いていたグラスが、手を離れてカウンターに当たった音だ。


 私はその人の顔を再確認した。白石(しらいし)小春(こはる)だった。


 テレビをつければ必ずいるし、駅を歩けばポスターがある。去年いちばん客の入った映画で主演して、賞という賞を持っていった。瑠依も有名だが、正直に言えば、格が違う。


「本日はご来店いただきまして、誠にありがとうございます。何かご不便がございましたら、遠慮なくお申し付けくださいませ」


 月乃さんが頭を下げた。深く、両手を体の前で組んで。


 私は三秒ほど、目の前のことが飲み込めなかった。客に頭を下げるところを、私はここに来てから一度も見たことがない。いらっしゃいませも、たいてい顎を引くだけで済ませている。


 私は月乃さんに身を寄せて、声を落とした。


「月乃さん、なんですか、その喋り方」

「普通でしょ、こんなの」

「普通じゃないです。普段いらっしゃいませも言わないじゃないですか」

「言ってるよ。心の中で」


 白石さんが月乃さんを見上げた。


「……どうも。白石です」

「はい。存じ上げております」

「存じ上げております」


 彼女の持つオーラか何かに気圧(けお)されて、私まで復唱していた。


 瑠依が、面白いものを見つけた顔でカウンターに肘をついた。


「あれ、ちょっと待って。店長さん、もしかして小春のこと知ってる感じ?」

「一般常識の範囲です」

「小春、何飲む?」

「なんでもいい」

「じゃあ私が決めたげる」

「あー……やっぱり、自分で頼む」


 白石さんはメニューを引き寄せて開いたが、そのまま動かなくなった。文字が入ってきていない顔をしている。目の下の影が、テレビで見るよりずっと濃くて、そこだけ光が当たっていないように見えた。


「すみません、やっぱりなんでもいいです。選んでもらえますか」

「甘いのと、そうでないのなら、どちらがいいですか」

「そうでないほうで。あと、あんまり量が多くないのがいいです。明日、朝から入りなので」

「では、小さめのグラスでお作りしますね」


 瑠依はブルームーンを頼み、私はバックバーからボトルを下ろした。先に瑠依のブルームーンを出してから、ブランデーにホワイト・キュラソーとレモンジュースを合わせ、氷を詰めて振る。冷やしたカクテルグラスに注ぐと、琥珀色が小さく揺れた。


「サイドカーです」


 白石さんは一口飲んで、すぐに二口目を飲んだ。


「おいしい」

「よかったです」

「いや、本当に。ちゃんと味がしました。ここ何日か、何食べても味がしなくて。ロケ弁とか、飲み込んでるだけになってたので」


 どう答えるのが正しいのか、分からなかった。月乃さんが、エプロンの紐を意味もなく触りながら言った。


「私、在庫を確認してまいりますので、何かありましたら黒田(くろだ)にお申し付けください」

「今からですか」


 月乃さんは答えず、そのままバックヤードへ入っていく。棚卸しは先月やったはずだった。


 二杯目のサイドカーを出した頃、瑠依が言った。


「そういえばさ、小春と会ったのって、何年前だっけ」

「十一年」

「即答じゃん。怖い怖い」

「数えてるから。瑠依が忘れすぎだから、誰かが数えてないと駄目でしょ」


 瑠依は口を尖らせたが、反論はしなかった。


「レッスンの時だよね。あの、地下の練習室。あの頃さ、小春、ほんとに誰とも喋らなかったよね。壁際でずっと台本読んでて。私が話しかけたんだよ、確か」

「逆。声かけたの、私」


 瑠依が声を出さずに固まった。


「嘘。いやいや待って、私でしょ。だって小春、あの頃ほんとに誰とも」

「覚えてないんだ」


 白石さんがグラスを置いた。


「あの日ね、私、定期入れ忘れて。改札のとこまで行って気づいて、走って戻ったの。そしたら練習室、まだ電気ついてて。覗いたら瑠依がいた」


 瑠依のグラスを持つ手が、途中で止まっている。


「鏡の前で、同じところ何回もやってた。台詞、いつも噛んでたやつ。私が見てた間だけで七回やってた」


 瑠依は口を半分開けたまま彼女を見ていた。


「それで声かけようと思ったんだけど、なんて言えばいいか分かんなくて。五分くらい廊下に突っ立ってた」


 瑠依は相槌も打たなかった。


「で、結局、床見たら同じ靴履いてたから、『それ、どこの』って言った」

「は? それだけ?」

「それしか出てこなかったから」


 白石さんはグラスに口をつけた。瑠依が両手で顔を覆う。


「……覚えてない」

「だろうね」

「なにそれ、ひどくない? 私ずっと、自分が話しかけたと思って生きてきたんだけど。しかも人に言ってたよ、その話。インタビューでも言ったことある」

「知ってる。読んだ」

「読んだの!? なんで言わないの!」

「言ったら、訂正記事出しそうだから」

「出すよ! 出すに決まってるでしょ!」

「だから言わなかったの」


 姉はいつも先に手を伸ばしてくる。私にもそうだった。返事をしない相手に何度でもメッセージを送ってくる。ちゃんと食べてる。無理してない。元気そうでよかった。


 その姉に、一度だけ、誰かが先に手を伸ばしたことがあったのだ。地下の練習室の床は、十一年経っても、二人だけのものだった。


 瑠依が急に声を上げた。


「あ、思い出した。発表会のやつ。あれ恥ずかしかったなあ」

「どれ」

「二人で組まされたやつ。小春が男役で。私、あの時の衣装まだ覚えてる。サスペンダーしてたよね」

「よく覚えてるね、そんなの」

「あれ、キスするシーンあったよね。先生が『やれ』って言って。今考えたらどうかと思うんだけど」

「今なら問題になってるでしょ、あれ」

「あの時さ、私、心の中でめちゃくちゃ謝ってたんだよ。ごめんね、ごめんねって」


 瑠依は笑いながらグラスを傾けた。


「小春も嫌だったでしょ、あんなの」


 白石さんは答えなかった。グラスを取って半分ほど飲み、カウンターに置いた。


「あれ、私の初めてだったんだけど」


 瑠依の笑いが途中で止まった。


「え」

「言ってなかったっけ」

「聞いてない。聞いてないよ、そんなの」

「そう」


 瑠依の目が、手元のグラスと白石さんの横顔のあいだを二度行き来した。冗談で返すか謝るか決めかねているのが、横から見ていても分かった。


「小春、ごめん。私、全然知らなくて」

「なんで謝るの」

「だって、初めてって」

「別に、後悔とかしてないよ」


 白石さんは瑠依のほうを見なかった。


「仕事だったし。男役やるって決まった時点で、そういうのも入ってくるだろうなとは思ってたし。だから、覚悟はしてた」

「でも」

「十一年前の話でしょ。今さら気を遣われても、こっちが困るから」


 言い終えてから、彼女は残りを一息で飲んだ。


「……相手が瑠依でよかったと思ってるよ、普通に」

「小春」

「これ以上言わない。おかわりください」


 私は返事の代わりに、シェイカーに氷を詰める。振っているあいだ、二人とも口を開かなかった。三杯目が半分になった頃、白石さんがスマホの画面を見て、伏せた。瑠依が白石さんの肩に頭を寄せる。振り払われるかと思ったが、彼女は動かなかった。


 午前二時を回った頃、二人は帰り支度を始めた。


「これ、なんて名前でしたっけ」


 空のグラスを差し出しながら、白石さんが聞いた。


「サイドカーです」

「バイクの横についてる、あれですか」


 私はグラスを受け取った。


「あれ、自分では走らないんですよね。エンジンがないので。ずっと隣の人の運転で運ばれていくだけで」

「へえ」


 白石さんは、それだけ言って黒縁の眼鏡をかけ直した。駅ですれ違っても分からない顔に、もう戻っている。


「ごちそうさまでした。おいしかったです」

「ありがとうございました」


 扉のところで、彼女は一度だけ振り返った。


「燈(あかり)さん」

「はい」

「お姉さんに似てなくて、いいね」

「ちょっと」


 瑠依が声を上げたが、白石さんはそちらを見なかった。


 カラン、とベルが鳴って、扉が閉まる。五分ほどして、月乃さんがバックヤードから出てきた。


「帰った?」

「帰りましたよ。五分ぐらい前に」


 月乃さんはカウンターを一周見渡して、空グラスを取り上げ、いつもと同じ手つきでシンクに沈めた。


「月乃さん、二時間くらい、在庫見てましたね」

「棚卸しだよ」

「五月にですか。先月やってましたよね」

「うるさいな、数えといて損することないでしょ」


 月乃さんは煙草をくわえたが、火はつけなかった。


「あの人さ、今度いつ来るの」

「聞いてないです」

「そう」


 月乃さんはくわえた煙草を唇から外した。


「……聞いといてよ」

「次に姉から連絡が来たら、聞いておきます」


 私は蛇口を閉め、笑いを噛み殺した。グラスを拭きながら、白石さんの最後の言葉を頭の中で転がす。


 似ていない、とは子どもの頃からずっと言われてきた。ただ、あれはいつも、足りないという意味だった。妹なのに、姉と違って。


 似ていなくていい、と言われたのは初めてだった。

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