第十五話「シャンディガフ」
黒田さんも橘さんも山﨑くんも、希望休が見事に同じ日に重なった。帰省だのライブだの面接だの、それぞれに理由があるらしい。シフト表を前に少し頭を抱えたが、平日だしどうにかなるだろうと、結局は私が折れて、一人で店番を引き受けることにした。
実際、いけた。いけすぎたくらいだ。開店から数時間、常連が何人か顔を出してくれたものの、日付が変わる頃には波が完全に引いて、あとは手持ち無沙汰な時間だけが残った。
私はカウンターの中で、すでに磨き終わっているグラスをもう一度ダスターで拭き上げながら、ぼんやりと入口の扉を眺めている。
証券会社にいた頃は、一日に何十回も、上司と客の顔色を見比べていた。それを、三年半続けた。それに比べれば、誰もいない店で氷の溶ける音を聞いているこの時間は、ずいぶん贅沢な無駄だと思う。
このところ、眠りが浅い。明け方に一度目が覚めて、天井を見ているうちに昼になる。帰りのコンビニでは、ホットスナックの棚を見ないまま、水だけ買って出てくる。美容院の予約は、電話一本で済むのに、二度、先へ延ばした。
ドアベルが鳴って、顔を上げる。キャンバス地のトートバッグを肩にかけ、猫背気味に入ってきたのは、常連の蒼くんだった。
彼はいつもカウンターの端に座って、近ごろは分厚いゲラの束を広げては黙々と赤字を入れている。騒がないし、閉店時間を過ぎても粘らない。その蒼くんが、席に座りながらカウンターの中をぐるりと見渡した。
「あれ、今日は黒田さん、いないんですね」
その声には、残念そうな響きが混じっていた。蒼くんは普段、私より愛想のいい黒田さんとばかり喋っているから、まあ無理もない話ではある。ただ、あまりにも分かりやすかったので、私はつい意地の悪い言い方をした。
「ごめんねえ。今日は私一人なの。黒田さんじゃなくてがっかりした?」
「えっ、あ、いや、そういうわけじゃ! ただ、いつもいらっしゃるので、お休みかなって思っただけで!」
蒼くんは両手を振った。その慌てぶりが面白くて、私はさらに口角を上げてしまう。
「冗談だよ。ウーロン茶でいい?」
「あ、はい。お願いします」
彼は少しほっとしたように息を吐いて、トートバッグから紙の束を取り出した。グラスにウーロン茶を注いで前に置く。
いつもなら、やり取りはこれで終わりだ。彼は原稿に沈み込み、私はそれを遠くから見ているだけ。干渉しないというのが、この店の暗黙のルールみたいなものになっている。
今夜は店が静かすぎた。黒田さんがいないせいで私の緩んだ部分が出てきたのかもしれない。私はグラスの縁を見ながら、思いつきで話しかけた。
「いつもウーロン茶だね。飽きない?」
普段なら絶対に聞かないような、無遠慮な質問だった。蒼くんは赤ペンを置いたが、嫌な顔はしなかった。
「あ、いや、飽きないというか」
彼は少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「僕、お酒飲めないんですよ。体質的には大丈夫らしいんですけど、単純に味が苦手で。苦かったり、アルコール臭かったりするのが、どうも駄目みたいで」
「ああ、分かる」
私は素直に頷いた。
「最初から酒が美味しいなんて思える人間のほうが少ないよ。たいていは、無理して飲んでるうちに舌が麻痺するか、酒に逃げる理由ができるか、そのどっちかだから」
身も蓋もない言い方だったせいか、蒼くんは苦笑いを浮かべた。
「でも、バーの雰囲気は好きなんです。みんな自分の世界に浸ってて、誰も他人を見てない感じが。仕事柄、言葉と向き合ってる時間が長いので、こういう場所のほうが集中できるんですよね。だから、ウーロン茶だけで長居して、迷惑じゃないかなっていつも思ってて」
「迷惑なわけないじゃん。ウーロン茶だって立派な売り上げだし」
彼の目の前には分厚い原稿の束が広がっている。
「その原稿さ」
私はカウンターを拭きながら言った。
「前に言ってたよね。上と揉めたって」
蒼くんが顔を上げた。
「覚えてたんですか」
「一回しか聞いてないけどね」
彼はすぐには答えなかった。
「はい。こんな暗い話を今どき誰が読むんだとか、もっと万人受けする派手な展開に直させろとか、散々言われました。作家さんが書いてる細かい心の揺れとか、泥臭い立ち直り方こそがこの作品の中身なのに、そこを削れって言われて」
彼は自分の手元を見つめ、拳を軽く握った。
「自分のわがままで通した企画なので、削れって言われると、削らなきゃいけない気がしてくるんです。赤を入れてるうちに、どこが大事だったのか分からなくなって」
その物語は、完璧に見えた女優が精神を病んで一度壊れ、そこから立ち直っていく話だと聞いている。
初めてそれを聞いた夜、私は特に何も言わなかった。氷を割りながら、ふうん、と返しただけだったと思う。そういう話を、こんなに真剣にやろうとする人間がいるのだと知って、その夜は氷を割る回数が、いつもより少なかった。
「たまにはさ、軽いの飲んでみない?」
「え?」
「味の好みは人それぞれだけど、ジュースみたいに飲める酒なんていくらでもあるよ。せっかくバーにいるんだから、ウーロン茶以外の選択肢を持っておくのも悪くないんじゃない」
無理に勧めるつもりはなかったし、嫌がったらすぐ引くつもりで言ったのに、蒼くんはカウンターの端に置いてあるメニュー表を自分から引き寄せた。
「月乃さんが言うなら……」
彼の目は文字を追って、一点で止まった。
「じゃあ、シャンディガフでお願いします」
「シャンディガフね。ビール使うけど、大丈夫?」
「たぶん、大丈夫です。好きなアーティストが同じ名前の曲を出してて。ずっと気になってたんですけど、頼む勇気がなかったので」
「いいじゃん。そういう理由」
蒼くんは少しはにかんだ。シャンディガフは、ビールとジンジャーエールを半分ずつ注ぐだけのカクテルだ。うちでは、ジンジャーエールの代わりに、もう少し癖のあるものを使う。
私は冷蔵庫から、シャンディガフのために置いてあるピルスナーを取り出し、それからもう一つ、緑のボトルを手に取った。ストーンズ・ジンジャー・ワイン。生姜とレーズンで作る、イギリスの古い酒だ。冷やしたグラスにジンジャーワインを少し落とし、そこへビールをゆっくり注ぐ。最後に、レモンの皮を飾る。
「お待たせ。シャンディガフ」
グラスを置くと、蒼くんは「うわあ」と小さな声を漏らして、グラスを持ち上げた。最初の一口で、眉間に皺が寄る。ビールの苦さが来たのだろう。その直後、彼の眉がほどけた。
「……飲める」
自分でも驚いたように、彼は私を見た。
「苦いは苦いんですけど、生姜の匂いがあとから来て。これなら、僕でも」
「よかった。ジンジャーワイン使ってるから、コクが出るんだよね」
蒼くんは嬉しそうに、もう一口飲んだ。
カクテル言葉なんてものは、どこかの誰かがあとから勝手に付けた飾りだと思っている。黒田さんにも、そう教えた。今夜はその飾りも使ってみる気になった。
「シャンディガフにも、カクテル言葉っていうのがあってね」
「花言葉みたいなものですか」
「そう。当ててみて」
「なんだろう。『さわやかな出会い』とか?」
「無駄なこと」
「無駄……なんですかね」
彼はグラスに浮かぶ泡を見つめたまま、そう呟いた。今の蒼くんには一番刺さる言葉だったらしい。
「私が前にいた業界はね、一秒の無駄も許されなかった。結果を出せない人間から、切られていく場所だった」
蒼くんの顔がこちらへ上がった。
「その原稿の、泥臭い立ち直り方ってさ。上の人から見たら、無駄なとこなんでしょ」
私はカウンターに両手をついた。
「削っちゃいけないところを削って、綺麗にまとめたものは、誰の記憶にも残らないよ」
言い終えてから、少し喋りすぎたかと思った。同じことを、自分に言ってやれたためしは一度もないくせに。蒼くんは瞬きもせずに私の顔を見ていたが、やがて、原稿の束の端を指でそろえ始めた。
「ありがとうございます、月乃さん」
「そう? なら、よかった」
その原稿の中で、壊れた女優がどうやって立ち上がるのかを、私はまだ知らない。ただ、そういう話を最後まで削らずに世に出そうとしている人間が、この店のカウンターに座っているというだけで、私は今夜、なんとなく機嫌がよかった。
店を閉めてマンションに戻ると、郵便受けから封筒が三通はみ出していた。引き抜いて、靴箱の上の束に重ねる。開けるのは明日にしよう。
数日後、黒田さんが、カウンターの中で首を傾げていた。
「あれ? 蒼さん、今日はウーロン茶じゃないんですか?」
彼女の視線の先には、赤ペンとゲラの束を広げた蒼くんがいる。
「はい。今日は、シャンディガフをお願いします」
蒼くんが目を伏せたまま言うと、黒田さんは「お酒、飲めるようになったんですね!」とぱっと顔を輝かせて、ビール瓶を手に取った。
私はバックヤードの入口から、その光景を黙って見ていた。黒田さんは冷蔵庫の前にしゃがんで、緑のボトルを探している。蒼くんはゲラの束を広げたまま、赤ペンを一度も動かさない。グラスが目の前に置かれるまで、彼は黒田さんの背中から目を離さなかった。




