第十四話「雪国」
四月の、週の半ばの夜。山﨑さんは翌朝に面接があって休み、月乃さんは知り合いの店の周年祝いに顔を出すとかで、店には出ていなかった。午前一時を回る頃には客もすっかり引いて、カウンターの中には私と橘さんだけが残っていた。
橘さんはグラスを拭きながら、大学の課題の話をしている。
「あの教授の課題、本当にエグいんですよー。レポート、手書きで八千字なんです。徹夜確定です」
文句を言っているのに、楽しそうな横顔をしていた。三月の夜とは笑い方が違って微笑ましくなる。
ドアベルが鳴って、女性が二人、入ってきた。どちらもつばの広い帽子を目深に被っていたが、それで隠せる顔ではなかった。
私のすぐ隣で、橘さんの肩が跳ねる。無理もない。テレビでしか見ない顔が二つ、この小さなバーに入ってきたのだから。国民的女優の黒川瑠依と、若手の成瀬雫だった。
「燈、まだやってる? ごめんね、遅くに」
瑠依は帽子を脱ぎ、私に向かって微笑みかけた。
「やってるよ。ちょうど誰もいなくなったとこ」
隣の橘さんが、私と瑠依の顔を交互に見た。
「く、黒田さん。あの、お知り合い、なんですか?」
「姉なの。言ってなかったっけ」
「えっ、えええっ!? だって、名字、違いますよね?」
芸名が黒川だから、これまで誰にも気づかれたことがなかった。
「妹がお世話になってます。この子、ちゃんとやれてます?」
瑠依がカウンターに身を乗り出すと、橘さんは「は、はい、いえ、私のほうが」と言ったきり、続きが出てこなくなった。私は橘さんの背中を軽く叩き、耳打ちした。
「製氷機の氷、バケツに移しといてもらっていい? ゆっくりでいいから」
橘さんは何度も頷いて、逃げるようにバックヤードへ消えていった。あの位置に立ち続けるのが、どれだけしんどいかは知っている。
私は二人を、奥のカウンター席へと促した。成瀬さんが椅子に座り、コートを脱いだ瞬間に、ふわりと香りが立つ。青い柑橘の匂いが最初に来て、その奥から、白い花が開いていく。
ライムを切った自分の指先だろうか、と一瞬思った。私の手から、こんなふうに花は立ち上がってこない。どこかで嗅いだことがあるのに、それがいつのことなのか、すぐには思い出せなかった。
「私は、いつもの。ブルームーンね。雫、ここのは色がほんとに綺麗なの」
瑠依はメニュー表を成瀬さんのほうへ寄せた。
「雫は、何にする? 言えばだいたい何でも作ってくれるよ」
成瀬さんは小さく肩を揺らして、開かれたページに目を落とした。めくる指が、途中で止まる。
「アプリコットフィズを、お願いします。名前で選んじゃいました」
「少し甘めにしておきますね」
二杯を作って出すと、成瀬さんは「ありがとうございます」と力なく呟き、すぐに口をつけた。強い酒ではないのに、頬がもううっすらと赤い。手元のグラスを見つめたまま、ぽつり、ぽつりと話し始める。
「……ずっと絵を描いてばかりで、全然構ってくれないんです。仕事だからって、頭では分かってますけど。休みくらい、私を見てくれてもいいじゃないですか。寂しいですよ、やっぱり」
成瀬さんの口から出たのは、思いがけない彼氏の愚痴だった。
「それ、さっきのお店でも言ってたよ」
「言いました。何回でも言います」
成瀬さんの話は止まらなかった。
「最近なんて、一緒のベッドで寝てても、背中を向けたまま何もしてこないんですよ。女として見られてないってことじゃないですか。それって、さすがにありえなくないですか?」
「ちょっと雫、燈の前でそういう話しないで。うちの妹、そういうの慣れてないんだから」
成瀬さんは瑠依のほうを見ないまま、しばらく黙っていた。
「絵の中の私のことは、あんなに見てくれるのに」
グラスを握る指に、力がこもっていた。
「私、もう魅力、ないのかな……」
泣き出しそうな顔で呟くと、彼女はグラスに残っていたアプリコットフィズを一気に飲み干した。空になったグラスをカウンターに置くと、成瀬さんは少し潤んだ目を私に向けた。
「あの、もう一杯、何か飲みたいです。私に合うの、おすすめしてください」
その少し甘えるような声に、私は頷いた。カクテルグラスの縁をレモンで濡らし、グラニュー糖をまぶしつける。スノースタイルだ。ウォッカに、ホワイト・キュラソーとライムジュースを合わせる。
ライムを搾った瞬間、また、あの匂いが鼻をかすめた。自分の手からなのか、彼女からなのか、もう分からなかった。
シェイカーの中で、氷が鳴る。砂糖で縁取ったグラスに、白く濁った液体を注ぐ。底に、ミントチェリーを一粒沈めた。
「どうぞ。『雪国』です。カクテル言葉は、『恋を占う』です」
成瀬さんはそれをじっと見ていた。
「占って、どうなるんですか。うまくいくかどうか、分かるんですか」
「分からないです」
自分でも、素っ気ない返事だと思った。成瀬さんは少し驚いた顔をしてから、小さく吹き出した。
「え、分からないんですか。そこは嘘でも、分かりますって言うところじゃないですか」
「まあ、占いなので」
「言っといて、それはひどくないですか。瑠依さん、妹さんがひどいです」
「ひどいよね。前は、こういうこと言う子じゃなかったんだけどな」
瑠依は笑いながら、ブルームーンのグラス越しに私の顔を見ていた。
成瀬さんはもう一度笑って、それからグラスに口をつけた。ゆっくり飲み進めて、最後に、底に残ったミントチェリーを口に含む。
「甘い」
少しして、成瀬さんが顔を上げた。
「燈さんだったら、どうしますか」
言える言葉を、いくつか持っていた。ちゃんと話し合ってみては。不器用な人なんだと思いますよ。そういうものを並べれば、成瀬さんはたぶん納得した顔をして帰る。
「……分かりません」
そう言ってから、私は続けた。
「前に、お客さんに言いかけて、言えなかったことがあるんです。仕事で体を壊しかけてる人に、辞めていいですよって。その人のことを、何も知らないのに」
「言わなかったんですか。言ってあげたら、その人、楽になれたかもしれないのに」
「言えませんでした。辞めた次の日から、その人がどうなるのか、私は何も知らないので」
成瀬さんは私の顔を見たまま黙っていた。瑠依が横で、はらはらした顔をしているのが視界の端に映る。せっかく連れてきた後輩に、妹が突き放すようなことを言っている、とでも思っているのだろう。
「そっちのほうが、いいです」
小さな声で、成瀬さんが言った。
「いいの?」
聞き返したのは瑠依だった。
「うちの事務所の人、みんな何か言ってくれるんです。それはこうしなさい、こう考えなさいって。ありがたいんですけど、たまに、私の話を聞く前から答えが決まってるみたいで。あ、瑠依さんは別ですよ」
「私だって言うじゃん。話し合いなよって、さっきのお店で三回は言った」
成瀬さんはそれには答えずに、空になったグラスの底を見た。目尻がふっと下がった。
「帰ったら、言います。寂しいって」
「まだ起きてるんですか、その人」
「起きてます。私が何時に帰っても、だいたいまだ描いてるので。……言ったこと、あんまりなかったんですよ。不器用な人だから、言わないと分かんないと思うんですけど。なんか、言ったら重いかなって」
「じゃあ、重いまま言うしかないですね」
成瀬さんは口を開けたまま数秒止まって、笑い出した。隣で瑠依が心底ほっとした顔をしている。
「燈さんは」
成瀬さんが、グラスの縁に残った砂糖を指でなぞりながら言った。
「これ、飲んだことあるんですか?」
「いえ。私、お酒が飲めないんです」
彼女がぱっと顔を上げた。
「え、でも」
「でも、どんな味かは知ってます」
私は空のグラスを引き取り、シンクに沈めた。教わったからだ。舌が使えないなら、目と鼻と手を使えばいい。
成瀬さんが椅子の背のコートに手を伸ばした時、私はずっと頭の隅に置いていたことを口にした。
「失礼ですけど、その香水」
「え、におってました? 今日、つけすぎちゃったかな」
「いえ。メゾン・ソルビエの、『ネージュ・ダヴリル』ですよね」
成瀬さんが瞬きを止めた。
「なんで、分かるんですか」
「昔、そういう仕事をしていたので」
「すごい。名前まで当てられたの、初めてです」
彼女はコートの袖を通しながら笑った。
「高校生の時に、初めて自分で買った香水なんです。それから今まで、ずっとこれです」
「……ずっと、ですか」
「他のを試したことも、あるんですけどね。結局、これに戻ってきちゃって」
成瀬さんはバッグの持ち手を握り直した。
「仕事の時はつけられないことも多いんですけど。オーディションの前だけは、絶対につけていくって決めてて。デパートで買ったんです。母と二人で行って、お店のことなんて何も分からなくて、店員さんに一から聞いて。その人が、すごく丁寧に付き合ってくれて。一時間くらいかけて、棚にあるやつ全部、試させてくれたんですよ」
手のひらが急に冷たくなった。
「決めた時に、その人が『よくお似合いだと思います』って言ってくれて」
成瀬さんは自分の襟元に軽く指を触れた。
「私、その頃はまだ子役上がりで。似合ってるとか、そういうことを言われたこと、ほとんどなかったんです。だから、すごい嬉しかったんです。あの言葉、たぶん一生覚えてると思います」
頷くことも、返すこともできなかった。その店員の顔を、彼女はたぶん覚えていない。名札の名前も、きっと見ていない。
あの棚の、一番上の列。私が働いていた三年の間に、そこから売れたのは、たった一本だけだった。
「またね、燈。今度はご飯行こ。お店の外で、ちゃんと」
瑠依が帽子を被り直し、二人は路地へ出ていった。扉を閉めて振り返ると、橘さんが氷の入ったバケツを抱えたまま、まだ少し呆けた顔で立っていた。
「黒田さん、氷、移し終わりました。え、なんか……泣いてます?」
「泣いてないよ。それ、重いでしょ。下ろしていいよ」
私は顔を拭った。指先に、ライムの匂いが残っていた。




