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憂鬱とシンデレラ  作者: 水瀬 結
第四章
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第十三話「シャーリー・テンプル」

 三月の半ば。まだ夜の風は冷たいのに、路地の突き当たりに置かれた誰かの植木鉢から、いつの間にか緑が伸びていた。


 年が明けてからの二ヶ月は、同じ形の夜が続いた。店を開けて、グラスを洗って、閉めて帰る。何も起きないのが、こんなに楽だとは思わなかった。


 その間に、山﨑(やまさき)さんの面接が増えた。シフト表の平日の欄で、山﨑さんの名前に線の引かれる日が、週に二日、三日と重なっていく。抜けた分は私と月乃(つきの)さんで埋めていた。


「そういえば」


 開店前、氷を割っていた月乃さんが、顔も上げずに言った。


「明日から新しい子入るから」

「え、聞いてないです」

「まあ、今言ったしね」

「いや、そうじゃなくて。面接とか、いつしたんですか」

「先週。黒田(くろだ)さんが休みの日」


 アイスピックの先が、氷の角を落としていく。


「大学生の女の子で十九歳。週三でいけるって」

「……はあ」

「教えるの、よろしく」

「え」


 私は返事に困って固まった。


「私がですか」

「他に誰がいるの」

 いつか、同じことを言われた気がする。あの時は、教わる側だったのだけれど。


 翌日、開店の二十分前に、その子は来た。細くて、背が低くて、髪を一つに結んでいる。白いシャツに黒いパンツで、私が初日に着ていったものと似ていた。


「本日からお世話になります。橘(たちばな)すずです。よろしくお願いいたします」


 角度の深い、綺麗なお辞儀だった。


「黒田です。よろしくね」


「はい! あの、私、こういうところで働くの初めてで。ご迷惑おかけすると思うんですけど、精一杯頑張りますので」


 口角だけを均等に持ち上げて、目は動いていない。頬の位置で止まって、そこから先へ行かない。私が毎日、鏡の前で使っていた笑顔と似ている。


 奥で氷を割る音が止んで、月乃さんがアイスピックを持ったまま顔を出した。


「橘さん。うちの製氷機、人見知りだから。毎日、最初に挨拶してあげて。じゃないと氷出ないの」

「はい!」


 月乃さんは奥へ戻っていった。橘さんは真剣な顔で頷くと、バックヤードの製氷機の前まで行って、深々と頭を下げた。


「本日からお世話になります。橘すずです」


 ……この子は多分、純粋すぎる。


 冗談だと言い出すきっかけを、私は逃してしまった。

 月乃さんは私にどうやって教えたのだったか。最初の三十分で、それが分からなくなった。


 初日はほとんど何も教わっていない。マニュアルはないと言われ、適当でいいと言われたきりだった。


「グラス下げる時は、一声かけてね。お済みでしょうか、って」

「あ、ちょっと待ってください」


 橘さんはいつの間にかメモ帳を出して、書き取っていた。


「あと、水は氷が半分になったら足して。言われてからだと遅いから」

「言われる前に、ですか」

「うん」


 グラスを下げる時の一声も、先回りの水も、百貨店で叩き込まれたものの使い回しだ。あの売り場で私を縛っていたものを、私は今、新人のメモ帳に一つずつ書き取らせている。


 橘さんがペンを持ったまま顔を上げた。


「……えっと、それから」

「ごめん、いい。あとはやりながらで大丈夫だから」


 その夜はそこそこ客が入った。橘さんはよく動く。動きすぎるくらいに動く。私が「そこまでしなくていい」と言うタイミングを見つけられないまま、彼女はグラスを片付けるたび、おしぼりを出すたびに、深くお辞儀をしていた。


 カウンターの端で、蒼(そう)さんが文庫本から目を上げて彼女を見ている。私のほうを一度見て、また本に戻った。


 二十三時前、金曜だけ来るマンハッタンの人が入ってきた。


「いらっしゃいませ」


 私が作り、橘さんが運んだ。運ぶ途中で、彼女の足がもつれた。


 高い音がして、グラスが倒れた。割れたグラスから、赤褐色の液体がカウンターに広がる。半分が男性のジャケットの袖にかかった。


「申し訳ございませんっ!」


 橘さんはその場にしゃがみ込み、床に額がつきそうなほど頭を下げた。


「本当に、申し訳ございません、私……」

「いいよいいよ」


 男性は袖を軽く払った。


「すぐ乾くから。それより、そこ危ないから動かないで。破片あるでしょ」

「でも、お召し物が」

「これ、そんないいやつじゃないから」


 私は布巾を持って駆け寄り、カウンターを拭いた。破片を拾う橘さんの指が、何度も同じかけらをつまみ損ねた。


「お名前、なんていうの」


 男性が聞いた。


「た、橘です」

「橘さん。今日、初めてでしょ」

「はい」

「そうだろうね」


 男性は少し笑った。


「初日にやるくらいでちょうどいいんだよ。長く働いてやると、けっこう凹(へこ)むからね」


 私が作り直したマンハッタンを出すと、彼は何事もなかったように飲んだ。帰り際、勘定を置きながらこちらを見る。


「あそこの床、段差あるでしょ。私も一回引っかかったよ」


 扉が閉まる。橘さんは、カウンターの内側に立ったまま、まだ笑っていた。


「すみませんでした。私、本当にドジで。もっと気をつけます」


 あの顔のまま、彼女は言った。


「ご迷惑、おかけしてしまって……」

「橘さん」

「はい!」

「奥、行ってきてもらっていい?」

「え?」

「氷持ってきてくれるかな。時間かかっていいから」


 橘さんは一瞬きょとんとして、それから「はい」と言って、バックヤードへ消えた。三分ほど経っても、出てこない。


 様子を見に行くと、彼女は製氷機の前にしゃがみ込んで、両手で顔を押さえていた。声は出していない。肩だけが小刻みに動いていた。私は声をかけずに戻った。


 閉店後。片付けを終えた橘さんが、エプロンを外しながら、もう一度謝った。


「今日は本当に、すみませんでした」


 目がまだ赤い。


「橘さん、ちょっと座ってて」

「え?」

「すぐだから」


 私は橘さんをカウンターの椅子に座らせて、内側に入った。背の高いタンブラーに氷を詰める。ジンジャーエールを、氷に当てないよう縁から伝わせる。グレナデンシロップを、細く垂らした。赤いシロップが底に沈み、下から上へ、ゆっくりと色が滲んでいく。最後に、マラスキーノチェリーを一粒落とした。


「はい、これ」


 彼女の前に置く。


「えっ、あの、私、お酒は」

「入ってないよ」


 自分の分にも、同じものを作った。


「橘さん、まだ二十歳じゃないでしょ」

「あ、はい。十九です。誕生日、十一月なので」


 彼女は両手でグラスを持って、一口飲んだ。


「美味しい」


 橘さんは、グラスの底の赤い層を見下ろしている。


「これ、なんていうカクテルなんですか」

「シャーリー・テンプル」

「人の名前? とかですか」

「うん。昔の子役の人。すごい有名な」


 私は自分のグラスを見た。氷の隙間で、赤と金色が混ざりきらずに層になっている。最初の夜、私の前に置かれたのも、酒の入っていない一杯だった。


「お酒飲めない人のための飲み物なんだよ」


 言ってから、私は口を閉じた。言いたいことは他にあった。


『無理して笑わなくていい』

『全員に好かれようとしなくていい』


 月乃さんがくれた言葉だ。あの顔を続けていれば、そのうち自分の顔が分からなくなって、鏡の前で泣くことになる。そっちは売り場の三年で私が自分で知った。喉まで来ているのに、声にならない。


「あの」


 橘さんがグラスに指を添えたまま言った。


「黒田さんは、飲まないんですか。お酒」

「飲めないの。体質で一口も」


 橘さんが目を丸くした。


「バーで働いてるのに?」

「うん」

「そうなんですね」


 彼女はグラスの中身を最後まで飲んで、底のチェリーを口に入れた。


「甘いです、すごく」

「でしょ」


 彼女は、笑った。今度は、頬の位置で止まらなかった。


 橘さんが帰ったあと、私はグラスを洗いながら言う。


「何も言えませんでした」


 月乃さんはボトルの首を拭いている。


「何が」

「あの子に。月乃さん、私に言いましたよね。全員に好かれようとしなくていいって」

「そんなこと言った?」

「言いました。働き始めて、二週間くらいの頃でしたかね」

「ふうん」

「あれで、すごく楽になったんです。だから、同じこと……言おうとしたんですけど。なんか、出てこなくて」


 布巾がボトルの肩を一周する。


「あの子さ」

「はい」

「三日で辞めそうに見えた?」

「いえ」

「じゃあいいじゃん」


 月乃さんは拭き終えたボトルを持ち上げ、明かりに透かした。


「私はさ、言うしかなかったの、あの時」

「え」

「黒田さん、あのままだと持たなそうだったから」


 私は洗い終わったグラスを棚に戻した。


「あ、そうだ」


 ボトルを並べ直しながら、月乃さんが言った。


「はい」

「あれ、本人は嫌いだったらしいよ」

「なにがですか」

「シャーリー・テンプル。名前、勝手に使われてさ。どっかで読んだ」

「……それ、先に言ってくださいよ」

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