スピンオフ②「ブラック・ルシアン/ホワイト・ルシアン」
坂井さんが、会議室の机に企画書を置いた。表紙の下のほうに、名前が二つ並んでいる。私と、黒川瑠依。
「連続ドラマで、ダブル主演です。黒川さんにも、今日、話がいってます」
「……そうですか」
坂井さんは、それだけですか、という顔をした。私の担当になってもう長いのに、この返事にはまだ慣れないらしい。
企画書を鞄にしまって、エレベーターに乗る。扉が閉まってから、押したのが上の階だったと気づいた。上っていく箱の中で、スマホが震える。
「見た!? 企画書!」
出るなり、瑠依の声でスピーカーの音が割れた。耳から離しても、まだ聞こえる。電話越しに殴られている。
「あー、うん。見たよ」
「ダブル主演だよ!? 私と小春で! ねえ、今どこ。まだ事務所? 飲みに行こう、燈のとこ」
「明日、雑誌の撮影あるんだけど」
「一杯だけ! ほんとに一杯!」
瑠依が一杯だけと言って、一杯で済んだためしがない。一階のボタンを押し直してから、行く、と答えた。
瑠依が路地の突き当たりの扉を引くと、頭の上でベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中で、燈さんが顔を上げた。瑠依の後ろにいる私に気づいて、目を見開く。奥にいた背の高い人が、拭いていたグラスを棚に戻して、また取り出した。店長さんだ。
瑠依はカウンターの端に座って、隣の椅子を私のほうへ引いた。帽子を取って膝に置くあいだに、燈さんは何も聞かずに、棚から紫色の瓶を下ろしている。
「あ、待って。今日はブルームーンじゃない」
燈さんの手が、瓶をつかんだまま止まった。
「強いのにして。気合入れたいの」
「何かあったの」
瑠依はカウンターに身を乗り出して、声を落とした。
「まだ内緒ね。小春とドラマやるの。二人で主演」
燈さんは瓶を棚に戻そうとして、隣の瓶にぶつけた。おめでとう、と瑠依に言ってから、こちらに向き直って頭を下げる。
「白石さんも、おめでとうございます。何にしましょうか」
「軽いのをお願いします。明日、撮影なので」
「えー、同じのにしようよ。今日くらい」
カウンターの下で、膝を指でつつかれた。何度目かでつつき返すと、瑠依が歯を見せて笑う。
「……じゃあ、同じので」
燈さんは私たちを順に見て、それから冷蔵庫を開けた。
背の低いグラスが、カウンターに並ぶ。氷の上に透明なお酒と、黒に近い茶色のリキュールを注いで、柄の長いスプーンで混ぜる。燈さんは片方にだけ、スプーンの背を伝わせて生クリームを浮かべた。黒の上に、白い層ができる。
「ブラック・ルシアンと、ホワイト・ルシアンです」
黒いほうが瑠依の前に、白いほうが私の前に置かれた。
「えー、同じのって言ったのに」
「中身は同じ。白石さんのは、上に生クリームを乗せただけ」
瑠依は二つのグラスを見比べて、吹き出した。
「黒川と白石じゃん」
「たまたま」
燈さんは使ってもいないシェイカーを拭き始めた。
白いほうに口をつけると、甘いコーヒー牛乳の味がした。喉を過ぎたところで、胸のあたりがかっと熱くなる。
「これ、軽くしてくれたんですか」
「……胃には、優しいです」
軽いとは言わなかった。瑠依は黒いほうを一口飲んで、うわ、と顔をしかめた。そのまま、もう一口飲む。グラスを置いた手が、コースターの角を爪の先でめくり始めた。
「ねえ。小春の隣でさ、私、ちゃんと立ってられると思う?」
「立ってるでしょ。座ってる役じゃなければ」
「そういうことじゃなくて」
コースターの角が、さっきよりめくれている。私はグラスを持ち上げて、瑠依のほうへ傾けた。
「乾杯、まだしてない」
瑠依はきょとんとしてから、黒いグラスをぶつけてきた。思ったより強くて、白いほうの縁からクリームがこぼれそうになる。
飲み干したグラスを、瑠依が燈さんに振ってみせた。
「おかわり、二つ」
「明日撮影だって、さっき言ったよね」
「だから、今のうちに飲んどくんでしょ」
燈さんがこちらを見た。作っていいのか、聞いている顔をしている。空いたグラスを、カウンターの向こうへ押しやった。
二杯目と一緒に、店長さんが水のグラスを私の前に置いた。
「チェイサーでございます」
そのまま、奥へ戻っていく。瑠依がカウンターに突っ伏して、肩を震わせた。水は半分も減らなかった。三杯目を頼んだのが瑠依だったのか私だったのかは、あとになっても思い出せない。
店を出る頃には、路地の先の通りからも人の声が消えていた。瑠依は私の腕に自分の腕を絡めて、ドラマの主題歌を誰に歌ってほしいか、一人で決め続けている。先にタクシーへ押し込んでから、次の一台を拾った。
走り出した車の中で、企画書を鞄から出した。街灯の明かりが、表紙に並んだ名前の上を何度も通り過ぎていく。ミラー越しに運転手と目が合ったので、帽子のつばを下げて、企画書を鞄に戻した。
部屋に着いてからのことは、よく覚えていない。
アラームが鳴る前に、喉の渇きで目が覚めた。体を起こすと、こめかみがずきずきと脈を打つ。口の中に、ゆうべの甘い匂いがまだ残っていた。歯を磨いても、喉のほうから上がってくる。
迎えの車で、坂井さんはハンドルを握ったまま、今日の段取りを話した。撮影のあとに、インタビューも入っているらしい。はい、と答えて、窓の外を見る。信号で止まるたびに、胃の中身だけが少し遅れて止まった。
スタジオは、壁と床のつなぎ目が見えないほど白い。用意されていた衣装は、裏地の厚い冬のコートだった。
ヘアメイクの野々村さんは、私の頬を両手で挟むなり、あれ、と言った。
「ちょっと、むくんでます?」
「えっと……昨日の夜、ラーメン食べちゃって」
「意外。白石さんでも食べるんですね」
野々村さんは笑って、冷やしたローラーを私の目の下に当てた。ローラーが行き来するあいだ、冷たさがこめかみまで届く。
ストロボが光るたびに、目の奥が痛んだ。言われるとおりに顎を引いて、肩を落とす。光った回数を数えていたのに、途中で分からなくなった。足の下の床が妙に柔らかい。
「いいですね。その気だるげな表情、完璧です」
カメラマンの声に、ありがとうございます、と返す。……本当にだるいだけなんだけどな。
休憩に入ると、坂井さんが紙コップのコーヒーを二つ持ってきた。湯気と一緒に匂いが届いて、胃が持ち上がる。
「私、お水にします」
笑って言うと、坂井さんは気にする様子もなく、二つとも自分で飲み始めた。
預けていたスマホを受け取ると、瑠依から立て続けに届いていた。
『生きてる?』
『昨日の、夢じゃないよね?』
返事を打つ。
『夢なら、こんなに頭痛くない』
送ってから、スマホを坂井さんに返した。カメラマンが呼んでいる。白い床の真ん中に戻って、言われる前に、顎を引いた。




