30,冬眠
お嬢様、本日は王妃教育の日ですが……。」
侍女が困ったように声をかける。
だが。
「……寒いわ。」
返ってきたのは、毛布の山からの声だった。
窓の外では雪が降っている。今年一番の寒波だと朝から騒がれていた。
暖炉の前。分厚い毛布。温かい紅茶。読みかけの本。
セアリスは完全に動く気を失っていた。
「お部屋は十分暖かいかと……。」
「廊下が寒いのよ。」
「ですが、ずっとお部屋に籠もるのは……。」
「今日はここで過ごすわ。」
非常に本気だった。
◇
メイド研修を休みに入ってから数日。
本来なら久しぶりの自由な時間を楽しむはずだった。
だが今年の冬は寒すぎた。
結果。
セアリスは外出を放棄した。
公爵家の使用人たちも最初は心配していたが、今ではすっかり慣れている。
「お嬢様、お食事をお持ちしました。」
「ありがとう。」
「本日は窓際まで移動されましたね。」
「少し暖かかったの。」
地味な進歩だった。
◇
その日の午後。
「セアリス様が数日ほとんど外へ出ていない?」
王宮で報告を聞いたエドワードは、僅かに眉を寄せた。
「はい。公爵家からは“体調不良ではない”とのことですが……。」
「……。」
エドワードは少し考え――静かにため息を吐いた。
「最近、寒波が来ていますね。」
側近がきょとんとする。
「はい……?」
「なるほど。」
なぜか納得した顔だった。
◇
翌日。
エドワードは公爵家を訪れていた。
応接室へ通されたあと、公爵夫人が少し困ったように笑う。
「申し訳ありません。あの子、冬になると少し極端で……。」
「やはり寒さですか。」
「ええ。」
即理解された。
「休暇に入って気が抜けたのもあるのでしょうね。」
「体調は?」
「元気です。」
「そうですか。」
エドワードは静かに目を閉じた。
元気なのに部屋から出ないらしい。
◇
案内された部屋の前。
侍女が扉をノックする。
「お嬢様。エドワード殿下がお見えです。」
数秒沈黙。
その後。
「…………寒いわ。」
中から返ってきた。
エドワードが思わず目を閉じる。
「開けますね。」
侍女が扉を開けた。
暖炉の前。
毛布に包まったセアリスがいた。
完全装備だった。
「……何をしているのですか。」
「冬眠よ。」
真顔で言った。
◇
「本当に来たのね。」
セアリスは毛布に埋まりながら言う。
「数日お姿を見ていないと聞けば、普通は心配します。」
「体調不良ではないと伝わっていたでしょう?」
「ええ。ですから寒波だろうと思っていました。」
「理解が早いわね。」
「長い付き合いですので。」
少し呆れたような声音だった。
◇
エドワードは部屋を見回す。
机には読みかけの本。暖炉の近くには空になったティーカップ。椅子には脱ぎ捨てられた外套。
完全に“引きこもり生活”の部屋だった。
「せっかくの休暇なのですから、少しは外へ出ては?」
「寒いもの。」
「ずっと籠もっていて楽しいですか?」
「暖かいわ。」
会話にならなかった。
◇
「少しは運動した方がいいのでは。」
「春になったら動くわ。」
「冬眠する動物みたいなことを言わないでください。」
◇
だがエドワードは完全には否定しなかった。
代わりに、小さな箱をテーブルへ置く。
「……何?」
「暖房用の魔道具です。」
セアリスが少し目を丸くする。
「王宮魔術師が改良したものだそうですよ。持ち運びも可能だとか。」
「……。」
セアリスは毛布から少しだけ出て、その箱を見た。
「外でも使えるの?」
「ええ。」
「……。」
数秒後。
「少しなら外へ出てもいいかもしれないわ。」
「現金ですね。」
「寒さは大敵なのよ。」
真顔だった。
◇
その帰り際。
「殿下。」
「なんでしょう。」
「ありがとう。」
毛布に包まったまま、セアリスが小さく言う。
エドワードは少しだけ目を細めた。
「次に来る時は、せめて暖炉の前から出てきてください。」
「努力はするわ。」
たぶんしない。
エドワードはそう思いながら、静かにため息を吐いた。
「姉様、荷物多くないですか?」
リシェルが箱を見ながら言った。
セアリスの部屋には荷物が積み上げられていた。
本。参考書。辞書。ノート。筆記用具。そして本。さらに本。
「必要なものよ。」
「本当にですか?」
リシェルは積み上がった箱を見上げる。
どう見ても必要以上だった。
◇
学園入学まであと数日。今日は寮へ持っていく荷物をまとめる日だった。
「姉様、洋服は?」
「あるわ。」
「どこです?」
「そこ。」
セアリスが指差した先には小さな箱が一つ。
「少なくないですか!?」
「制服があるでしょう。」
「そういう問題じゃありません!」
対して本の箱は六つあった。
◇
「私はこれも持っていきます!」
リシェルが嬉しそうに見せてくる。
髪飾り。小物入れ。お気に入りのカップ。可愛い置物。お菓子用の缶。
「……。」
セアリスは黙る。
「何ですか。」
「荷物が多いのね。」
「姉様にだけは言われたくありません!」
◇
その時。
部屋へ公爵夫人が入ってきた。
「荷造りは進んでいるかしら?」
「順調です。」
セアリスが答える。
「そう。」
夫人は部屋を見回した。
本の山。箱の山。本の山。
「順調なのね……。」
少しだけ遠い目をした。
◇
「セアリス。」
「はい。」
「本当に全部持っていくの?」
「持っていきます。」
即答だった。
「学園には図書館もあるでしょう?」
「必要になった時に手元にないと困ります。」
「そう。」
夫人は諦めた。
◇
荷物をまとめながら、セアリスはふと窓の外を見る。
見慣れた庭。見慣れた屋敷。生まれてからずっと暮らしてきた場所。
学園へ入れば毎日帰ることはできない。もちろん休暇には戻れる。それでも少しだけ。本当に少しだけ。胸の奥が落ち着かなかった。
◇
「姉様?」
リシェルが首を傾げる。
「どうしたんです?」
「……いいえ。」
セアリスは小さく笑った。
「少し考え事をしていただけ。」
「緊張してるんですか?」
「少し。」
「珍しい。」
「失礼ね。」
◇
「でも大丈夫ですよ。」
リシェルは胸を張った。
「私もいますから。」
「そうね。」
「昼食も一緒に食べます。」
「助かるわ。」
「友達も作りましょう。」
「努力はする。」
「努力でどうにかなる問題でしょうか……。」
リシェルは少し不安になった。
◇
その日の夕方。
執事が一通の封筒を持ってくる。
「お嬢様、お手紙です。」
受け取った封筒には見慣れた筆跡。
エドワードからだった。
セアリスは封を開く。
『入学まであと少しですね。学園でも、これまでと同じようによろしくお願いします。あなたが友人関係を心配していると聞きましたが、あまり考えすぎないことです。もし困ったことがあれば相談してください。少なくとも、昼食を食べる相手がいなくなることはないでしょう。』
セアリスは最後の一文を見て眉をひそめた。
◇
「何て書いてあったんですか?」
リシェルが聞く。
「余計なことよ。」
「気になります。」
「昼食の心配をするな、ですって。」
「ああ。」
リシェルが納得した顔になる。
「正しいですね。」
「どうして皆そうなのかしら。」
◇
だが。
セアリスはもう一度手紙へ視線を落とす。
昼食を食べる相手がいなくなることはない。
その一文が少しだけ可笑しかった。
そして少しだけ安心した。
学園は不安だ。
友達も心配だ。
新しい環境も少し怖い。
けれど。
リシェルがいる。
エドワードもいる。
そう考えると、ほんの少しだけ気が楽になった。
「……何とかなるかしら。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その声は小さかったが、以前よりずっと前向きなものだった。




