21,混乱する頭の中
応接室を出たあと。
セアリスはしばらく廊下を歩きながら、ぼんやりしていた。
(……何だったの、今の。)
頭が全然整理できない。
婚約破棄の話をしたはずなのに、なぜか拒否された。しかもエドワードは妙に真剣だった。
『終わらせたいと思ったことは一度もない』
その言葉が、頭に残っている。
(いや、でも……。)
セアリスはぶんぶんと首を振った。きっと責任感だ。 エドワードは真面目だから、婚約者を簡単に切り捨てるようなことをしたくないだけ。
そう。きっとそう。
(……たぶん。)
だが考えれば考えるほど混乱する。気づけば、かなり歩いてしまっていた。
夜風が頬へ触れる。
いつの間にか王宮のテラスへ出ていたらしい。庭園へ面したそこは静かで、人もいなかった。
「そんな難しい顔してどうしたの。」
突然、後ろから声がした。
「ひゃっ!?」
セアリスは飛び上がるように振り返る。そこには見覚えしかない青年がいた。
「……ルヴェルト殿下。」
「こんばんは、セアリス嬢。」
彼はくすりと笑った。
「今の悲鳴、ちょっと傷ついたんだけど。」
「突然話しかけないでください……。」
「ごめんごめん。」
全然悪びれていない。
ルヴェルトはテラスの手すりへ軽く寄りかかった。
「でも本当にどうしたの? 顔、すごいことになってる。」
「そんなにですか?」
「うん。“人生について考えてます”みたいな顔。」
だいたい合っていたので反応に困る。セアリスは少し視線を逸らした。
「…少し考え事をしていただけです。」
「エドワード関連?」
ぴたりと動きが止まる。ルヴェルトが吹き出した。
「わかりやす。」
「な、何故そこで殿下の名前が出るのですか。」
「いや、さっき応接室から出てきたでしょ。」
「見ていたんですか!?」
「偶然ね。」
絶対嘘。どう考えても自分からだ。セアリスがじとっと睨むと、ルヴェルトは楽しそうに肩をすくめた。
「それで? 婚約破棄の相談でもしてた?」
「っ……!?」
セアリスは本気で固まった。
「な、何でそこまでわかるんですか!?」
「やっぱりか。」
「誘導しましたね!?」
「した。」
即答だった。最悪である。
ルヴェルトは声を殺して笑っている。
「いやだって、君ずっと“国外で働きたい”みたいな顔してるし。」
「そんな顔してません!」
「してるしてる。」
完全に面白がられていた。セアリスは疲れたように額を押さえる。
「……もう嫌です、この人。」
「そんなこと言わないでよ。」
ルヴェルトは笑ったまま続ける。
「で、どうだった?」
「何がですか。」
「エドワードの反応。」
セアリスは少し黙った。
さっきの会話が蘇ってきた。
『終わらせたいと思ったことは一度もない』
静かな声。真っ直ぐな視線。
(……意味がわからないのよね。)
セアリスは小さくため息を吐いた。
「婚約破棄は認めないと言われました。」
「へえ。」
ルヴェルトが少し目を細める。
「まあ、そうだろうね。」
「予想していたんですか?」
「なんとなく。」
彼はあっさり答えた。
「エドワード、君のことかなり気に入ってるし。」
「またそういうことを……。」
「いや本当に。」
ルヴェルトは不思議そうな顔をした。
「というかなんでそこだけ鈍いの?」
「鈍いって……。」
「普通気づくよ。」
そんなことを言われても困る。
だって乙女ゲームでは――と思いかけて、セアリスは口を閉じた。
この世界は、もうゲーム通りではない。というか壊したのはほぼ自分だが。ただその事実を最近よく感じる。
するとルヴェルトが、ふっと夜空を見上げた。
「でも。」
「?」
「ちょっと嬉しそう。」
「……え?」
思わず聞き返す。
ルヴェルトは横目でこちらを見た。
「婚約破棄断られたわりに、そんな嫌そうじゃない。」
「そ、そんなことありません!」
「ふーん。」
絶対信じていない顔だった。セアリスはなんだか落ち着かなくなる。
するとその時。
遠くからゆったりした音楽が聞こえてきた。
夜会の名残だろうか。まだ別室で演奏が続いているらしい。
ルヴェルトが耳を澄ませる。
「あ、いい曲。」
「そうですね。」
「踊る?」
「は?」
あまりにも自然に言われた。
「いや、何故そうなるんですか?」
「せっかく音楽あるし。前断られちゃったから。」
「いや、あのときは他のご令嬢に譲ってあげただけです。」
「その前に君にしっかり断られたんだが…」
ルヴェルトは笑いながら片手を差し出した。
「一曲だけ。」
「お断りします。」
「ひどい。」
「そうですか。」
セアリスは真顔だった。だがルヴェルトは全く引かない。
「そんな警戒しなくても、食べたりしないって。」
「そういう問題ではありません。」
「じゃあどういう問題?」
「殿下は距離が近すぎます。」
ぴしゃりと言うと…
ルヴェルトは一瞬だけきょとんとしたあと、吹き出した。
「あははっ!」
「何故笑うんですか!」
「いや、面と向かって言われたの初めてかも。」
本当に楽しそうだった。
セアリスは少しむっとする。
だがその時…
ルヴェルトがふっと笑みを弱めた。
「……でも安心した。」
「え?」
「さっきまで本当に難しい顔してたから。」
灰青色の瞳が、静かにこちらを見る。
「今の方が君らしい。」
一瞬だけ。セアリスは言葉に詰まった。からかうような調子ではない。思ったより優しい声音だったからだ。
「……殿下って。」
「ん?」
「時々、本気なのか冗談なのかわからなくなります。」
するとルヴェルトは少し考えるように首を傾げた。
「半分ずつくらい?」
「一番困るやつです。どちらかにしてください。」
セアリスが呆れたように言うと、ルヴェルトはまた笑った。
そして、
「じゃあ、せめて一歩だけ。」
「……はい?」
「ダンス。」
「まだ諦めてなかったんですか。」
「もちろん。」
彼は差し出した手を軽く揺らす。
「一歩だけなら減らないでしょ。」
「そういう問題では……。」
言いかけたところで、ルヴェルトが少しだけ真面目な顔になった。
「嫌なら無理には誘わない。」
「……。」
「でも、」
彼は柔らかく笑った。
「君と踊ってみたいとは思ってる。」
セアリスはしばらく差し出された手を見つめていた。夜風が静かに髪を揺らす。遠くから流れてくる音楽は穏やかで、夜会の喧騒もここまでは届かない。
「……本当に一歩だけですからね。」
根負けしたようにそう言うと、ルヴェルトの目が少し丸くなった。
「え、いいの?」
「そんなに驚かないでください。」
「いや、絶対断られると思ってた。」
「私も途中までそうするつもりでした。」
「じゃあ何で変わったの?」
セアリスは少し考えてから、小さく息を吐いた。
「……今日は色々考えすぎて疲れたので。」
「なるほど。」
ルヴェルトはくすりと笑う。
「現実逃避か?」
「否定はしません。」
すると彼は楽しそうに目を細めた。
「じゃあ責任重大だ。」
「何のですか。」
「君を少しくらい楽しい気分にする責任。」
軽い口調。なのに妙に自然だった。やっぱりこういうことには誰よりも向いているのね。
ルヴェルトに手を差し出される。セアリスは少しだけ調子を狂わされながら、その手へ自分の手を重ねる。
ルヴェルトの手は思ったより温かかった。
「では、お手柔らかにお願いします。」
「こちらこそ。」
彼はそう言って、ゆっくりセアリスを引き寄せた。
距離が近い。
やはり王族というのは自然にこういうことができるのだろうか。セアリスは少しだけ緊張した。
「そんな固くならないで。」
「無茶を言わないでください。」
「はは。」
ルヴェルトは笑いながら、音楽に合わせてゆっくり歩き出す。最初は本当に一歩だけのつもりだった。
だが…
「あ。」
気づけば自然に身体が動いていた。ルヴェルトのリードは驚くほど上手かった。軽やかで、無理がない。エドワードのダンスが“正確で美しい”なら、ルヴェルトのダンスは“自然で楽しい”感じだった。
「……上手ですね。」
「そりゃ王子だし。」
「そこで自信満々なの、ちょっと腹立ちます。」
「でも事実でしょ?」
否定できないのが悔しい。ルヴェルトはくすくす笑いながら続ける。
「君もちゃんと踊れるじゃん。」
「一応、王妃教育で叩き込まれましたから。」
「あー……。」
彼は少し察したような顔をした。
「もしかして、かなり厳しかった?」
「それはもう、かなり。」
セアリスは遠い目をした。
「姿勢、歩き方、礼儀、ダンス、会話……。」
「少しでも失敗するとやり直しです。」
「うわ。」
「“王太子妃として相応しく”だそうです。」
ルヴェルトは少し黙った。
そして、
「……大変だったんだね。」
珍しく静かな声だった。セアリスは少しだけ驚く。からかわれると思っていたからだ。
「まあ、必要なことですし。」
「婚約破棄を目指してたっていうのに?」
「やれと言われたら、やるしかないじゃないですか。」
「そうか。それはとてもえらい。だって本当はもっと自由なのが好きなんじゃない?」
「え?」
「だって、働いているときとか見るともっと生き生きしている。明らかにそっちの方が好きな証拠だよ。」
「……そうですか。」
ぽつりと零す。
ルヴェルトは少しだけ笑った。
「やっぱり。」
「そんなにわかりやすいですか?」
「かなり。」
またそれだ。セアリスが少しむっとすると、ルヴェルトは楽しそうに続ける。
「でも、そういうところ好きだよ。」
さらっと言われた。セアリスの動きが一瞬止まりかける。
「……殿下。」
「ん?」
「そういうこと、簡単に言わない方がいいと思います。」
「何で?」
「誤解されます。」
「別に誤解じゃないけど。」
あまりにも自然に返された。セアリスは完全に言葉に詰まる。ルヴェルトはそんな反応を見て、また小さく笑った。
「本当に反応面白いなあ。」
「からかわないでください。」
「今回は半分本気。」
「半分なんですね……。」
「全部本気にしたら君逃げそうだし。」
図星だったので反論できない。
夜風が二人の間を抜けていく。
テラスへ差し込む月明かりが、紺色の髪を静かに照らしていた。
ふと、ルヴェルトが少し真面目な顔になる。
「ねえ、セアリス。」
「はい?」
「もし本当に国外へ行くなら。」
セアリスの目が少し見開かれる。
「アーレンスに来れば?」
静かな声だった。
「君なら向こうでも絶対やっていける。」
セアリスは思わず息を止めた。
アーレンス。私がずっと行きたかった国。そのために言葉も文化も勉強したのだ。ルヴェルトの言葉は、それを急に現実味のあるものへ変えてしまう。
「……ずるいです。」
「何が?」
「そういう言い方。」
セアリスは小さく呟いた。
「本当に行けそうな気がしてしまうじゃないですか。」
一瞬、ルヴェルトが少しだけ目を細める。
そして、
「来てほしいとは思ってるよ。」
今度は、冗談っぽくなかった。セアリスは思わず視線を逸らす。心臓が妙に落ち着かない。するとルヴェルトはふっと笑って、わざと軽い調子へ戻った。
「まあ、その前にエドワードに怒られそうだけど。」
「……それは、まあ。」
「絶対怖いよね。」
「少し想像できます。」
2人同時にそんなことを言って、少し笑った。音楽がゆっくり終わりへ近づいていく。
ルヴェルトは最後に静かに一礼した。
「ありがとうございました、セアリス嬢。」
「こちらこそ。」
セアリスも礼を返す。
そして、
(……楽しかった。)
そう思ってしまった自分に、少しだけ困るのだった。




