20,婚約破棄について
王宮の一角にある応接室は、夜になるとひどく静かだった。
昼間は人の出入りも多い部屋だが、この時間になると足音一つ聞こえない。窓の外では庭園の噴水だけがかすかに音を立てている。
セアリスはソファへ腰掛けたまま、落ち着かない気持ちで紅茶を見つめていた。まだ熱い紅茶からは湯気が出ていた。
――やはり、そろそろ話すべきだと思う。最近の状況は、どう考えてもおかしい。
交流事業の手伝い。
翻訳。
王宮での仕事。
気づけば随分と目立ってしまっている。悪役令嬢として静かに婚約破棄される予定だったのに、これではむしろ存在感が増しているではないか。そしてなかなか婚約破棄されないことにも焦っていた。
(このままでは駄目よね……)
エドワードとの婚約は、元々政略的なものだ。そして乙女ゲームの流れなら、最終的には破棄される。ならば今のうちに、穏便に話を進めておいた方がいい。セアリスが密かに決意を固めていると。
「待たせてしまってすみませんね。」
静かだった部屋に落ち着いた声が響いた。
顔を上げれば、エドワードが部屋へ入ってくるところだった。いつも通り隙のない姿だ。整った顔立ちは相変わらず近寄りがたい。
「いえ、こちらこそお呼び立てしてしまい申し訳ありません。」
セアリスが立ち上がると、エドワードは軽く片手を上げた。
「構いません。それより座りましょう。」
「はい。」
2人は向かい合う形で座る。そして短い沈黙が落ちた。エドワードは静かにセアリスを見ている。
急かすでもなく、ただ“話を待っている”視線だった。
その落ち着きに、セアリスは少しだけ言葉を切り出しづらくなる。
「……それで。」
先に口を開いたのはエドワードだった。
「話とは何ですか?」
「ええと……。」
セアリスは一瞬迷う。だが、ここで逃げてはいけない。
「婚約の件について、少しお話したくて……。」
その瞬間。空気が一気にに変わった。エドワードの表情自体は変わらない。だが室温が少し下がったような感覚がした。
「続けて。」
静かな声だった。
セアリスは内心で少し緊張しながら言葉を続ける。
「最近、色々考えていたのです。」
「何を?」
「私は……王太子妃には向いていないのではないかと。」
エドワードは黙っている。その沈黙が逆に怖い。
「その、私は社交も得意ではありませんし、夜会も苦手ですし……。」
「……。」
「最近は王宮の仕事ばかりしていますし、正直、メイドの仕事の方が落ち着くといいますか……。」
「……それで?」
静かな相槌。だが逃がさない圧がある。セアリスはごくりと息を飲み込んだ。
「ですので、その……婚約について、改めて考え直すのも一つではないかと……。」
言い切った瞬間。応接室がしんと静まり返った。噴水の音だけが遠くで聞こえる。
エドワードはしばらく何も言わなかった。
セアリスはだんだん不安になる。
(あれ? 思ったより反応が……)
もっとこう、
確かにそうだなとか、こちらも考えていたとか、そういう流れを想像していたのだが。
しかし…
「……セアリス。」
「はい。」
「あなたは、婚約を“仕事”としてしか見ていないのですか?」
「え?」
予想外の言葉だった。
「それは……政略結婚ですから。」
「確かに始まりはそうです。」
エドワードは淡々と答える。
「ただ、あなたは極端すぎます。」
「極端……ですか?」
「婚約破棄を前提に動きすぎている。」
セアリスの肩がぴくりと揺れた。
(な、何故それを……!?)
エドワードは小さく息を吐く。
「国外で暮らせるよう準備していることも。」
「…………。」
「語学を学び、文化を調べ、仕事まで考えている。メイドもこれの一環なのではないですか?」
全部見抜かれている。セアリスは思わず視線を逸らした。
「……そこまでわかっていたのですか。」
「とてもわかりやすいので。」
「そんな……。」
かなりショックだった。エドワードは紅茶へ視線を落としたまま続ける。
「私は…」
エドワードは何か意を決したような表情をした。
「私は、あなたとの婚約を破棄するつもりはありませんよ。」
セアリスが目を見開く。
「……え?」
「何故そんなに驚くのですか?」
「い、いえ……その……。」
驚くに決まっている。乙女ゲームでは婚約破棄されるのだ。だって…私は悪役令嬢だから。むしろそちらへ向かっていると思っていた。するとエドワードは静かにセアリスを見た。
「もしかして、私があなたのことを疎ましく思っているとでも考えているの?」
「え。」
「……違うのですか?」
思わず本音が出た。一瞬、エドワードが黙る。
そして…
「はあ……。」
珍しく、深いため息をついた。
セアリスは少し固まった。
(え、ため息……!?)
「あなたはときどき本当に妙な方向へ結論を出しますね。」
「す、すみません……。」
「謝罪はいらない。」
エドワードは額へ軽く手を当てる。どこか頭痛を堪えるような仕草だった。
「私は愛想があまりいい方ではないですが…」
「はい……。」
「だが少なくとも、あなたとの婚約を終わらせたいと思ったことは一度もありません。」
その言葉に、セアリスは完全に固まった。エドワードは真っ直ぐこちらを見ている。冗談を言っている顔ではない。
「……何故ですか?」
ぽつりと零れた問い。
エドワードは少しだけ目を細めた。
「私の前でも変に取り繕わないから。」
「え?」
「王太子という立場しか見ていない人間は多いです。」
静かな声だった。
「でも、あなたは違います。」
セアリスは言葉を失う。
「……それに。」
エドワードは少し間を置いた。
「あなたが王宮で動くようになってから、以前より空気が良くなった。」
「空気、ですか?」
「うん。使用人同士の雰囲気もそうだし、交流事業も、より円滑に進んでいる。」
淡々とした口調。だがその評価は、思っていた以上に真っ直ぐだった。
「だから。」
エドワードは静かに言った。
「勝手に国外逃亡の準備を進めるないでくださいね。」
「国外逃亡って言わないでください!」
私は逃亡したいのではない。追放されたいのだ。
「似たようなものでしょう。」
「違います!」
思わず反論すると。
エドワードの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
本当にわずかだった。
だが確かに…笑った。




