儀式の正体
俺の魔力が安定したことを確認したメーヴェはそっと俺から離れると、アイリたちが作っていた四角形の一角に静かに陣取った。
儀式のことをすでに熟知しているビアンカは、さっきからその四角形の中央あたりで膝立ちのまま待機していた。俺も状況からやるべきことを察し、ビアンカの前でゆっくりと膝をついた。
誰も指示を出してくれないが、ビアンカが静かに両手を前に差し出してきたので、俺は自然とその手を取る。そして、彼女がそっと瞼を伏せたのを見て、俺もまた視界を放棄し、瞑想するように目を閉じた。
お互い手に力を入れていないのに、気づけばビアンカの指先が俺の掌に沈み込んでいくような感覚があり、それが彼女の魔力体なのだと瞬時に悟る。
さっき覚えたばかりの感覚なのに、俺にはすでにビアンカとメーヴェの魔力の『手触り』の違いが判る。
(……ビアンカの魔力の輪郭も、体の外に出たら曖昧になってるな。メーヴェの魔力がはっきりした形を維持していたのは、彼女が魔族だからなのか? それとも、単純に彼女がそれほどまでに強いからなのか……? ……こんな大ボスクラスの存在が、どうしてゲームでは勇者に敗れたのだろう……?)
先ほど暴走しかけた俺の魔力ほど霧散してはいないものの、ビアンカの魔力もゆっくりと空気に溶け込んでいるように感じられる。
だが、俺の『体内』に入り込んでいる部分だけは、薄っすらとではあるが、俺自身の魔力と混ざり合い始めている。
一度その感覚を意識してしまうと、違和感は徐々に強まり、もはや気を逸らすことすらできなくなってる。水に一滴のインクがじわじわと滲んでいくように、ビアンカの魔力が俺の領域を侵食し、染め上げていくイメージが頭の中で膨れ上がっていく。
決して不快な感覚ではない。だが、心の奥底から得体の知れないざわめきが湧き上がってくる。
(……こんなにも深く、誰かと触れ合っていいはずがない!)
もし魔力の感覚を『体を満たす不思議な液体』と表現するなら、他人の魔力が自分の中に流れ込んでくるこの感覚は、相手の心を直に覗き込んでいる感触に恐ろしいほど近い。
(この子……分かっていたつもりだったのに。俺に対して、こんなにも複雑な想いを抱いていたなんて……)
明確な『思考』や『感情』として言語化できるわけではない。それなのに、彼女の胸の内に渦巻くものが、まるで自分自身の『想い』であるかのように直接心へ流れ込んでくる。ビアンカという他者を『理解した』というより、彼女の存在そのものを自分の一部として『知ってしまった』という感覚に近い。
さらに侵食してくるのは、そんな曖昧な概念だけではない。どこからともなく、本来なら嗅覚で捉えられるはずのない魔力そのものが、松林を吹き抜ける風のような涼やかな『香り』として脳裏に直接伝わり始めている。
(……マズい。五感のすべてが、ビアンカの『色』で塗りつぶされていく――!)
しかし、なぜこんなことをするだけでビアンカが『隷属』されることになるのだろう。あいにく結婚生活の経験など、前世を含めて一ミリだってありはしない。だから確証など持てないが、今のビアンカを『知った』感覚は、長年連添った夫婦のそれに近いのではないだろうか。
気づけば、俺の領域に侵入していたビアンカの魔力はすでに引き下がっていた。となれば、次は俺の番だと推測できる。
また魔力が暴走するんじゃないかと内心かなりひやひやしているが、腹をくくってビアンカの手をそっと握り直す。
指をうっかり動かしてしまわないよう気をつけながら、右手の人差し指がにゅっと『伸びる』イメージを描く。
(けっこう疲れるぞ、これ……)
魔力体は流動的なものだ。身体の外で特定の形状を保つのは想像以上に難しく、『指』のような細かいパーツならなおさらだ。それでも、数秒維持できればそれで十分かと。
乱れそうな意識を集中させ、純粋な魔力で形作られた『指』で、思い切ってビアンカの掌を突っつく。すると、想像通りその先端が彼女の魔力の中へと溶け込んでいく手応えがあった。
(ほんの少し、だけど……まるで自分が『自分』でなくなっていくような感覚だ……)
魔力の流出は長く続き、かなりの魔力量がビアンカの体内へと溶け込んでいった気がする。それを彼女がどう感じ取ったのかは気になるところだ。
俺と同じように、彼女も『俺』という存在を深く『知る』ことができたのだろうか。それとも、まったく違う感覚だったのだろうか。『知らないおっさんに魂を汚染された』なんて思われていたら最悪だ。
焦りに耐えきれずそっと目を開けると、真っ直ぐに向けられたビアンカの視線とぶつかり、思わずハッとする。
(……これで、儀式は『完成』したのだろうか?――や、なにも変わっていない気がするんだが……)
「――メーヴェ様。魔力の同調は成功したようですわ。これから、お互いの体に現れた契約の紋章を探し当て、そこにそっと触れさえすれば契約が締結するのですね?」
「ええ。でもォ、魔族ではない貴方たちならァ、手で触れるよりィ、キスなさった方が確実ですわァ」
「そうですか。畏まりました」
「――お、おい……ビアンカ……!?」
彼女はすでに膝立ちのまま背伸びをし、俺の額にキスを落とそうとしていた。メーヴェに文句を言おうとしたものの、ビアンカに恥をかかせるわけにもいかない。俺は慌てて姿勢を低くし、正座に近い体勢をとって彼女の高さに合わせた。
スイッチが入ってしまったのか、彼女は躊躇なく俺の額に唇を寄せる。だが何の反応も起きないと見るや、続いて頬、うなじ、さらには胸元へと、啄むように唇を当てつづけた。
(人の見てる前でこんなことされると、かなり恥ずかしいんだが! つーか、なんか無駄にエロくないか、これ……!?)
俺にあらかじめ用意せられていたトーガのような衣装は、左肩が露わになるデザインだった。そのため、ビアンカのキスは自然とその開いた肩や腕へと誘導されていく。
もう我慢の限界だと思った次の瞬間――彼女の唇が俺の腕に触れ、素人の俺にすらハッキリと判るほどの魔力共鳴が巻き起こった。
(そうか。お前も結構恥ずかしかったんだな……)
またもやビアンカの心が理解できたような気がした俺だったが、メーヴェの次に放った言葉に冷や汗をかき始めた。
「う~ん。ちょっと意外だったけどォ、エンリーの場合、紋章の位置は間違いなくゥ……うふふっ!」
「スケベっすからね、ゴシュジンは」
「マジサイテー!」
「エンリー、また私を失望させたな!」
(言いたい放題だな、お前ら。つーか、俺はまだ何もしてないんだが……!?)
俺はこの儀式自体に反対だったというのに、理不尽に悪者扱いされるのはまた『システム』の強制力だろうか。
だとすれば、これから何が起こるか分かったものではない。ここで止めるのが最善かもしれない。
だが、ビアンカに視線を戻すと、彼女は大人の女性の余裕を感じさせる笑みを浮かべ、「気になさらないでください。私の覚悟はすでにできております」と、俺を気遣うように囁いてきた。
「じゃあ、ちょっと失礼して……」
淡い期待を胸に、俺はビアンカのしなやかな左手を取り、腕を水平に持ち上げさせた。儀式のために着せられたチュニック風の衣装は、艶めかしく脇に大きなスリットが入っているが、俺の目的はそこを覗き込むことではない。
チュニックと同じ軽い生地で作られた付け袖の隙間をそっと広げ、自分の紋章が浮き上がった位置と同じあたり――彼女の腕へと唇を寄せる。
(……ダメだったか。まさか本当に、アイリたちの言う通りビアンカの紋章はいかがわしい場所に現れたんじゃないだろうな……? ――くそっ、次はうなじにでもキスしてみるか?)
俺の焦りをよそに、祈りを捧げても、願いを叶えてくれそうな神はこの世界には存在しない。精霊とやらが何者たちなのかはまだ分からないが、元神官のセリースがあの調子では、あちらからの助けも期待できそうにない。
そして案の定、ビアンカのうなじに唇を落としてみても、何も起きなかった。
「セリースはァ、どう思いますゥ? こやつの性癖に一番詳しいのではァ?」
「耳っしょ」
「や。耳が恥ずかしいのはあんただけっすよ」
「じゃー……お腹?」
「うっわ!……あんたたち、二人きりの時どんなことやってたんっすか!?」
「おっ……おはっ……!?」
「ジア様、動揺しすぎっしょ?」
「ジアはどう思いますかァ?」
「わ……私は別に……むっ、胸とか……」
「胸への視線ならあたしも気付いたんっすよ。でも、ゴシュジンなら意外と太腿の内側かもっす」
「ふっ……ふとっ……!?」
「だから。次はジア様もこの儀式をやりたいわけ? 落ち着けって」
外野の雑音をかき消すほど心臓の鼓動がうるさくて、俺は腹を括ってビアンカの腕をもう一度どかし、その白く柔らかな肌の脇の下へと顔を寄せた。
(さっき気になったからじゃないからなっ! ただ、ここならまだギリギリ許容範囲内だと思っただけだ……!)
しかし、唇で彼女の温かい肌に触れてみても、先ほどのような魔力共鳴は起こらない。
(まさか……本当にお腹のあたりなのか……? ――いや、待てよ。俺はビアンカをまだ『そういう対象』として見ていないはずだ。それに、俺の紋章は腕の上部に浮き出たし、形状も『腕輪』っぽいのだった。……文化や風習にもよるが、これってつまり、結婚の証なのでは……?)
そういえば、メーヴェも似たようなことを言っていなかったか。この儀式は魔族の間において、『隷属』とはまた別の意味を持っている、と。
(どうして俺はてっきり、エロゲのお約束的シチュエーションだと思い込んでいたんだ……? ――これが魔族の婚姻の儀のようなものなら、俺からビアンカに渡った魔力が現れる場所は、たぶん……)
俺は、居たたまれなさと恥ずかしさに震えているビアンカの左手を、もう一度そっと手にとった。
(これで違ったら、俺もめちゃくちゃ恥ずかしいんだが……)
だってそうだろ。格好つけてここにキスして何も起こらなかったら、どんなエッチな場所にキスして外すよりダメージがでかい。
だが、確信にも似た予感を胸に――俺はビアンカの左手、その薬指へと静かに唇を重ねた。




