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魔力の形

机に肘をつき、憂鬱そうに書類の山を眺めている俺。

別に仕事が急に億劫になったわけではない。ただ、これからの展開を考えると、もう何も手につかないんだ。

隣ではアイリが、どこかの部屋から勝手に持ってきた椅子に腰を下ろし、つまらなさそうな顔でもう一つの書類の山を整理している。

そんな重苦しい空気を追い払うかのように、ソファでジアと遊んでいるプリムの元気な笑い声が時々部屋の静寂を打ち破る。


いっそ俺も二人のところへ逃げ込もうかと思い始めた矢先、執務室の扉が開き、ビアンカと魔人姿のメーヴェが入ってきた。


プリムはメーヴェの姿を見るなり警戒し、静かにジアの影へと隠れてしまった。時折、助けを求めるように俺へと不安げな視線を送ってくる。

そんな妹に俺は苦笑いを返し、安心させるように歩み寄ると、その小さな頭を優しく撫でてやった。

……なぜだろうか。メーヴェを含めた全員から、ひどく生温かい視線が注がれている気がしないでもない。

だが今は気を取り直し、プリムに声をかけてから、あとから入ってきた狼人族の亜人メイドへと彼女を預けた。


プリムが部屋を去るのを見送り、俺は軽く肩をすくめてビアンカたちに向き直る。

とうとう、この時が来てしまったのだ。


ビアンカの顔を窺うが、その瞳に動揺の色は見えない。

一方のメーヴェは既に俺へ背を向けており、背中に生えているコウモリのような黒い翼を、己の感情を代弁するかのように微かに揺らしていた。


彼女が当たり前のようにこの姿で現れるようになっただけでなく、いつの間にかこの屋敷にはメーヴェ専用の部屋まであてがわれている。

そして俺たちが今から向かうのも、当然ながら彼女の部屋だ。


俺の心は重いままだ。あれから一度、ビアンカとは喧嘩腰の口論を繰り広げたのだが、結局彼女の固い決意を揺るがすことはできなかった。


俺だって、今の自分を疑っているわけではない。だが、彼女の隷属化に反対しているのは、奴隷制度という構造そのものが根本から間違っていると思うからだ。

『主人が善人なら問題ないのでは?』と考える方もいるだろう。だが俺に言わせれば、そんなものは「主人の良心」という不安定な要素の上にしか成り立たない歪なシステムだ。

何より、人は変わり続ける。今日の『いい人』が、何かのきっかけで来年にはとんでもない人間のクズに成り下がるケースなど、腐るほど前例があるんだ。


(しかし、ビアンカたちの言う通り、もう他の解決法を模索する時間が残っていない。――いや、一つだけならまだ手はあるのだが、俺の口からそれを提案するわけにもいかず……結局、腹を括るしかない……)


そもそも、この隷属の契約的な儀式が、原作ゲームに存在していたかすら怪しい。ジャンル的に存在してもおかしくはないんだが、前世でプレイした記憶をどれほど掘り返しても見覚えがない。


(まさかとは思うが……『このジャンルならありがちだ』という俺の固定観念のせいで、こんな儀式が生み出されたりしていないよな……? もしそうなら、しゃれにならないぞ)


俺がそんな嫌な思考を巡らせているうちに、いつしか俺たちはメーヴェの部屋の前までたどり着いていた。

扉が開かれ、ふと中で指示を受けて儀式の下準備を進めていたメイドたちが、一礼をしてから黙々と部屋を後にしていった。


部屋の内装は他の使用人部屋と大差が無かった。エンリーの寝室や執務室ほどの豪華さはないものの、中世ヨーロッパ風の調度品は原作ゲームの背景で見たデザインが巧みに活かされており、意外なほどシックな雰囲気にまとまっていた。

室内は別段暗いわけでもなく、このあとここで『悍ましい儀式』が執り行われるような怪しい気配はどこにも見当たらない。


(……待てよ。まさか、この平穏な光景自体がメーヴェの魅了か何かの幻覚なんじゃないだろうな……?)


そんな恐れを抱きながら、警戒気味に足を踏み入れる。だが、それがただの深読みだったのだと思い知らされたのは次の瞬間だった。

部屋自体は何の変哲もない空間のまま。ただ、視線の先――ベッドの上にぽつんと用意されたあからさまな儀礼用衣装の束と、壁際に設置された衝立(ついたて)だけが、俺の不安を別の意味で的中させていた。


「ビアンカさん、向こうで気兼ねなく着替えるといいわァ」

「感謝いたします」


ビアンカは初めから知っていたかのように、大きい方の衣装の束を手に取ると、衝立の向こう側へと消えていった。

しばらくすると衣類が擦れ合うかすかな音が部屋に響き渡り、俺はむず痒さにたまらず視線を迷わせた。

しかしメーヴェはそんな俺の窮状を気遣う様子もなく、ベッドからもう一つの畳まれた衣装を拾い上げると、無造作に俺へ突きつけてきた。


「――いや。俺はビアンカのあとに向こうで着替えてくる」

「何を今更おっしゃるのかしらァ? ここで着替えてもよろしくてよォ」

「――だって……アイリたちもいるんだぞ?」

「何を照れているのかしらァ? あのドラゴンを除けばァ、ここにいる全員が貴様の『オスの姿』なんて熟知しているのではなくてェ?」

「――お待たせいたしました。メーヴェ様、この衣装はとても華やかですね。ですが……本来の儀式で、本当にこれを着用するのですか? ――あら。エンリー様はまだ着替えていらっしゃらないの?」

「――ほら! 衝立が空いたから俺もあっちで――」


と言いかけた瞬間、部屋に入ってきた二人の亜人メイドが、粛々と衝立を部屋の外へ運び出してしまった。

おまけに着替えを終えたビアンカまでアイリたちに加わり、無言の圧を孕んだ視線で俺を促してくる。


「……はぁ……分かったよ、もう……! 着替えりゃいいんだろ、着替えりゃ?! ――これ……下着くらい着けたままでもいいよな?」

「駄目ですわァ。儀式にはその衣装だ(・)け(・)を身に纏って臨んでもらいますわァ」

「そうかよっ……!」


確かにアイリやセリース、メーヴェとは既に色々と越えてしまっているし、今更着替えを見られるのを気にするのもおかしな話かもしれない。だが、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。


結局俺は、システムメニューの【装備変更】機能を利用することにした。

幸い、この羞恥イベントにはダイアログ画面が存在しなかったため、時折画面の隅にチラチラと表示されるヒロインたちの立ち絵をスルーしながら瞬時に着替えを完了させた。

ふと現実に戻ると、なぜかジアが両手で顔を覆い、指の隙間からこちらを凝視していたのだが……見なかったことにした。


メーヴェの表情が読み取れない。一方のアイリは、普段の調子と違って懸命に冷静さを装っていた。……だが、頭の上のアホ毛だけは落ち着きなくピコピコと揺れ動いている。


(そうか。あのときは『見られていなかった』のね……。まあ、あの時俺の体型も酷かったしな……)


いや、別にアイリの反応を見て『男のプライド』がくすぐられたわけじゃないからな……! ――はい、調子に乗りました、すみません。


とにかく、これで儀式の下準備が整ったらしい。メーヴェは静かな手つきで、アイリたちを順々に特定の位置へと案内していく。

ビアンカも自分の役割を既に把握しているようで、気づけば俺一人だけが手持無沙汰に取り残されていた。そしてついに、メーヴェが俺へと視線を向ける。


「始める前にィ、エンリーにも魔力操作を簡潔に教えて差し上げますわァ。アイリ同様、そっちも魔力の感覚に疎いでしょうけれどォ、ようやく手軽に覚えられる方法を見つけましたのォ」


(こいつ……まるで、俺とアイリの正体を既に知っているかのような口ぶりじゃない……!? ――あのバカ、まさかっ……!!)


部屋の中央、四角形に配置されたヒロインたちの中でアイリへと視線を送ると、彼女は気まずそうにぎこちなく目を泳がせた。


(まあ……メーヴェ相手じゃ、俺たちの秘密もここまでのようだな……!)


「……はぁ……何を言っているのかは分からないが、頼むよ」


無駄なごまかしを試みて、そう返すと、メーヴェは俺の反応など特に気にする様子もなく歩み寄り、ごく自然な動作で俺の手首をとった。


「異界の貴様たちには魔力の感覚が上手く伝わらないからァ、これからわたしの指示に従ってェ、しっかりと感覚を掴みなさいよォ」


目を閉じる前にもう一度部屋を見渡してみたが、『異界人』という言葉を口にしたメーヴェはもちろんのこと、ビアンカやセリースすらそれを特に意に介した様子はない。

ただ一人、哀れなドラゴン娘だけが、俺とアイリを交互に凝視しながら凄まじく驚いた顔をしていた。


「みんな、こんな形でバラすことになってすまない。聞きたいことは山ほどあると思うが……今回だけは見逃してくれ。あとできちんと説明するから……」


背後でジアが「ふんっ!」と不機嫌そうに鼻を鳴らす音が聞こえ、俺は苦笑交まじりに肩をすくめてからゆっくりと瞼を閉じた。

すると直後、メーヴェの手に触れられている手首が、容赦なく締め付けられるような感覚に襲われた。


痛みこそないものの、これが魔力の感覚というやつだろうと瞬時に悟る。俺は目を開けないまま、その不快な刺激をじっと確かめる。

圧迫感はしばらく続き、手首が歪に押し潰されていくような感覚に耐えかねそうになったその時――いつの間にか締め付けがすっと引き、今度は手首が爛れたように太く膨張していく錯覚が押し寄せてくる。


たまらず目を開けたが、視界に入った俺の手首には何の異変もない。

それでもなお、肉体が爛れていくような不気味な感覚が霧散するまで数秒を要した。俺は疑問を孕んだ視線でメーヴェの表情を窺う。


「上手く感じ取れましたわねェ? 魔力というものはァ、本来は人の身体の輪郭に収まりィ、感覚として己の肉体と同じ形を成しているもの。それを『体感』として理解できない異界の方にはァ、こうして強烈に叩き込むのが一番手っ取り早いと割り出しましたのォ」

「そうか……これが『魔力』の感触か……」

「さあァ、もう一度目を閉じてェ、ご自分でその感覚を探知なさってェ」

「……おう」


言われた通りにそっと目を閉じ、今覚えたばかりの感覚を頭の中で手繰り寄せてみる。

すぐに理解できた。これは肉体とは全く別物で、固形物のような実体があるわけではない。むしろ液体のように、思考次第で形を柔軟に変えられる代物だ。


感覚に慣れるにつれ、操作の要領が掴めてくる。気づけば、己の意思で形を自在に変形させることすら可能になっていた。

某アメリカアニメの有名な船乗りの前腕のごとく、魔力を大きく膨らませて一人で面白がっていた……のだが。


不意に、背筋を凍らせるような不安が押し寄せてきた。


気づけば、魔力体の輪郭が急速に曖昧になり、止めどなく虚空へと溶け出していく感覚が止まらなくなっていたのだ。意思でコントロールしようと試みても、魔力は抑え込むそばから膨張し、拡散し続けていく。


切羽詰まって目を開けた瞬間――メーヴェが何も言わずに俺をぎゅっと抱きしめてきた。


魔族の姿に戻ったことで、以前のようなグラマラスさは鳴りを潜めている。それでも、絶世の美女である彼女の柔らかな身体に包まれ、強烈な安心感が全身を駆け抜けた。

青白い肌の美しい魔人に抱きつかれているというのに、今の俺にはエッチな妄想に耽る余裕など微塵もない。


だが――ふと気づけば、暴走しかけていた魔力の形が穏やかに収まり、本来の輪郭を取り戻していた。

ゆっくりと抱擁を緩めたメーヴェが、すぐ耳元で心地よい音色の声を囁き、俺を労う。


「おめでとうございますゥ。もう大丈夫です。今ので十分ですよォ」

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