ドラゴン族と魔族
もう一つ変わったことといえば、ここ数日でジアがまた俺のベッドで寝るようになったことだ。
だが、これは別にツンデレ的なナニカというわけではないらしい。むしろ彼女は今も俺に腹を立てており、会話も最低限に留まっている。
それでも俺を『安全な熱源』と認識しているのか、彼女はいつものように衣服をすべて脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿で掛け布団の下に潜り込んでくる。俺にはなるべく触れまいとしているようだが、時折体に当たる僅かに肌寒い彼女の皮膚の感触が懐かしく、頭が幸福感でどうにかなりそうだ。
そんな一夜を過ごしたばかりの俺は、目を覚ますなり下半身の些か濡れた感覚に気づき、じわじわと焦りを募らせていた。言っておくが、これは決して『おねしょ』の類ではない。
いい大人になってからの夜尿症もかなり恥ずかしいが、思春期でもない身での夢精も、それなりに心にダメージを与えてくるものだ。
何より、隣では鼻の効くドラゴン様が眠っている。もし彼女が今目を覚ましたら、確実に大変なことになる。
俺とて、隣に全裸の美女が寝ていても一切動じない聖人君子だと主張するつもりはない。当然、このシチュエーションを想像しただけで頭に煩悩が押し寄せ、身体が生理現象を起こすことくらいはある。だが、いくら欲求に苛まれたところで、己の身体すらコントロールできないほど俺の精神はやわじゃないはずなのだ。
(となれば、これはゲームシステムが仕組んだイベントか……あるいはメーヴェの仕業か。とにかく、ジアが起きる前にベッドを抜け出して、洗面所でトランクスの中の惨状をどうにかしないと……!)
なんとかしてベッドを出た俺は、姿見で生地のシミがそこまで目立たないことを確認できたものの、匂いは別の問題だった。
亜人っ子のメイドたちは言うに及ばず、人族の俺でさえ瞬時に嗅ぎつけられるレベルの特殊な匂いだから。
コソコソとドアを開け、廊下に誰の影もないことを確かめてから、忍び足で急いで洗面所へ向かう。
(いつも思うんだが……ゲームの時は、この屋敷がこんなに広くなかったよな……?)
実際に住んでみると、この広さは普段ならありがたい。メイドの数も多いし、これだけの大世帯が一緒に暮らすには相応のスペースが必要だからだ。
しかし、いくら貴族の屋敷とはいえ、洗い場が寝室からこんなに遠いと、いつ誰と鉢合わせするか気が気ではない。
(――いや、これがラブコメ的なイベントなら距離なんて関係ないか。仮にここが現代の3LDKアパートで、洗面所はすぐそこだったとしても、誰かと出くわす『羞恥エンカウント』は避けられない……諦めよう)
そう腹を括って観念したものの、こちらの『期待』を裏切るように、結局何事もなく洗面所に到着した。
体を拭き、下着を替えてサッパリした俺が部屋に戻り、ベッドに視線を遣ると――ジアが露骨な狸寝入りを決め込んでいるのを発見した。
(しまった……!! 体はなんとかなっても、シーツの匂いまではどうにもできねぇ! 気づかれて当然だ……くそ、メーヴェめっ……!)
なぜか、これが奴の仕業だと直感的に確信した。
だが、ジアが怒り出す気配がないのは嬉しい誤算だ。ゲームシステムの強制力で俺に惚れた面もあるとはいえ、彼女の不器用な愛情は本物のようだ。
(まあ、恥ずかしがり屋なところも相変わらずだな――可愛い!……ここは気づかないフリをして、早く着替えを済ませよう……)
そう決めた矢先、まるで計ったかのようなタイミングで、メーヴェがすました顔で部屋に入ってきた。
(――やはり元凶はお前だったなぁ!!)
「おはようございますゥ。ジア先輩をお借りしに参りましたわァ……あら? この匂いはァ――っ」
「おはよう。ジアはまだ寝てるぞ。あとで俺から伝えておくから、今は休ませてやってくれ」
(何が『ジア先輩〜』だ!? お前はこの屋敷のメイドでも何でもないだろうがっ! ……それに何だその白々しい大根役者みたいな芝居は!?)
しかし、俺がジアの繊細なプライドを必死で守ろうとしているのに対し、メーヴェがそれを容赦なく踏みにじる。
「あらァ? 眠っているとは、おかしいですわねェ、ジア先輩ィ?」
「……」
「――もしかしてェ、エンリーにへんなことでもされておられますゥ? でしたらァ、こんな男から早く離れましょうよォ」
メーヴェは返事すら待たずに掛け布団を力任せに剥ぎ取った。剥き出しになったジアは丸まり、その官能的な肉体を必死で隠そうとしている。
「あらァ?ジア先輩とエンリーがそんなお熱い関係だとは知らずにィ、大変失礼いたしましたァ。――あとはお二人でごゆるりとねェ……。うふふっ!」
メーヴェが「微笑ましいものを見た」とでも言いたげなニヤケ顔で部屋をあとにすると、俺はジアの蠱惑的な肢体を見て生理的反応を起こしている自分に気づき、慌てふためいて視線を逸らした。
この状況では、何を言っても裏目に出るし、何も言わなくても気まずい。正解なんて存在しないのだから、せめて朝の挨拶だけでも済ませて退散しよう……。
「おはよう、ジア。俺は向こうを向いてるから――いや、外に出るから、ゆっくり着替えるといい」
彼女の返答を待たず、俺はドアに向かって歩き出し、寝室を再度あとにしようとした。
「……エンリーは、美女なら誰彼構わずそのように反応するんだね」
「――っ!!」
「私は、あんなに頑張ったのに……」
「そんなことない!――えっと……こればかりは男の生理現象で……抑えきれない、というか……俺は決してジアを『もの』として見ているわけじゃないんだぞ。……不快にさせてすまなかった」
「――また、メーヴェの夢を見たの?」
「いや、見ていない」
「じゃあ、セリースがもう相手をしてくれないから?」
「俺はっ!……そこまで性欲に耐えられない男じゃ、ない……」
後半になるにつれて自信が萎み、どんどん尻すぼみな声になってしまったが、意図が正しく伝わってくれることを祈るしかない……。
「……やっぱり、メーヴェの夢を見たんだね」
「断じて違う!――夢を見たかどうかまでは覚えていないが……俺はもうあいつには騙されないぞ。絶対に騙されない!」
「一度浮気されたのに、それを『信じろ』と言うの?」
「あの時のこと……何を言っても消せないのは分かってる。自分の詰めの甘さが原因なのは事実だし、俺だってジアたちの立場なら酷く傷ついていたと思う」
「痛かったよ……! 私は、初めて好きになった相手だったのに……先にアイリたちがいて、もう諦めるしかないと思って……。ようやく三人との折り合いがつきそうになって、これから幸せを掴めるんだって希望を抱いたのに……最低っ! ケダモノ……!」
ベッドから立ち上がろうとしていたジアは、肩を震わせ、力なくシーツへ崩れ落ちた。その痛々しい姿を見ていられず、俺は咄嗟にベッドサイドへ膝をつくと、彼女の肩をそっと抱き寄せた。
「なんで……私たちだけじゃ、足りないのよぉ……!?」
「そんなことは絶対にない! あんなことがあった以上、信じろと言う方が無理かもしれないが……俺にとってジアたちの誰もが、勿体ないくらい高嶺の花なんだ。これ以上いい女なんて望めないし、望もうとも思わない!……頼むから、これだけは信じてくれ……っ!」
しばらくの間、俺の胸に顔を埋めて静かにすすり泣いていたジアだったが、涙が引いてくると、ぽつりぽつりと問いかけてきた。
「じゃあ……居座り続けているあのサキュバスを、どうするつもり?」
「――そうだな。追い出したいのは山々なんだが……今の俺の実力じゃ、万回挑んだところで万回返り討ちにあうだろうな……」
「私がドラゴンの姿に戻れたら確実に勝てるけど……そうしたら、二度と人の姿には戻れなくなる」
「ダメだ。ジアが俺たちのために自分を犠牲にする必要なんてない。俺自身が腕を磨いて、もっと強くなって――っ」
「勇者でない限り、人族はどう足掻いても魔族には勝てないよ」
「――どういうことだ?」
「知らなかったの? 人族はこの大陸に渡ってからの数千年、桁違いに強い魔族たちに怯えて、ひっそりと暮らしていたんだよ」
「だが、今は魔族の数の方が圧倒的に少ないだろう?」
「大戦があったのは、確か五千年前くらいだったかな……そこに、同じくこの大陸の先住種族だったドラゴン族が人族の味方について、魔族たちを追い詰めたの。元々少子化だった彼らは、そこから勢力を回復できなかったんだよ」
「ドラゴン族は、魔族のことが嫌いなのか?」
「ううん、そんなことはないよ……。でも、メーヴェはアイリたちを傷つけたし、エンリーを奪った……だから許さない!」
「俺は奪われてなんかいないし、アイリたちも堂々と戦って、力及ばず負けただけだ。人と魔族が争っている以上、敵に容赦しないのは当たり前だろう? ましてや、人族は生きる場所を勝手に奪いに来た『よそ者』なんだから……」
「エンリーは、どうしてあの女を庇うの? 精神を操られて、酷い目に遭わされたのに……」
「確かにな……。これもあいつの魔法の影響だと思いたくはないが……なぜか、メーヴェのことを憎みきれないんだ。(――エンリーやプリムラと同じように、彼女もまたこのゲーム世界の『仕組み』に囚われた被害者なのかもしれないからな……)」
「やっぱり、エンリーには節操がないね」
「どうしてそうなる? あいつのことは『憎みきれない』と言っただけで、『好き』とまでは言ってないぞ」
「まだ分かっていないなら、今はそれでいい」
ジアは俺の胸に片手を当て、言葉にしなくとも「離して」と語るように、かすかな力で押し開けようとしてきた。
抱き寄せた時には夢中だったが、いざ大人しく身を引こうとすると、彼女の妖艶な肢体が視界に入り、頭の中が大混乱に陥りそうになる。さらに、ジアが俺を見上げ、瞳をまっすぐ見据えてくる以上、自分も目を逸らすことができないでいる。
「そろそろ着替える時間だね。――どうせ皆もう起きているし、悪戯好きの魔族っ子にお灸を据えなきゃならないんだし……」
「あらァ……見つかってしまいましたかァ?頭の固いドラゴン族と侮っておりましたけれどォ、ジア様は流石ですねェ」
「一つ、提案があるんだけど。聞く?」
「ではァ、伺うとしましょうかァ」
「その偽りの姿を捨てて、エンリーに本当の姿を見せたらどう?」
「……ジア様もォ、いじわるですねェ。わたしはそんなにお邪魔でしたのォ?」
「ううん。貴女はエンリーのことをまだ見くびっているから、彼の本当の凄さを知ってほしいだけ……まあ、無理にとは言わないぞ。貴女が良いと思った時に変身を解けばいい」
またしても幻覚魔法で潜入していたメーヴェは、ジアの言葉を受けて空間から姿を現し、しばらく考え込むように立ち尽くしていた。
やがて、彼女の体を半透明な黒い靄が覆い尽くしていく。その靄が霧散した時――露わになったのは、異質でありながら息をのむほど美しい青い肌だった。メーヴェが初めて、俺たちの前でその『真の姿』を現した瞬間だった。




