訓練
続けてビアンカの視点です。
「もう朝食をとる時間はないっすね。満腹で激しい運動なんてできないっすから」
「そうかしら?では、このまま訓練場へまいりましょうか」
「そうっすね。……でも、その前に着替えるっすよ」
「仕方ありませんわ。お着替え、お付き合いいたしますわ」
(無理に話を本筋に引き戻したところで、警戒されて得られる情報は少ないでしょう。そもそも『満腹』と『運動』に何の関係があるのか、私にはさっぱり分かりませんが……ここはアイリさまにお付き合いして、次の機会を窺うとしましょう)
しかし、私たちが動きやすい服の置いてある更衣室へと向かおうとした、その時のことでした。
背後から、聞き覚えのある愛らしい声が響いてきました。
「おねえちゃんたち、くんれんにいくのですか?」
「これは、プリムラお嬢様。本日はお加減もよろしいご様子で、なによりですわ」
「ビアンカおねえさま、こんにちはなのです」
「プリム様、こんにちはっす」
「えへへ。アイリおねえさまも、こんにちはなのです」
(プリムラお嬢様は生まれつきお体が弱く、時折ひどい発作を起こされることがあります。万が一に備えて、私たちの目の届く場所にお誘いした方が安心ですわね……)
「本日はご主人様はご一緒ではありませんが、私とアイリさまはこれから訓練に向かいますの。プリムラお嬢様も、よろしければご一緒にいかがですか?」
「みても、よろしいのですか?」
「勿論ですわ。プリムラお嬢様は午後までお勉強もありませんし、退屈でなければ、是非とも私たちの鍛錬を見学なさってくださいな」
「やった! なのです」
プリムラお嬢様の小さな手を優しく握ると、アイリさまと共に更衣室へ歩き出しました。
お嬢様はこうして直に手で触れることができるのに、今でもその存在はひどく儚く、いつか空気に溶け込んで消えてしまいそうな印象を受けます。
(何度も見てきた『未来』の中にも、彼女は確かに存在していたはずなのに、『そこに居た』ということ以外、彼女の記憶がほとんど思い出せないのです。プリムラ・ポークナイト。悪名高いエンリー・ポークナイトの病弱な妹――彼女がいずれ本当に消えてしまう運命なら、彼女の葬儀は……あれ……? 私、まだ疲れが残っているのかしら……?)
屋敷の玄関近くに設けられた使用人用の更衣室に入ると、プリムラお嬢様はちょこんと部屋の中央のベンチに腰を下ろしました。私とアイリさまは粛々とドレスの紐を解き、背中が際どく開いたメイド衣装をハンガーに戻します。
これで完全に裸になったわけではありませんけれど、衣装の特徴である大胆に開いた背中の意匠のせいで、今は私もアイリさまも、ブラッシエールは着けておりません。
こうした姿を見せるのは自然なことであり、むしろ美しいとすら思えるのですけれど、それでも幼いプリムラお嬢様の目に触れさせるにはまだ早すぎる。そう思ったのか、気付けば私とアイリさまは反射的に胸元を片手で隠し、手早く、刺繍が施された華やかな下着の中へと、女性特有の柔らかい膨らみを包み込んでおりました。
スラリと伸びた脚を包んでいたストッキングを脱ぎ捨てて、ラフな印象の短パンを履き、上半身をシャツで包み込みます。仕上げに長いブーツへ足を通してから、私たちは庭の一角に作られた訓練場へと向かいました。
今度は、お体の弱いプリムラお嬢様を、華奢な見た目のわりに強い力を秘めているアイリさまがおんぶして連れてきてくれました。
そして、プリムラお嬢様を安全な木陰に下ろし、改めて彼女のご様子を確認した後。私たちは、これから身につける武器や防具を彼女の側に置き、二人並んで準備運動を始めました。
腕や足、背筋を伸ばし、腰や肩を大きく回して、入念に身体の感覚を確かめていくのです。
そのまましばらく無言で身体をほぐした後、私とアイリさまは武具を置いた場所まで戻りました。そして、何も言わずそれぞれの武装を身に着けてから対峙し、数メートル離れた位置で構えを取りました。
何度見ても、アイリさまの構えは恐ろしく感じます。彼女は生まれながらにして戦闘のセンスに恵まれ、その上、血のにじむような努力も惜しむことなくこなしてきた人。だからこそ、味方だと分かっていても、彼女が武器を握った姿が目に入った途端、体中にヒリヒリとした緊張感が走るのです。
自分を卑下するつもりは全くありません。何と言っても、私自身も、これまで見てきた『未来』の中で一度も武器など扱ったことがなかったはずなのに、なぜか短剣を用いた戦闘において天才的な才能があることが判明したのですから。
アイリさまに先手を譲ると、いつも手痛く負かされてしまいます。ゆえに私は恐怖心をねじ伏せ、地面を蹴って突進しました。
案の定、左手の短剣で狙った彼女の脇腹は幻影のように視界から消え失せ、右側から迫る彼女の剣を、もう一本の短剣で受け流すだけで一苦労です。
私が二つも武器を手にしているというのに、まるで子供が大人に弄ばれているように、アイリさまの間合いで踊らされているような気がしてなりません。
最初の頃は皆、なまくらの武器を使って大怪我を避けておりました。けれど、戦闘技術を身に付けてからは、いつの間にか刃のついた真剣を訓練でも使うようになっていたのです。
始めたばかりの私やセリース様の技量では、寸止めなど夢のまた夢でした。しかし、鍛錬を続けていくうちに、戦闘の流れが手に取るように分かり、どこでどう動けば相手に致命傷を与えられるか、はっきりと知覚できるようになったのです。
幼いお嬢様の前で惨たらしい怪我を負うのは憚られますけれど、実戦において、技量だけで相手を屈服させることは不可能です。時に敵に怪我を負わせ、時に殺すつもりで挑まなければ、自分や仲間の命を危険に晒すことになります。
何より、刃で肉を断たれた時の激痛や、血を流して重くなっていく身体の感覚を知らなければ、実戦では使い物になりません。傷を負った極限状態から、どうやって最適解を導き出し勝利を掴み取るのか。それを見極めるために、私たちは互いの身体に傷を刻むことも厭わず、真剣での立ち合いを続けてまいりました。
そうして私は、アイリさまの隙を見て――『これは誘いだ』と直感しつつも、あえてそこに突っ込むしかないと瞬時に悟り、素早く短剣を振るいました。
――直後、アイリさまの突き出した剣の切っ先が、容赦なく私の右肩を抉りました。
以前の私であれば、ここで痛みに耐えきれず、戦闘など瞬時に放棄していたはずです。けれど、アイリさまに鍛え上げられた根性で歯を食いしばり、狙いを定めていた彼女の左足目掛けて短剣を突き出しました。
『どうせ避けられる』と半分勝負を諦めていた私は、それでも身体に鞭を打ち、力強く武器を握りしめました。直後、刃が生きた筋肉を切り裂く生々しい感触に、ハッと現実へ引き戻されます。
――どうしてか分かりませんが、アイリさまの回避が間に合わず、私の短剣が通り抜けた後、彼女の脚の外側に深い傷が開いたのです。
本来なら見えるはずのない、綺麗に引き締まった薔薇色の肉筋が覗き、次第にぱっくりと傷口が広がって、そこから夥しい量の鮮やかな血が止めどなく滲み出ます。その痛みは想像に難くないほど耐えがたいはずです。証拠に、アイリさまの額にはすでに大量の脂汗が浮かび、焦点を定めるために目を細め、血が滲むほどご自分の唇を噛んで堪えていらっしゃいました。
以前の密かな会話の中で、アイリさまは前世において武術を習ったこともなく、興味すら持たなかったのだと判明しました。それなのに、今の『アイリさま』は弱体化するどころか、単調な動きしかできなかった以前のアイリさまよりもずっと狡猾で、何倍も恐ろしく感じます。
これほどの並みならぬ痛みに耐え、まだ勝負を諦めずに立っている彼女を見て、私は心の中で『流石はアイリさまですわ!』と、素直に感嘆するほかありませんでした。
ナディアさんたち、元冒険者の亜人娘たちが訓練に参加されるようになってから知ったことですけれど、並の相手なら、あんな傷を負った時点で構えを維持することなどできず、ほぼ勝敗が決している状態なのだそうです。しかし、アイリさまだけはそう簡単に諦めません。
彼女はどんなに追い込まれても、不利な状況を逆転させるだけの技量と根性を備えておりますゆえ、決して油断してはならないのです。
それでも、彼女も所詮は人間。延々と勝負を長引かせていれば彼女の余裕も尽き、その後の反撃に対してお互い寸止めができるかどうかなど、試したくはありません。
(――あと少しだけ、踏ん張ってみせませんと……!)
地を蹴る度に、右肩の傷口が焼かれるように悲鳴を上げます。心臓の音が五月蠅く耳に響き、喉はカラカラに渇いて舌が口の奥に張り付くようです。
最早、私にも余裕など残っていないのかもしれません。
歯を食いしばり、眉間にしわを寄せて、霞む視界を意地で保ちながら、私は猛進してアイリさまの間合いへと突っ込みました。
予想通り、右側から彼女の長剣が猛烈な勢いで迫ってきます。
(痛っ!!! 腕がもぎ取られますわ……!!)
彼女の一撃は非常に重く、怪我をした右肩でその勢いを殺すのは最早不可能だと思いました。それでも耐え続けていると、ようやくその圧が軽くなり――代わりに、右手の痺れが遅れて脳にたどり着いたのです。
――「ズシンっ!」と右手から滑り落ちた短剣が、足元の地面に突き刺さる音とともに、私の足にも強烈な激痛が走りました。
どうやら自分の武器で自らを傷つけてしまったようです。最早、私に勝ち目は残っておりません。
それでも半分希望を捨てながら、私は攻撃を止めませんでした。左手の短剣を逆手に持ち替え、アイリさまの意表を突くつもりで、すれ違いざまにその短剣の切っ先を彼女の心臓目掛けて突き付けます――。
(――寸止めが間に合って心底ありがたいですわ! ……アイリさま、なんなのですか、もうっ!! ギリギリでしたけれど、一歩間違えたら大惨事になりましたわよ!)
私が力なく短剣を取り落とすと、アイリさまも握っていた剣を手放し、目を瞑って背後に倒れ込みました。そして仰向けのまま、音を立てて激しく肩で息をしながら、微笑んで私を見上げてきました。




