ビアンカ
「……さま? ……ンカ様? ……ビアンカ様?」
私が珍しく寝坊をして、部屋にすっかりお日様の光が差し込んだ頃に目を覚ますと、ベッドの傍らでは、蛇のような下半身を持つ亜人の娘が私を覗き込み、心配そうに声をかけていました。
彼女の名前は『ナディア』。ご主人様が救い出してくださった、変質者の貴族たちに如何わしい仕事をさせられていた亜人娘たちの一人です。
私の記憶にある『正しい』時間の中でも、『勇者』様が彼女たちの苦難を終わらせるために、あの貴族たちを懲らしめるという一幕はたしかに存在しました。しかし、勇者様はその後にジア様と親しくなったものの、今の『エンリー』様のように、助け出した娘たち一人ひとりのことまで気にかけるようなことはございませんでした。
ですから、私が彼女たちの名前を知るのも、こうして直に声を聞くのも、今回が初めてのことなのです。
元々冒険者だった彼女たちがメイド業に慣れるまでにはかなりの時間を要しましたが、中にはナディアさんのように物覚えの早い娘も幾人かおり、今では彼女たちを班長として任命し、屋敷内の仕事を任せています。
些かがさつな性格の子たちも多々おりますけれど、皆、根はいい子です。ただ……どういう訳か、皆一様に露出したがる傾向があり、あげくの果てにはご主人様から『そうするように』と命じられたと主張する子たちまでおります。
――ご主人様は「そんなこと言っていない」と強く主張なさいますし、彼女たちの方も問い詰めてみると、いつ、どこでそんなことを言われたのかを全く思い出せないのだそうです……。
ナディアさんには、ベッドから出た私の着替えから、髪を結うところまで手伝ってもらいました。
彼女には戦争未亡人のお母様と、十年も年下の妹さんがいらっしゃるそうで、その妹さんのお世話をしてきたからこそ、こうしたメイドのお仕事もすんなりと覚えられたのだそうです。
身体のほとんどが蛇のような小さな鱗に覆われたナディアさんも素敵ですが、一度紹介してもらった妹さんは、それ以上に美しい肌色の柔らかい鱗を有していました。
その妹さんはどうやら人間との混血で、父親が誰か分からないという時点で、ナディアの母親が戦争の時に何を経験したのか……想像するだけで虫唾が走るのです。
「ビアンカ様、お疲れなのですか?」
「そうかもしれません……考え事が顔に出ておりましたか。淑女たるもの、まだまだ努力しませんと……」
「息抜きも必要だろっ……でしょう。――プリムラお嬢様のことなら、今度は妹を連れてきて遊び相手を頼んでみよう……みましょうか?」
「ありがとう。セリース様が身重になられた今、妹さんが手伝ってくださるのなら助かりますわ。しかし、プリムラ様は病気がちです――妹さんにはまだ辛いのでは?」
「そこは僕の仕送りも増えて、母の給料も安定した今、生活はかなり楽になった……なりました。――それに、あの子はいつも元気いっぱいだから、少し辛いことがあっても、屈したりしない……しませんよ!」
「あら、素敵! ふふっ! ――私もまたリラさんにお会いできるのが楽しみですわ」
「あ、あのとき、ビアンカ様に絡みついて妹も反省しましたよ。僕も、母もきつく言い聞かせたから――っ」
「――責めているわけではありませんもの。妹のリラさん、本当に人懐っこい性格で、あの元気さがプリムラ様にも少し移ってくれたら幸いですわ」
「あ、ありがとうございます。では、僕は自分の仕事に戻ります……ビアンカ様、本日もよろしくお願いいたします」
「はい。こちらこそ」
ナディアさんの尻尾の先が扉の隙間から消え、静かに扉が閉ざされた後。私は自分のベッドシーツを整え、彼女が換気のために開けた窓越しに、暫く屋敷の庭を眺めておりました。
(――今日は最初に鍛錬でしたわよね。まだ軽く朝食をとる時間があるのかしら?)
私は部屋を後にし、キッチンに向かおうと廊下の角を曲がったところで――ばったりと、同じく寝坊したであろうアイリ様と鉢合わせになりました。
(相変わらずの凛々しいお姿……でもないかしら)
アイリさまの目元は少しやつれて見えますし、どうやらご主人様と何らかの進展があったご様子。
本来、恋の敵でしかない彼女を気遣うのは、私の利にはなりません。それに……私が知る『正しい未来』において、私を貶めるために食事に一服を盛ったのは他ならぬ『アイリさま』なのです。
今の『アイリさま』が、あの残酷な未来の彼女とはまるで別人のようだと頭では理解していても、私はまだ彼女を完全に許すことなどできませんもの。
けれど、今の『アイリさま』にはかつての恐ろしい面影もありませんし、とても面白い人物だと思いますわ。――なのでここは浅いうちに、傷に塩を塗ってさしあげませんと。
「おはようございます、アイリさま。――あっ! 『おはよう』というには、些か遅い時間でしょうか?」
「おはよーっす。ビアンカさまも寝坊したっすけど?」
「生憎、私の場合は、昨日はとても忙しい一日でしたの。――アイリさまは……ご主人様とイチャイチャでもなさいましたの?」
「『イチャイチャ』は……してないっす……」
(もう! もどかしいですこと。――こちらは応援したくなどありませんのに!)
「では、あまり眠れなかったのはエンリーさまとは関係がなくて?」
「――ビアンカさまと関係あるんっすけど」
「あら。嫉妬とは、お見苦しいですこと」
「――嫉妬じゃっ! ……ないっす。ただ、『好き』と言われた直後に、あんたの相談をされたっす……」
(もう! もう! もう! ――ご主人様も不器用過ぎませんの!? 私の事情を気にかけてくださるのは嬉しいですけれど、恋のライバルをフォローしなければならない私の身にもなっていただきたいものですわ!)
「あら。私は別に、エンリーさまに想い人が何人いらしても関係ありませんわ。彼の一番になれる自信がありますから」
「そう言えば、ビアンカさまは『一夫多妻』っていうこの世界の常識を疑わないっすね」
「それもありますけれど。もし彼が私を満足させることができませんでしたら、愛人を作ることで済む話ですので」
「――それは達観しすぎじゃないっすか?」
「ジョウダンデス。ワタクシ、エンリーサマヒトスジナノデス」
「ぶふっ! ……あははっ! やめてよ、おかしいっす……」
「やっとマシな顔になりましたわね」
私の背丈はアイリさまよりいくらか低いはずですのに、未だ俯きがちな彼女と視線を合わせるのは造作もないことでした。
そのタンザナイトのように美しい輝きを放つ瞳を覗き込みながら、これまでに交わした幾度もの会話から得た情報へと、密かに思考を巡らせます。情報を引き出すのにはいささか骨が折れましたけれど、日々の他愛ないやり取りを通じて、彼女の『前世』についていくつかの重要な事実が掴めてまいりました。
一つ目は、彼女が前世においても、現在の姿と大きく年齢が離れていなかったということ。そして、恋愛経験について何度尋ねても露骨にはぐらかされるため、おそらくその手の経験が極端に浅いか、もしくは皆無であるということ。
もう一つは、彼女がかつて居た世界での常識です。あちらでは、特定の相手と交際を始めた後、他の異性に少しでも情欲を抱いたり、ましてやその感情のままに行動したりすれば『不誠実』と見なされ、社会的にひどく排斥される傾向にあるのだそうです。
彼女がご主人様に対して、具体的にどのような感情を抱いているのかまでは、まだはっきりと断言できません。けれど、ご一緒の時はとても楽しそうに笑っておりますし、彼が他の女性に鼻の下を伸ばしているとあからさまに嫉妬のような反応を見せますから……少なからず、好意を寄せているのは間違いありませんわ。
「それで。アイリさまのお知恵もお借りして、ご主人様は何か、私の窮地に対する解決策を見出せましたかしら?」
「まだ、考えると言ってたっす……」
「あら、本当にそうかしら?」
彼女は今、私に何かを隠し通したつもりなのでしょう。
以前のアイリさまの鉄面皮から心情を読み取るのは一苦労でしたけれど、それに比べて今の『アイリ』さまは感情豊かで、手に取るようにわかりやすいですわ。エンリーさまならば上手く誤魔化せるのかもしれませんけれど、その程度に慌てて取り繕った表情で、この私の目を欺けると思わないことですわ。
「……あたしの『知恵』を借りたとしても、セリースの提案した解決法にしか至らなかったっすよ」
「あら、まあ……」
(エンリーさまが私の身体を求めてくだされば、どんなに嬉しいことか……いえ、今はそんなことに気を取られてはなりませんわ。彼女は自分では嘘が上手いつもりなのでしょうけれど、私の目には手に取るようにはっきりと見透かせるのです)
問題は、彼女から情報を引き出そうとすると、なぜかこちらの思考の癖まで逆に見透かされているようで、いつも以上に頭を働かせなければならないことです。
(――仕方ありませんわ。ここは少し、下世話なカマをかけてみましょう)
「でも、アイリさまもご主人様とは久しく肌を重ねておられませんし、ここは先輩であるアイリさまに先を譲りませんと……」
「――ぶっ、バカっ! あ、あたしはべつに……」
「なんなら、ご一緒してエンリーさまと夜を過ごすのも素敵かと」
「――すっ……」
「す?」
「そんな破廉恥なこと、できるわけないっす! ――そもそも、あたし、あいつとそういうの……もう……」
(……これは失敗ですね。彼女の今の激しい動揺は、純粋に破廉恥な想像に対する羞恥心から来るもの。もしエンリーさまの出した答えが『私と夜伽をして解決する』というものなら、彼女はもっと私に対して気まずそうな反応を見せるはずです。……つまり、彼女たちが隠している解決策は、夜伽とは『全く別の何か』ですわね……)




