脚本から逸脱した代償
セリースは自然な動きでソファーの端の方に腰を移し、俺との間にできた僅かなスペースをぽんぽんと右手で叩き、促すようにビアンカを見据えた。
(いや、ビアンカは確かに小柄だけど、「ここに座れ」ってのは流石に狭いか……)
俺も、もう少しスペースを作ろうと腰を横にずらし、無意識に脚を開いた。すると、何をどう誤解したのか、うぶなお嬢様がおずおずと俺の左脚の膝の上に腰を下ろしてきたのだ。
戸惑いながら、至近距離にいるビアンカの顔を窺う。どうやらお茶目でやっているわけではなく、本当に俺が「膝の上に座れ」と誘っているのだと勘違いしたようだ。証拠に彼女の頬は即座に薔薇色に染まっていた。
(ここで口に出して恥をかかせるのは野暮だな……しょうがない、このまま続けるか……)
ビアンカの身長は少し低めだが、そこらへんの高校一年生の女子とそう変わらない。
しかし、それは彼女の脚が長いからだ。こうして俺の膝の上に座って、やっと顔がキスしやすい位置まであがってくるくらいになった。
緊張していることが手に取るように明らかで、左脚にのしかかる柔らかな重みと相まって、彼女の太ももの筋肉がキュッとこわばる感触が肌越しに生々しく伝わってくる。
俺は、自分がもたもたしてせっかくの彼女の決意を削いでしまっていることに気付き、ゆっくりと彼女の唇に自分の唇を近づけた。
でも、セリースと違ってビアンカは、そのまま俺に唇を奪われるのを静かに待っていることができず、俺の顔が近づくとびっくりしたように首をすくめ、頭を引っ込めてしまった。
ここは彼女の緊張が収まるのを待つか、それとも強引にガツンと行くべきか。そう悩む俺をよそに、セリースは背後からビアンカの背中に胸を押し付けて、その退路を完全に塞いできた。
そして、ようやくビアンカの柔らかな唇と俺の唇が重なった。――が、そこがゴールだと思ったら大間違いだった。
息をするように身体の相性がバッチリのセリースと違い、ビアンカとの身体を通じた対話は、別次元としか言えないほどハードルが高かったのだ。
僅かに抵抗したかと思えば、身を引いたり、逆にふっと委ねてきたり。タイミングがすれ違ったり、不器用にお互いを求め合ったり……。キスなんて簡単に見える愛情表現なのに、そこには決して一方通行ではない『二つの意思』が複雑に絡み合っているのだということを、俺はまざまざと思い知らされた。
それでも、ためらうことなくお互いを求めあうと、自然と通じ合うことができた。気づけば、ビアンカは小さな口を半開きにして、抵抗なしに俺の舌を迎え入れてくれていた。
清潔なお嬢様である彼女から強い香水のような匂いを感じることはなかったが、どうしてか女の子特有の甘い香りが俺の全身を満たしていく。そして口の中も同じだ。味わえるかどうかというほどの微かな甘みと、フルーツを彷彿とさせるような淡い酸味が感覚を襲ってくる。
ビアンカの小さな舌は少しざらっとした感触だったけれど、別の生き物みたいに揺れ動くそれを彼女の口の中で追いかけ回すと、一粒の苺を舌の上に転がすような感覚がして、美味しくてたまらなかった。
しかし、頭がとろけそうになる感覚を邪魔する『ある思い』が、俺の中で段々と膨れ上がっていた。
――さっきから、ビアンカとセリースを無意識に比べているのではないか。遅ればせながらそう気づき、自分の不誠実さに嫌でも思い至る。
(本来なら、子供ができた以上、セリース一筋になるべく頑張らなきゃならないのに――俺はビアンカにもこんな感情を抱いてはならないはずだ。……しかし、これは『本来のエンリー』のものなのか、それとも今まで知らなかった俺自身の感情なのか。ビアンカも、ジアやアイリをも、誰一人手放したくない……!)
彼女たちのことが好きなら、俺以外の他の男の傍で幸せになることを願うべきなのに。そのシーンを思い浮かべただけで、心が締め付けられる。
――独占欲とまではいえないが、まだそんな現実は起きていないのに、明白な『喪失感』がひしひしと全神経を侵食してくる。
(……いけない。考え込んで、動きが止まってたみたいだ……)
俺が我に返ってキスを続ける前に、ビアンカがそっと唇を離した。
また誰か来たのかと思い、アイリではないかと焦ったが、ソファーの前方を見てみると、確かにそこに一人の影が立っていた。幸いアイリではなかった。
ジアが目を丸くして俺たちを観察していたようで、その手には何通かの手紙の束が握られていた。
「ご主人様……?」
(――いけない! また考え込んでビアンカをないがしろにして……なにしてんだろう、俺……!?)
「悪い。考え事をしてて……」
「――いえっ……」
「ありがとう。そして、すまない……!」
「――えっ? ……申し訳ありません、ご主人様。話が見えませんがっ……」
「――『ありがとう』は、俺がビアンカのことを愛していることに気づかせてくれたからだ」
ビアンカだけじゃなく、隣にいたセリースやジアも目を丸くして驚いていた。無理もない。彼女たちのことも好きだというのに、俺は今まで一度も彼女たちに「好き」と言えていなかったからだろう。
でも、ジアがここにいるならちょうどいい。――贅沢を言えば、アイリにもいて欲しかったが。
「――『すまない』は、俺にはビアンカ以外にも、複数人、好きな人ができていることにたいして……ここにいるジアやセリースのことだけど、あとっ……」
「……知ってました。ご主人様は優柔不断で、情けない殿方だと前々から気づいております。それでも、『好き』とおっしゃってくださり、私からも『ありがとう』と言わせてくださいまし」
「――ずるいよ。生意気な人間の男のクセに……」
「わ、私は先に告白したのにぃ……」
上手いこと言葉を返せない俺が押し黙ると、部屋にしばらく気まずい沈黙が訪れた。
セリースは『ツンデレ体質』だから、ノリ良く愛の告白を返してくれるとは期待していなかったし、ジアは既に俺への気持ちを伝え済みだ。でも、ビアンカにここで『ありがとう』と済ませられただけなのは、少しショックだった。
(なぜ俺は彼女に好かれたいんだ? ハーレム野郎になんてなりたくないし、これでいいじゃないか……)
俺は前世(?)で女性と付き合ったことが三回もあった……。
(いや……四回……? なんで急に頭痛が……!? いだだっ!!)
「ご主人様、大丈夫ですか?」
「うっ……! あ……ああ。なにか、小難しいことを考えていただけだ」
「そうでしたか? ――ちなみに、ジアさま。一体あの手紙の束は何かしら?」
「あっ!? これか? さっき門前で馬に乗っていた奴に渡されたんだが……」
「あれは伝書使いですわ。――そういうことなら早くそれらをご主人様に渡しなさい……」
「――すまん、ビアンカ……俺の代わりに確認してくれないか?」
「もうっ! 嘆かわしいご主人様ですね……。仕方ありませんわ……」
事務的な表情に切り替えたビアンカは粛々と、薔薇色の頬のままソファーから立ち上がり、ジアから手紙の束を受け取る。
彼女は机に置いてあった開封用ナイフを手に取り、音もなく一通一通手紙の開封を行っていく。真面目に内容を確認するその姿を見ると、俺も落ち着きを取り戻すように溜息を吐いた。
(……まあ、事務仕事のためにも彼女は今の俺に掛け替えのない人物だ。――あと、すごく可愛いし……)
父上の使用人たちが去った後、この屋敷が亜人っ子メイドたちだけで回っているのも、紛れもなくビアンカのお陰だ。
(――いや、何を隠そう、俺はもうビアンカに惚れている……。このまま彼女のアプローチが再開したら、ベッドに迎え入れる日もそう遠くないかも……そこだけはなんとか冷静さを保たねばならないが)
カサ、という紙の音が止み、ふと静かになったと思ったら。
ビアンカは凍りついた表情で、一枚の手紙を震える手で持っていた。他の二人も、そのただならぬ空気に釣られて押し黙っている。
「……ビアンカ……?」
「申し訳ありません、エンリーさま……。どうやら、私の政略結婚の相手が、決まったようですわ……」
(えっ!? 今更『政略結婚』だと? ――ビアンカは既に勘当されてるはずじゃないのか。ゲームにはなかったイベントだらけで、いいことばかりじゃないとは分かっていたが、これはなんの仕打ちだ!?)
「嘘、よね。だってビアンカは既にエンリーのモノっしょ? そんなの関係ないわけ!?」
セリースが信じられないというように声を上げた。それに続くように、ジアが腕を組んで眉をひそめる。
「私は人間の社会には詳しくないが、エンリーの悪評を知っている奴から見れば、ビアンカはまだ結婚相手として受け入れられるのか?」
「それは……どうやらお父様は、私がまだ魔法を使えることを知らされたそうです。エンリーさまに指一本触れられていない、綺麗な身のままであると知られて……派閥末席の老子爵の側室として、『派閥結束のために身を犠牲にしなさい』と命じられました」
「そんなっ!! ……おかしいよ! 一度捨てた娘をまた政治の道具として使おうとしてるなんて……だから人間は……!」
「――お気持ちは嬉しいですが……セリース様、僭越ながら私も『ヒューマン』ですので」
「違う、ビアンカはっ――!」
「――セリース!」
何かを口走りそうになったセリースを、ジアの鋭い声が遮った。
「ジア様?」
「そうよ、ジア様。なぜ止めるのよ!?」
「本人が何も知らないなら、そのままにしておけ! どうせ知ったところで何も変わらないだろう?」
「ジア様、一体なんのお話でしょうか?」
「ビアンカは今、それに気を取られなくていい。エンリーの所に居たいなら、今はそのことだけに集中するのだ」
不穏な空気が流れ、ビアンカが困惑したように視線を彷徨わせる。
すると、セリースが呆れたようにため息をつき、身も蓋もない真理を言い放った。
「――てか、これ。エンリーと一夜を共にしたら解決しなくない?」




