イメチェン、その壱
――「あ、この人生、終わったなぁ」と悟った俺は、心のどこかで安心感すら覚えていた。
しかし、しばらく静寂が続き、みんなが息を呑んでセリースの出方を窺っていると、彼女は深く息を吸い込み、静かに息を吐き出した。
耳から手を離し、そっと腕を下ろした彼女の顔は、まだ薔薇色に染まったままだ。だけど次の瞬間、もう一度深呼吸を繰り返したあと、セリースはスッと姿勢を正し、再度あのムカつくほどすました笑顔を顔に貼り付けてみせた。
それを見てアイリたちがそっと俺から離れ、老神官も、どこ吹く風といった様子で、何事もなかったかのようにベンチに座り直した。
俺自身はまだ焦ったまま前のめりでセリースの口元あたりを窺っていたが、彼女の口角はだんだんと上がり、考えていることが手に取るように透けて見えてきた。――『どうです、私の勝ちです!』とでも言いたげな顔だ。
(……まあ、こいつも変なところで意地っ張りで助かった!)
それにしても、耳が弱点なんてテンプレすぎるだろ。これからも、こいつにムカついた時にやってやろうか?
だって、普通の人から見れば、俺はただ彼女の珍しいエロフ……もとい、エルフ耳を眺めているだけ。――超健全!
……だが、セリースが神殿から破門されるまでは、マジでやるのはやめておこう。さっき、本当にちびりそうだった。
(しかし、シャツは開いたままなんだけどぉ……あれは囮じゃなかった!?)
俺が目を白黒させて驚いていると、ポンコツエルフちゃんは勝ち誇った表情でまた脚を組んできた。
だが、俺が深く溜息を吐いてベンチに背中を預けたことを見て、彼女はヘソを曲げたみたい。そして、話し合いが終わるまでとことん逆セクハラをエスカレートさせおった。
生憎、俺にはもう彼女の遊びに付き合う気力は残っていなかった。
(エンリー氏が若いのに、我としたことが、情けない……)
それはともかく、儀式の概要はなんとなく分かったので、このあとのイベントは余裕で乗り切れそうだ。
やがて話し合いが終わり、みんなが立ち上がって「さようなら」を告げる手前、ふとアイリの顔が目に入った……。あ〜あ!こいつ、隠し犯、もとい確信犯だった!
(ご主人様を助けないどころか、人の苦難を特等席で楽しみおって!……可愛いけど)
そして、また後日。驚くことに『アイリとの共同訓練イベント』が本当に発生した。
参加者は俺とアイリ、珍しく髪をアップにまとめたビアンカ、そして観戦者のプリムだ。
アイリたちはすでに準備運動に入っており、俺は激しい動揺を誤魔化すため、見学しているプリムに向かってひたすら手を振っている。
――彼女らがメイドになってからあの服しか持っていないことは知っていたが、あのふざけた格好で運動する姿を直視するのは、色々な意味で心臓に悪い。
たしか原作ゲームで勇者に『救い出された』後なら、彼女たちも(相変わらず露出度は高いが)冒険者風の装備に着替えていたはずだ。もしかすると、ゲームのイベント発生条件みたいなものを意図的に作り出せば、彼女たちにもう少しマシな服装を確保できるのではないか……と、最近本気で考えるようになった。
「ゴシュジン、シスコンはいいっすけど、準備運動サボらないで――怪我するっすよ」
こいつ、まともなことを言う割に、頭の後ろで手を組んでこれ見よがしに胸を弾ませているところを見ると、確実に俺をからかって、わざとやっているのが明白だ。
対抗できる武器がないビアンカは、ムッと口を曲げると、ぽすんっと俺の背中に抱きついてきた。
「ご主人様、わたくしもうヘトヘトですわ……すこし、休ませてくださいまし?」
「離れんかい、この合法ロリ!」
「いやぁ! エンリーさま、アイリさまが暴力を振るおうとしておりますと直訴いたしますわ!」
「ふふふ! おねえちゃんたちおもしろいの!」
(……子供にウケたから、よしとするか!)
俺は早くも喧嘩を始めたアイリたちから少し離れて、ゆっくりと重い身体を動かし始めた。
(――おかしいな。前に一人で体重を減らすようと運動した時は、ちっとも息が上がらなかったはずなんだが……)
ほんの少し動いただけで、膝、腰、おまけに首や肩の周辺まで悲鳴を上げ始めている。息はゼーゼーと荒くなり、口で呼吸しないと窒息しそうだ。
だが、これは裏を返せば、この『イベント』がただの無意味な運動ではなく、確実に俺(エンリ―)の肉体に影響しているという証拠でもある。
(――とはいえ、デブの身体ってこんなにハードモードなのかよ!? マジで先が思いやられる……)
そして、アイリが考案したという本日の訓練メニューの第一項目は――皆様、どうか聞いて驚かないでください――まさかの『ランニング』でした。
――いや、正確には走っているのはアイリだけだ。ビアンカは深窓のお嬢様ゆえに『走る』という概念がないらしく、シャカリキに競歩のような早歩きを披露している。
そして俺はといえば、開始数秒で限界を迎えた膝をガクガクと震わせながら、幼児みたいにトコトコと後ろを付いていくのが精一杯だった。
「にーにーさま、がんばれ!――っコホコホ……!」
(ヤッバっ! プリムに無理をさせるのはよくない。俺が頑張らないと!)
「……よぉーしっ……!」
気合を入れてペースを上げ、数メートルほど懸命に走った――のだが、見事に足が縺れ、『ボフンッ!』と顔面着地を決めて動けなくなった。
「ふふっ!……あはははははっ!」
「……ご主人様っ!」
プリムは不意を突かれて何も言えず、アイリは相変わらず俺をからかうのをやめられず、ビアンカだけが俺を案じて駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫だ――痛っ!」
慌てふためくビアンカが俺に回復魔法をかける前に、何とか身体を起こす。――今の彼女の魔力量だと、緑魔法はプリムのために温存しておいてほしい。
「ゴシュジン、弱すぎるっすよ!」
「貴女という人は!思いやりの欠片もありませんの!?」
「嘘つけ! あんただって、さっき一瞬噴き出しそうだったじゃん!」
「そ、そんなこと……ありませんわ」
「……二人とも、時と場所を考えてくれ。ビアンカ、プリムのことが心配だからちょっと見ててくれる?」
「畏まりましたわ。プリムラお嬢様、ちょっと失礼いたしますね」
ビアンカがプリムの元へ向かうと、残されたアイリが少しだけ気まずそうに声をかけてきた。
「……大丈夫っすか?」
「それ、笑う前に言って欲しかった」
「ごめん。なんか、色々難しいっす……」
「まあ、俺も人のこと言えないけどな……痛だだっ!」
「肩、貸すっすよ」
「いや、か弱い女性に支えられる大男の絵面は流石に――」
「なに言ってんっすか? 『アイリ』は見た目に反して強いっすよ!」
「あぁ……そうだったよな。――じゃあ、お願い」
(ちくしょう! 今はビアンカもプリムも離れていて、聞かれる心配なしにアイリと話をする絶好のチャンスってのに、肉体が邪魔しおって……! これ、シナリオの強制力ってやつか!?)
『いや、それは違うからな』
『ヘンな人間……ふふっ』
それから、『盟約の儀』の日が迫るまで、俺たちは複数回この訓練イベントを繰り返し、ようやく結果が現れ始めた。
痩せたとまでは言えないが、ゲームのエンリーからは想像もつかないような、俊敏な動きもできる肉体を手に入れた。――おまけにメニューを開いた時の、エンリー氏の立ち絵まで少しマシになった気がする。
俺とビアンカに体力がついて、俺たち三人の結束も強まり、何もかも上手くいっている気がして、俺もアイリもいささかガードを下げてしまっていたかもしれない。
以前は「ビアンカには気をつけよう」と言っていたアイリだが、もはや従順なメイドのフリを完全に捨てた模様だ。ビアンカやプリムの前でも素の口調で話すようになり、挙句の果てには、迂闊にゲームの知識を口走ることも多々ある。
無邪気なプリムならまだしも、ビアンカはその若い見た目とは裏腹に、ゲームシナリオで強いられた数々の苦難を乗り越えてきた猛者である。賢い彼女がどこまで点と点を繋ぎ、俺たちの前世(?)のことについて勘付いているのかは未知数だ。だが、最近アイリに対して『余裕のあるお姉さんヅラ』をするようになったのを見るに、もはや隠しきれていないと思ったほうがいいかもしれない。
セリースの件については、共犯者の商人が本物の神具を欠陥品とすり替える手筈になっており、あとは神殿からの通達を待つだけ。その辺りは何の心配もいらないはずだ。――だけど、儀式の日程が近づくにつれて、俺の中で得体の知れない不安がどんどん膨らんできていた。
そして、『盟約の儀』を目前に控えたある日。ビアンカが俺の部屋にやって来て、唐突にセリースの『訪問』を告げた。




