継ぐ火
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アステルが見え始めたのは、仮眠から目を覚ます前だった。
アルテの声で目が開いた。「接触軌道まで三十分です」
座席を起こした。窓の先に岩の複合体が広がっていた。前回来た時より明かりが多かった。岩盤の端に作業灯が四列伸びていた。五月に立ち去った時、坑道の入口は一か所だった。今は三か所ある。外壁の補修跡が白く走っていた。新しい溶接痕だった。
「前回から四十日です」とアルテが言った。「外壁補修が七か所増え、採掘坑道が二か所新設されました。二次加工設備の稼働も確認できます」
誘導ビーコンを受信した。格納庫への進入に十二分かかった。
内扉が開いた。廊下の照明が白かった。前回より蛍光管が増えていた。ダールが来ていた。灰色の作業着の肩に溶接焼けがついていた。その隣にイグニスが立っていた。
「早かったな」とダールは言った。
「予定通りだ」
「フィーエルの件は聞いた。ハナが回復したと」
「ヒデオも動いている」
ダールが短く息を吐いた。目線が颯の後ろを一瞬見た。格納庫の奥だった。何かを確かめるような動き方だった。仕事の疲れとは別の張りが体にあった。颯が来るのを待っていた人間の張りだった。
「渡すものがあると聞いた」
「ある」
岩盤を切り出した狭い部屋だった。テーブルに端末が二台並んでいた。マリエが壁際に立っていた。
端末を接続した。転送を始めた。
「二百八十七件だ」と颯は言った。「補注が四十一件ある」
ダールが画面を覗いた。「補注というのは」
「七十四番施設で回収した、ハラダの追加記録だ。設計図への改善案と、製造時の注意事項が含まれている。フィーエルでアリスたちが実際に組み付けた時に照らし合わせて、どの補注がどの工程に対応するか索引をつけた」
ダールは沈黙した。画面をスクロールした。指の動きが遅かった。読んでいた。
「これは二次加工の工程表か」とイグニスが横から覗いた。
「ハラダが書いた原版をベースにしている。フィーエルでの実績が入っている。カレンが細かい作業精度のメモを追記した」
「カレン」とイグニスが言った。「あの子が」
返事をしなかった。
マリエが端末の一台を引き寄せた。医療記録のフォルダを開いていた。
「ヒデオの数値が入っている」とマリエは言った。
「匿名化した。回復の推移は残してある。同じ状態の患者が出た時に使える」
マリエは立ったまま読んだ。部屋が静かだった。岩の外から機械の低音が届いていた。転送のインジケーターが少しずつ動いた。誰も話さなかった。
転送が完了した。
「配布の制限はあるか」とダールは言った。
「ない。他のコロニーへ届けるつもりがあれば、届けてくれ」
「ロストンが医療機器を求めている。南南東の施設だ。最近になって連絡が取れるようになった」
「データだけ先に送れ。製造できる設備があれば自分たちで作れる。そういう設計になっている」
ダールが端末を閉じた。「ハラダの補注は全部で何を言っていた」
颯は少し考えた。「素材の代替案が多い。旧連邦規格の部品が手に入らない場合にどう代用するか。四十一件のうち三十件はその種類だ。残りは設計上の計算誤差の訂正と、長期稼働に向けた改良案だ」
「それが一番助かる」とダールは言った。声に力が混じった。「標準規格の部品は今や骨董品だ。代替案があれば今手元にある素材で組める」
イグニスが腕を組んだ。「前回組んだ八台は補注前の設計で作った。見直す必要があるか」
「補注第三番と第二十二番を確認しておけ。稼働中の機体に関係する項目だ」
イグニスがその場で端末を開いた。部屋に三人の呼吸と操作音だけが残った。
颯は転送ログを眺めた。二百八十七件と補注四十一件。ハラダが書き、アリスが読み解き、カレンが精度を上げた。颯とアルテが運んだ。ロストンへはダールが届ける。ハラダが意図したかどうかは確かめようがなかった。それでも設計図はそういう動き方をしていた。
格納庫へ戻る廊下を歩いた。途中で見慣れない区画の入口を通った。工具棚と加工台が並んでいた。端末を見ながら素材を測っている作業者がいた。知らない顔だった。岩と金属と樹脂の混ざった匂いがした。フィーエルの組み付け室と同じ匂いだった。
格納庫に入った。クラリス-01が壁際の定位置で充電中だった。アームを展開させた。三本の指が空気の中に開いた。昨日の廃棄宙域で板の縁を掴んだ指だった。可動域の端まで動かし、戻した。廃棄宙域ではその指に感触があった、とアルテは言っていた。均一な照明の下で同じ指を見ても、その感触は颯にはわからなかった。
「動作範囲は正常か」
「問題ありません」とアルテが言った。「昨日の負荷はすべて許容範囲内でした」
短い間があった。
「回避経路の計算精度について、改善したいことがあります」とアルテが言った。「颯さんを止めた時、停止を優先しました。でも衝突する前に経路を計算して避けられれば、止める必要がなくなります。今は現場の環境データが揃った後でないと最適解が出せません。昨日の作業で使えるデータが増えましたので、次の機会では計算の開始を早められます」
「そうしろ」
「代替素材の計算をダールへ送りました」とアルテが続けた。「手元の素材で三台追加できる見込みです」
アームを収納した。充電インジケーターは九十二パーセントだった。
翌朝、外装の点検を終えた。
「北北西の信号はどうだ」
画面が切り替わった。受信記録が表示された。十七時間周期のパターンが続いていた。最後の受信が十六時間前だった。次の受信まで一時間を切っていた。
「強度が増しています」とアルテが言った。「アステルは前回より北北西寄りの座標にいます。発信源の推定位置の誤差範囲が、半径三十一光分から二十七光分に縮小しました」
「大きく変わっていないな」
「変化は小さいです。ただ、アステルを出て北北西へ進めば、もう一度縮小できます。中継衛星を一基でも回収できれば、誤差範囲を十五光分以下に絞れる計算です。現在の軌跡データと信号強度の変化をあわせると、発信源は恒星系の外縁、重力の薄い宙域にある可能性が高いです」
格納庫の壁の向こうに岩盤があった。岩盤の向こうに宙域があった。その先の北北西に、百七十年間途切れず信号を送り続けているものがあった。
「出発の準備をしろ。充電はどこまで来ている」
「九十九パーセントです。あと二時間で完了します」
「夜を越えてから出る」
施設の照明が落ちると夜になった。廊下の奥から機械の低音が聞こえていた。岩盤の外に昼夜はなかった。
仮眠室へ向かった。
「颯さん」とアルテが言った。
「何だ」
「ダールから問い合わせが来ています。補注第十七番の代替素材の調合比率について、詳しく知りたいとのことです」
「明朝に答える」
短い間があった。
「ロストンの信号は今夜も受信できています」とアルテが言った。「南南東から。間欠送信です。人が手動で送っています」
「今回は寄らない」
「はい。記録しておきます」
「しておけ」
仮眠室の扉を開けた。暗い部屋だった。毛布を引いた。
「北北西の受信まで三十分です」とアルテが言った。
「記録しておけ」
「します」
颯は目を閉じた。北北西の信号が続いていた。南南東でも人が送っていた。設計図が動いていた。ダールがロストンへ届ける。ロストンの先でも誰かが作る。星が少しずつ繋がっていた。
眠りが来た。
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