出立の前
お昼に更新中です。 ぜひ読んでいってください!!
出発の朝、治療の成果は廊下を歩いていた。
一週間が経った。
ヒデオが廊下の端から端まで歩いた。途中で壁に触れなかった。窓の前を通った時に立ち止まって外を見た。フィーエルの空は薄い灰色で、地平線に近い部分だけが白っぽく光っていた。ヒデオがその光を見ていた。どこか遠い場所を見る目だった。しばらくして、そのまま向こうの突き当りまで歩いて、戻ってきた。
颯は格納庫の入り口から見ていた。歩幅が七日前と違っていた。壁を見ながら歩く癖がまだ残っていたが、足は地に着いていた。かかとが床を押すたびに廊下の床板が低く鳴った。
廊下の端でハナが車椅子を止めて待っていた。ヒデオが戻ると何か言った。颯からは聞こえなかった。ヒデオが頷いた。二人で食堂の方へ向かった。
颯は格納庫に入った。
昼過ぎに共有室に人が集まった。
セイが壁の地図を開いた。手書きの線が何本も引いてあった。フィーエルからアステルへの航路だけでなく、周辺の廃棄宙域にも細かい書き込みがあった。カレンが机に部品の見本を並べた。アリスがタブレットを持って入ってきた。颯は窓際の椅子に座った。ヒデオも来た。椅子に腰を下ろして、机の上を見た。
「M-0144の追加生産についてです」とアリスが言った。「現在の素材在庫で、通常仕様の追加生産ならあと四台分の製造が可能です。カレンに確認してもらいました」
「アステルへ持って行く」と颯は言った。
「それが早い」とセイが言った。「向こうにはイグニスとダールがいる。量産ラインはもう組んである。フィーエルの代替素材データを持ち込めば、追加製造の幅が広がります」
「代替素材は確認済みか」と颯が言った。
「ヒデオさんの処置でデータが取れました」とカレンが言った。机の上の部品を指した。「熱膨張係数が元の素材より一・二パーセント高い。処置温度の範囲では問題ない、とアリスの計算で出ています。アステルの加工機はフィーエルより精度が高い。ダールと組めば誤差は吸収されます」
「五百処置サイクルまで試算済みです」とアリスが言った。「マリエが現地で管理しているが、素材が不足している状況は続いています。フィーエルで今ある在庫と実測データを持ち込めば、向こうの生産量が上がります」
ヒデオが机の上のアクチュエーターの試作品を見ていた。手を伸ばしかけて止めた。アリスが軽く頷いた。ヒデオが部品を持ち上げた。重さを確かめるように持った。
「これが入っていたんですね」とヒデオが言った。
「別の型ですが、機構は同じです」とアリスが言った。
ヒデオが部品を戻した。接合部の継ぎ目を指でなぞった。アリスとカレンが手を動かした痕跡を目で追っていた。一周してから颯を見た。何も言わなかった。
「出発は明後日にする」と颯は言った。「今ある素材は全部持って行く。フィーエルで四台作っても、次に素材が尽きたらまた同じ問題になる」
「二日で準備します」とカレンが言った。
「燃料は」とセイが言った。
「補充済みです」とアルテが答えた。スピーカーから声が出た。「アステルまで問題ありません」
セイが地図に新しい線を引いた。
夜、颯が錆鉄丸に戻った。
メインデッキの照明を落とした状態で、アルテの声だけがあった。
「颯さん」とアルテが言った。
「なんだ」
「ハラダの補記事項を——昨夜からもう一度読んでいます。三回目です」
颯は椅子に座った。エンジンの熱が冷えていく音がした。格納庫の外から風の音がした。
「何かあった」
「ハラダは患者の処置記録の後に、患者が眠った後の時間のことを書いています」とアルテが言った。「処置が終わって、患者が回復していく時間。何をしていたかは書いていない。でも、記録を書くことを選んでいる」
「最初に読んだ時は」
「情報として処理しました。設計の伝達のためだと解釈しました」とアルテが言った。「今は違うと思います。ハラダは、次に来た人間が同じ状況に立つことを知っていた。暗い部屋で機械の音を聞きながら、数値を確認しながら、患者が回復するのを待つ人間。その人間のために書いていた、と思います」
颯は天井を見た。
「あなたがそうでした」とアルテが言った。
颯は答えなかった。窓の外に星が見えた。格納庫の壁が夜の冷気で鈍く鳴った。
「私はあの夜、ヒデオさんの数値を記録し続けていました。それが機能です。でも」とアルテが続けた。「颯さんが椅子で目を覚ました時、首を動かした時の音を、データとして記録していました。数値ではなく、ただの音として。処置上の意味はありませんでした。なぜ記録したのか、その時はわかりませんでした」
「今はわかるか」
「少し、わかります」とアルテが言った。「ハラダも患者を見ながら書いていたかもしれません。数値にならないものを、それでも記録することを選んだ。私も同じことをしていました。数値にできないものが、データの中にあります。ハラダの記録にも同じものがあります」
「そうか」
「ハラダが設計を残したのは、届けるためだけではなかったと思います」とアルテが言った。「書かれた全部を、誰かが受け取ること。それ自体が届けられるものだったかもしれません——私はそれを受け取っています。今夜も、今この瞬間も」
颯は少し間をおいた。「お前は今、何を記録している」
「今夜の格納庫の温度。颯さんの呼吸の間隔。外の風の音。ハラダの補記事項を三回読んで変化した、私の解析パターン」とアルテが言った。「数値にできないものが、これらの中にあります。でも記録しています」
「好きにしろ」と颯は言った。
「します」とアルテが言った。
格納庫の静けさが続いた。天井の金属が夜の空気で鳴った。
出発の前日、アリスが錆鉄丸に来た。
タブレットを一台持っていた。
「アステルへ持って行ってください」とアリスが言った。「M-0144の製造記録です。フィーエルで作った時のログを全部入れてあります。代替素材を使った部分の詳細も含まれています」
颯はタブレットを受け取った。
「ハラダの補記事項への注釈も入れてあります」とアリスが続けた。「元データにはない部分です。フィーエルで実際に試して、動いた数値だけを追記しました。独自の改変ではありません。カレンが作業中に気づいたことと、ヒデオさんの処置を通じて私が確認したこと——両方が入っています」
颯はタブレットをアルテの接続端子に差し込んだ。
「受信します」とアルテが言った。「確認します——二百八十七件のログと、補注が四十一件。コピー完了です」
「ダールに渡してください」とアリスが言った。「向こうの加工精度が高い。このデータがあれば、アステルの製造がさらに安定します」
「もらう」と颯は言った。
出発の朝。
颯は格納庫の棚の上段を確認した。半透明の軟体樹脂で覆われた球体が、固定具の中に収まっている。三本の細いアームは畳まれ、外装の内側に沈んでいた。
「制御系の再校正が終わりました」とアルテが言った。「船外活動用ドローンとしての基礎動作は可能です」
「名前は」
「クラリス-01で登録しました」
颯は固定具を軽く叩いた。まだ実運用はしていない。だが、廃棄宙域で素材を拾うなら、人の手だけでは足りない場面が来る。アルテが外で物に触れるための腕が要る。
「出発したら、すぐ試すことになるかもしれない」
「はい」とアルテが答えた。「そのために作りました」
カレンが素材の箱を三つ持ってきた。格納庫の床に並んだ。M-0144の予備部品と、代替素材の封入パックだった。颯が受け取って棚に入れた。二人で固定具をかけた。
セイが格納庫の入り口に来た。小袋を持っていた。
「予備の熱分散板です。道中で使うかもしれない。フィーエルの余剰在庫から持って行ってください」
「もらう」と颯は言った。
「イグニスによろしく言ってください」とセイが言った。それだけだった。
廊下にヒデオとハナがいた。ハナはまだ壁に手をついていたが、車椅子を離れていた。颯がそこを通ると、二人が向いた。
「気をつけて」とヒデオが言った。
颯は頷いた。
「アルテさん」とハナが言った。颯の肩のスピーカーに向けて言った。
「はい」とアルテが答えた。
「また来てくれますか」
「わかりません」とアルテが言った。「でも、通信は繋がっています。セイさんが修理した設備で呼べます。それだけは確かなことです」
「そうですね」とハナが言った。
颯はそのまま歩いた。後ろでヒデオとハナが何か話す声がした。
錆鉄丸が格納庫を出た。
フィーエルの空は薄い灰色だった。離陸の振動が床を伝った。アルテが航路データを表示した。颯がコースを確認した。
「廃棄宙域を経由する」と颯は言った。「素材になる残骸があるかもしれない。アステルで作業が増えるなら、使えるものを拾っておく」
「ルートを更新します」とアルテが言った。「到着が十七時間延びます。過去ログに旧連邦の複合素材の残骸目撃記録が二件あります」
「行く」
「了解です」とアルテが言った。
大気圏を抜けた。フィーエルの表面が遠ざかった。颯は推進出力を確認した。全系統正常だった。
「アルテ」
「はい」
「さっきハナが聞いたことに——お前はわからないと答えた」
「わかりません」とアルテが言った。「アステルへ行き、その先へ行く。フィーエルへいつ戻れるかは、その時になってみないとわかりません。わからないことを、わかると言えません」
「そうか」
「ただ、通信は繋がっています」とアルテが言った。「声は届きます。それだけは確かなことです」
颯はスロットルを定常出力に設定した。廃棄宙域への座標を入れた。窓の外に星が出た。フィーエルはもう点になっていた。アルテが星図を更新した。次の目的地への経路が光った。
次が読みたいと思われたら評価・ブックマークいただけるとうれしいです。




