引継ぎの声
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一台のM-0144を置いていくと、その場所は次の患者を待てる拠点になる。
夕刻に、ウナが来た。
颯は医療区の隅に腰を下ろして、M-0144の稼働ログを眺めていた。老人の体温が昨夜より三十六度二分に上がっている。数値そのものより、下がっていないことの方が意味を持つ。
「決まった」とウナが言った。
颯は顔を上げた。
「通信網に参加する」
部屋に他の者はいなかった。ウナは声を低く保ったまま、それだけを言った。
「三対一だ。農業区の代表が反対した。彼女には理由がある。繋がることで見つかることを恐れている」
「聞かなくていい」と颯は言った。
「いや、言う。彼女は間違っていない」とウナが続けた。「ただ、見つかることを恐れて沈黙するより、繋がって対処する方がいい。そう判断した」
颯はログに目を戻した。
「M-0144本体を一台据え置いていく。操作マニュアルを印刷する。三か月もすれば誰でも扱える。部品が消耗したら、デルタ経由でフィーエルに連絡してくれ。量産ラインがある」
「感謝する」
「省務局の観測パターンの変化兆候について、アルテがゾーラと共有できるデータをまとめた。技術区の男に渡す」
「分かった」
ウナが立ち上がった。ドアのところで振り返った。
「颯、一つだけ聞いていいか」
「何だ」
「あなたは何のためにそれをしている」
颯は少し考えた。正確な答えを探した。
「設計図を届けることから始まった」と颯は言った。「今はそれだけではない。ただ、うまく言葉にならない」
ウナは何も言わなかった。しばらく颯を見てから、出ていった。
夜になって、少年が来た。昼間に声をかけてきたのと同じ少年だった。
「M-0144を見てもいいか」
「見るだけなら」
少年は機械の前に立って、淡く光る画面を眺めた。
「トウマおじいさんが良くなった」
「少しだけだ」
「でも良くなった」と少年が言った。「昨日まで、息がとても苦しそうだった」
颯はログを確認した。老人の名前がトウマ・クリムだと初めて知った。
「フィーエルの空は青いんだろ」と少年が言った。
「昼は青みがかった白だ」
「雲も」
「多い」
少年はしばらく黙っていた。
「俺は外に出たことがない。省務局に見つかると言われている」
颯は言葉を選んだ。約束できることと、できないことがある。
「いつかは分からない」と颯は言った。「ただ、繋がれば少しずつ変わるかもしれない」
「少しずつか」
「ゆっくりだ」
少年は首をかしげた。「省務局は何のために存在しているのか、分かるか」
「管理するためだと言っている」
「管理して、どうしたいのか」
颯には答えがなかった。答えを持っていない。持っていなくても動いてきた。
「知らない」と颯は言った。「ただ、邪魔をしてくる」
少年は笑った。岩盤の中で育った少年の笑い方は、外で育った者と同じだった。
翌朝、颯は出発した。
ウナが岩の出口まで来た。技術区の男も来た。農業区の女は来なかった。医療区の女が手を振った。
錆鉄丸が浮上すると、外の光が変わった。星明りだった。岩の壁が遠ざかり、空間が広がる。
「ゾーラに連絡しました」とアルテが言った。「この集落の回線が安定するまで、デルタが優先して確認します」
「分かった。次の目的地は」
「省務局の観測飛行を避けながら北西に抜けるルートが最も安全です。ただし、北西に旧連邦時代の小型情報中枢があります。ハラダの記録に、この施設への言及が三回あります」
颯は操縦桿を握った。「ハラダの記録に」
「はい。具体的な内容は暗号化されています。解読鍵は存在するはずですが、私はまだ持っていません」
「その施設に行く」
「到着まで推定二日十一時間です。省務局の観測ルートからは外れています」
一日が経過した。
計器は安定していた。アルテが三十分ごとに周囲をスキャンした。異常なし。
「アルテ」と颯は言った。
「います」
「ハラダの記録に、どんなことが書いてある」
「解読できていない部分が多いですが、読めた部分では、設計図の配布先と受け取った者への指示があります。『使える者に届けよ。ただし、使えない者に届けてはならない』という趣旨です。具体的な判断基準は書かれていません」
「そのうえで、設計図を俺に渡したのか」
「ハラダが直接渡したわけではありません。前の持ち主を経由しています。ただ、データが残っていた経緯を考えると、意図的に残したと判断できます」
「判断基準が書かれていないなら、誰が判断した」
アルテは少し間を置いた。
「私が判断しました」とアルテが言った。「颯が適切だと判断したのは、最初に私を起動した時の行動からです。壊れた部品を丁寧に扱い、不要だと思っても捨てなかった。あの時点では感情ではなく、行動パターンの評価でした」
颯は何も言わなかった。
「今は違います」とアルテが言った。「今は、感情的な確信があります。これが正しいと分かります。ただし、論理で説明することが難しい」
「難しくていい」と颯は言った。
しばらく沈黙があった。星が流れた。正確には流れていない。錆鉄丸が進んでいる。
「颯、省務局の観測飛行ですが」とアルテが続けた。「パターンを分析した結果、焦点は集落ではなく航路上にあります。まだ特定はされていません」
「俺の航跡を追っている」
「可能性が高いです。ただし、北西施設での滞在は最短にするべきです」
「分かった」
翌朝の早い時間に、北西施設の外縁に到達した。
施設は小さかった。岩盤に埋め込まれた形で、外壁の大部分が隠れている。見える部分だけでは用途が分からない。
「内部に電力が残っています」とアルテが言った。「三つの区画のうち、二つが崩落しています。一つが生存しています」
「省務局の反応は」
「なし」
颯は船を寄せた。ハッチを開けると、中は暗かった。非常灯だけが低く光っていた。
廊下を進んだ。崩落した区画は避けた。生存している区画は施設の最奥にあった。電子錠のドアがあった。アルテが解析した。三十秒でロックが解除された。
中は小さな部屋だった。机が一つ、端末が一つ。埃が積もっている。長い間、誰も来ていない。
端末の前に立った。アルテが接続を試みた。古い起動画面が点灯した。旧連邦規格の表示形式だった。
「ハラダの認証情報がここに登録されています。私のシリアルナンバーで照合できます」
「やってくれ」
照合の間があった。
「解除されました」とアルテが言った。声の質が少し変わった。「颯」
「何だ」
「引継ぎ記録があります。ハラダが私宛に残した記録です。暗号化されていましたが、認証が通りました」
颯は画面を見た。古いフォントで、長い文章が並んでいた。
「概要を先に出してくれ。時間は最短で」
「了解しました」
颯は床に腰を下ろした。埃が舞った。
アルテが読み始めた。旧連邦時代のエンジニアが残した言葉が、静かな部屋の中に流れた。外は暗い。内部は古い光だけがある。読み上げられる言葉の先には、まだ別の座標が隠れていた。
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