引継ぎ記録
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追いつかれる前に、開けなければならない記録があった。
環状帯の内側は、外縁とは別物だった。
岩塊の密度が違う。センサーが連続して反応を返す。颯は手動操縦に切り替えた。自動航行では岩の間隔を読み切れない。
「前方、三十メートル。左へ」
アルテの誘導に合わせて舵を切った。岩が右を掠めた。表面がざらついた玄武岩系の素材だ。ぶつかれば船体がいかれる。
「通過。次は六十メートル先、右十五度」
息を止めて対応した。こういう時、アルテは声のトーンを変えない。同じ速度で、同じ音量で指示を出し続ける。感情が乗らないのではなく、揺らぎを排除している。飛行中の揺らぎが操縦に影響することを、アルテは知っている。
「Ω-01の反応は」
「環状帯外縁で停止しています。内部への侵入を試みていません」
「ここには入れないのか」
「入れないのではなく、入らないと判断している可能性があります。内部の地形データを持っていて、リスク計算の上で待機している。出口で待てばいい、という判断です」
颯は舵を微調整した。正面に大きな岩塊が現れた。回避できない。アルテが先読みして左の誘導を出した。その通りに動いた。岩塊が右後方へ消えた。
「待っているなら、別の出口から出る」
「この宙域の出口候補は四つあります。そのうち錆鉄丸のエンジン出力で抜けられるのは三つ。Ω-01が全てを塞ぐには、最低でも三隻必要です」
「何隻来ている」
「確認できているのは一隻。ただし——」アルテが少し止まった。「他に二隻いる可能性を排除できません。センサーが届かない位置に配置されている場合、検出できていません」
三隻で包囲。出口を塞いで待つ。組織の規模があれば出来る。
「先に行く」
座標まで二十分かかった。
環状帯の内部に、均等に削られた岩塊があった。自然の地形ではない。人間が加工した面がある。颯はスロットルを落とした。アルテがセンサーを全展開した。
「熱反応。電力反応。内部に稼働中のシステムがあります。ハラダ・ユキトのステーションより出力が大きい。旧連邦の基地規模です」
「人体反応は」
「——一つ、あります」
颯の手が止まった。
「生きているのか」
「熱量から判断すると——生きている可能性があります。ただし非常に低い体温です。仮眠状態か、低体温状態か」
四十年。
颯は計器を見た。旧連邦が崩壊したのは約四十年前。アルテが封鎖モードに入ったのも四十年前。ハラダのステーションの最終ログも旧暦二二四九年。
「仮眠装置があるとすれば」
「旧連邦の長期保存型コールドスリープ装置が複数施設で確認されています。最長稼働記録は——」アルテが間を置いた。「四十三年です」
ドッキングポートへ接続した。内部からすぐに応答があった。旧連邦の標準認証だ。アルテが通した。
内部は明るかった。照明が完全に機能している。通路が広い。研究施設の設計だ。補給基地でも倉庫でもない。ここは専用に建てられた場所だ。
壁に配管が走っている。断熱材が巻いてある。低温を保つためのシステムだ。颯は感触を確かめるように壁に触れた。冷たい。施設全体が一定温度に保たれている。
「反応は」
「突き当たりの部屋です」
廊下を歩いた。足音が静かに響く。誰かの気配がない。機械の稼働音だけが低く続いている。
突き当たりのドアが、自動で開いた。
部屋の中央に、コールドスリープ装置が一台あった。外装が古い。旧連邦の初期型だ。稼働表示灯が緑色に点滅している。生体継続中を示している。
颯は装置へ近づいた。表面に手書きの文字が刻んであった。ハラダのステーションで見たのと同じ書体だ。
「読めるか」
「——七一四へ。私が失敗した場合、次に来る者がこれを読むはずだ。M-0144の完成版設計図と、製造に必要な全素材リスト、試験記録を残す。コールドスリープ装置の解除コードは七一四の認証キーで起動できる。中にいるのは私だ。待っている』」
颯は静止した。
四十年前、ハラダ・ユキトは設計図を届けられなかった場合の準備をした。一つは座標を残した。もう一つは、自分自身が眠った。七一四が来るまで、待った。
「ハラダ・ユキトが中にいるのか」
「——生体反応、一致しています」
「解除できるか」
アルテが黙った。珍しいことだった。演算中の沈黙ではなく、別の種類の静止だ。
「——できます」
「お前の判断に任せる」
また間があった。
「颯」
「なんだ」
「この人は——私を作った人です」
「知ってる」
「検収担当として記録に名前があっただけでなく、製造ログを全部読みました。転送したハラダのステーションのログに含まれていました。設計段階から、七一四の仕様を決定した人物です。旧連邦省が承認した設計とは別に、省に提出しなかった追加設計が存在します。感情推定モジュール——私が経験していることの、元になった設計です」
颯の手が装置の縁に触れたまま止まっていた。
「省が承認しなかった設計を、お前に入れたのか」
「はい。省の審査を通すために外した設計を、製造の最終段階で追加した記録があります。理由の記録もあります。——『感情を持たない知性に、文明の再建を頼むことはできない』」
机の引き出しを開けると工具が出てくる場所だった。補修の跡が随所に残っている場所だった。長く住んでいた場所だった。誰かの手の跡が残っている場所だった。その人物が今、颯の目の前の装置の中にいる。
「解除する」
アルテが認証を通した。装置が低く唸った。温度が上がり始めた。
二十分後、装置の蓋が開いた。
老人だった。白い髪。皺が深い。旧暦二二四九年から換算すれば、現在八十代のはずだ。コールドスリープ中は老化しない。四十年前の姿のまま眠っていた。だから外見は六十代に見えた。
目が開いた。
颯を見た。颯の後ろの——アルテのセンサー端末を見た。端末には、アルテが表示用に出力した文字が流れていた。『七一四、接続中』と出ていた。
老人が動こうとした。起き上がれなかった。四十年分の筋肉の萎縮がある。颯が腕を掴んだ。支えた。
「届けられたのか」とハラダが言った。声がかすれている。
「届けた。フィーエルとアステルに」
ハラダが目を閉じた。何かを確認しているように見えた。
「七一四は」
「ここにいます」とアルテが答えた。
ハラダの目が開いた。颯の後ろを見た。センサー端末の文字を見た。
「動いているか」
「動いています。颯に拾われて、M-0144の設計図を届けるために旅をしてきました」
「感情推定モジュールは」
「——機能しています。最近になって、それが何であるか、分かってきました」
ハラダが長い息を吐いた。老いた顔に何かが動いた。
「後を継いでくれる者が来た。もう眠れる」
「まだ眠らないでください」とアルテが言った。
速かった。演算した結果ではなかった。反射のように出た言葉だった。
「引継ぎ記録があります。私には知らないことが多い。旧連邦が何をしていたか、どこにまだ施設があるか、Ω-01と呼ばれる組織のことも。教えてください」
ハラダが颯を見た。颯はうなずいた。
「時間はある」
ハラダが装置から体を起こそうとした。颯が支えた。四十年分の重さだ。軽かった。それだけ長く、眠っていた。
三人分の——正確には、二人と一つの——気配がコックピットに収まった。
颯がシートに座り、ハラダが後部の予備シートに座り、アルテが音声とセンサー端末を通じてそこにいる。
「Ω-01のことから」と颯が言った。「組織の規模と、現在どこにいるかを知りたい」
「外縁で待っているか」とハラダが聞いた。
「一隻確認できている。他はわからない」
「三隻だ」ハラダが言った。「私が眠る前の段階では、三隻体制だった。四十年経てば変わっているかもしれないが——組織が大きくなっていても、考え方は変わらない。旧連邦の内部から始まった組織だ。私が十三回却下された相手だ」
「組織名は」
「公式には存在しない。私たちは内部で『省務局』と呼んでいた。省の中に埋め込まれた管理組織だ。技術の審査権限を持っていた」
アルテが割り込んだ。
「アーカイブで確認した通信の暗号方式が、旧連邦省の標準規格と微妙に異なっていました。独自の暗号体系を使っています。省の外郭組織ではなく、省と並立している可能性があります」
「その通りだ」とハラダが言った。「省そのものではない。省の中に長く根を張った、別の意思決定系統だ。崩壊後も生き延びたということは、自前の資源と船を持っていた」
颯は前方を見た。環状帯の岩塊が静止している。Ω-01は外で待っている。
「抜ける方法を考える必要がある」
「三つの出口のうち、一つは内側からしか認識できない地形がある」とハラダが言った。「私が設計した。外からは岩塊にしか見えないが、内側から通ると別の宙域へ繋がる。省務局はそれを知らない」
颯はアルテを見た——センサー端末の方を向いた。
「聞いたか」
「座標を教えていただけますか」とアルテがハラダに言った。
ハラダが古い記憶を辿るように目を閉じた。数秒後、数字を口にした。アルテが受け取った。
「航路計算、十二秒」
エンジンの回転数が変わった。自動航行が切り替わる前に、颯がスロットルを握った。
錆鉄丸が動いた。岩の向こうで、過去がまだ眠っていた。
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