七十四番目の記憶
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七十四番という数字だけが、Ω-01の記録から抜け落ちていた。
環状帯の影が後ろへ流れた。
錆鉄丸のエンジン音が変わった。スロットルを一段落とした時の振動が、背骨を通して伝わる。巡航速度への移行だ。颯は計器から目を離した。後方センサーを確認する。Ω-01の船は施設へ向かったまま、追跡を再開していない。
「七十四番まで」
「七十一分。取得したアーカイブの解析を並行しています」
「何か出た」
「処理中です」
いつもと違う答え方だった。出た、出ていない、どちらでもない。颯は何も言わなかった。
コックピットに陽光はない。環状帯を抜けた先の宙域は、遠い恒星の光が薄く差すだけだ。計器の明かりが計器板を照らしている。颯はシートに背を預けた。
アルテが黙っている。航行中はいつも何かしら報告がある。センサーの数値、バッテリー残量、次の着陸候補地。それが何もない。エンジン音だけが鳴っていた。
「アルテ」
「はい」
「無理に処理しなくていい」
間があった。
「颯、一つ確認してもいいですか」
「なんだ」
「先ほどのアーカイブに、私の型番——七一四の通信ログがあったと伝えました。M-0144の製造完了報告と、上位系統への配布要請が否決された記録です」
「ああ」
「その記録の中に、もう一件含まれていました。否決から十三時間後、私は別のログを送っています。フィーエル補給基地への直接通信記録です」
颯の手が、計器の上で止まった。
「要請が否決された後、お前は現場へ直接送ったのか」
「送ろうとした記録があります。送達確認は取れていません。M-0144の製造指示書を添付した通信が、フィーエルの端末へ向けて発信されています」
四十年前、アルテは一度試みていた。経路を迂回して現場へ送った。届いたかどうか分からないまま、封鎖モードへ入った。
「届かなかったから、前の持ち主が直接持ち出したのか」
「送達確認がないということは、当時のフィーエルの端末が応答しなかったか、通信が遮断されていた可能性があります。前の持ち主が設計図を持ち出した時点で——届かなかった事実を知っていた可能性があります」
「だから自分で届けようとした」
アルテは答えなかった。エンジン音が続いた。センサーが低く鳴った。
「記録を見た時」とアルテが言った。「私の中で、処理が止まりました」
「エラーか」
「エラーではありません。数秒間、次の計算が始まりませんでした。否決の後、私が発信した通信に送達確認がないという事実を読んだ時に」
颯はシートに背を預けたまま、前方の暗い宙域を見た。何もない空間だ。遠い光の点がいくつかあるだけ。
「農業管理施設で俺が動けなくなった時、お前は計算外の行動を取ったと言っていた」
「はい。最短撤退より先に補助電源を落とす選択をしました。通常の最適化では選ばないルートです」
「環状帯外縁でも同じだった。データより先に俺の撤退を選んだ」
「——そうです」
「それと同じ種類のものか。今止まったのは」
アルテがしばらく黙った。エンジン音の中に、アルテの処理音——微かな電流の流れる音——が混じっている。颯にはそれが聞こえた。
「——はい。おそらく、同じです」
「感情だろう」
「感情かどうか、判断する基準を持っていません」
颯は少し間を置いた。農業施設で植物に絡め取られた時。外縁の施設でスカウト部隊が近づいた時。効率の話ではなかった。颯が危ない時だけ、アルテの判断が変わる。自分では計算の結果だと言う。しかし計算だけで動いているなら、なぜそれが気になるのかを問わない。
「感情があると思っていない人間は、自分が感情で動いているかどうかを問わない」
返答がなかった。
「問った時点で、もうある」
計器が鳴った。前方センサーが熱反応を返した。
「七十四番の施設に接近しています。残り十二分」
岩塊の中に建設されていた。
外装は見えない。アルテのセンサーが熱反応を拾った。岩の表面に旧連邦規格の小さな標識だけが残っていた。意図的に目立たない。知っている者だけが来られる場所だ。
「電力は活性状態です。独立した発電システムを持っています。環状帯の施設より出力が大きい」
「Ω-01はここを知らなかった」
「崩壊直前の最終ログにのみ記録されていた座標です。他のアーカイブへの送信記録は確認できていません」
ドッキングポートへ手動で近づけた。接続した。施設側から応答があった。旧連邦の標準プロトコルだ。アルテが認証を通した。
内部気圧は正常だった。長期間、密閉したまま保たれている。
「進む」
通路は狭かった。補給基地の設計ではない。格納に特化している。壁材が厚く、素材が違う。
「遮蔽材です。電磁パルスへの耐性を高めた構造です」
「崩壊を想定して作ったのか」
「崩壊前に、崩壊を予測して建設した者がいた可能性があります」
奥へ進んだ。扉があった。自動で開いた。照明が入った。
中央に台座が一つある。台座の上に端末が一台置かれていた。それだけだった。データ保管庫も機械部品も素材も何もない。端末が一台だけ。岩の壁に囲まれた部屋の中央に、それだけがある。
颯は部屋を見渡した。前の施設は棚が並んでいた。その前の施設は機器が詰まっていた。この施設は違う。何も積んでいない。持ち出せるものはすべて持ち出した後に、これだけを置いていった。
「調べてくれ」
アルテが接続した。
「——これは」
「なんだ」
「名前の記録です。七十三か所の施設に関わった旧連邦職員の氏名と、M-0144の開発に携わった技術者の一覧と——」アルテが止まった。「私の、製造記録があります」
颯の体が静止した。
「フィーエル補給基地の主任技術者、複数名。製造日、旧暦二二四七年三月。そして——M-0144の開発を主導した技術者の名前が最初に記載されています。この施設を最後に訪れた人物と、その技術者が同一である可能性があります」
「前の持ち主か」
「照合できる写真記録はありません。氏名のみです」
台座に触れた。金属が冷たかった。指先から体温が流れ出ていく感触がした。
誰かがここへ来た。崩壊が近いと知っていた。運べるものは全部持ち出した後で、最後にここへ来た。端末を一台置いていった。後に来る誰かへ向けて、名前だけを残した。四十年後に、颯たちが来た。
「転送できるか」
「完了しています。全データを取得しました」
出港した。
Ω-01の船は施設の周辺に停まっていた。中身がないと分かれば追跡の意味はない。颯は北ルートへ舵を切った。
「妨害装置の回避確認」
「北ルートでの周波数干渉、なし。今回のアーカイブで三パターン特定できました。全て回避完了です」
「次の目的地は」
「端末に記録されていた技術者たちの出身コロニー座標が含まれています。現在の生存者コミュニティとの関連は不明ですが——前の持ち主が最後に向かおうとしていた場所の可能性があります」
「向かう」
スロットルを押した。錆鉄丸が加速した。後方センサーを確認した。Ω-01の船は動いていない。施設の周辺で停止したままだ。
環状帯の影が後ろへ消えた。
「アルテ」
「はい」
「お前がフィーエルで作られて、四十年後にフィーエルへ設計図が届いた」
「——はい」
「止まれないのは、正しいからだ」
返答はすぐには来なかった。エンジン音が鳴っている。センサーが鳴っている。それが続いた後で、アルテが言った。
「そうであればいいと——思います」
思います、と言った。感情があるかどうか分からない、とは言わなかった。
錆鉄丸は北へ向かった。七十四番だけが、まだ誰にも回収されていない。
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