七十年分の声
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七十年分のログは、受け取った瞬間から錆鉄丸の荷物になった。
翌朝、颯は基板を外した。
ゾーラの工具棚から精密ドライバーを三本借りた。旧連邦規格で、先端の形状が合った。締め付けトルクは感触で判断する。締めすぎれば基板が歪む。緩すぎれば接触不良が残る。数字ではなく手が知っている値だ。
基板はアルミ板の上に置いた。表面の変色を見た。熱サイクルで焼けた痕が、部品の配置に沿って薄く走っていた。七十年分のパターンだ。
「代替材の一番目、準備できています」とアルテが言った。
颯は素材の状態を確認した。錆鉄丸の在庫から出した粘性の高い熱伝導材だった。本来の用途は船のエンジン冷却系だったが、成分が近い。アルテが検証した結果、使用可能と判断していた。
ゾーラは作業台の端に立って見ていた。邪魔にならない距離だった。手を出さない。それが彼のやり方だと分かった。
颯は古い熱伝導材を丁寧に取り除いた。乾燥して粉状になった素材は綿状になって剥がれた。長年の蓄積が指に感じられた。使い古した表面の質感だ。
新しい素材を薄く均一に塗布した。部品の接触面全体に広がるよう、平らな金属片を使って延ばした。厚さが均一でなければ効果が落ちる。
「厚みは均一ですか」
「問題ない」
放熱板の加工は前夜に終えていた。錆鉄丸のアルミ板を切り出して、基板の左側スペースに合わせた形に仕上げた。表面積を増やすため、均等間隔でスリットを入れてある。
放熱板を固定した。ネジは四箇所。基板に圧力をかけすぎないよう、対角線で締めた。最後にもう一度確認した。浮きはない。
「組み付け完了です。試験稼働の準備を始めます」
颯は基板を元の位置に戻した。ゾーラが無言で電源を入れた。
機器が起動した。出力メーターが上がった。颯は基板の表面温度を確認した。サーモメーターの針が動いた。通常域に収まっている。
「三十五分後が最初の確認点だ」と颯は言った。
「分かった」とゾーラが言った。
三十五分、颯はアルテの解析作業に移った。
ゾーラが七十年分のログをデータ端末に移してくれていた。通信記録、受信ログ、手書きのメモを電子化したもの。形式がバラバラだった。旧連邦の標準形式、独自の圧縮形式、平文テキスト。
「パターン認識から始めています」とアルテが言った。「まず受信頻度と時間帯の分布を見ます。三年前から受信しているという信号を優先的に探しています」
颯は端末を覗いた。波形が次々に展開されていた。アルテが高速で処理していた。
「ゾーラ、その信号が強くなる時期はあったか」
ゾーラはしばらく考えた。「季節的なものは感じなかった。ただ、ある時期に三日間、普段より明確に受信できたことがある」
「いつ」
「一年半前くらいだ」
「記録はあるか」
「ある」
ゾーラがコンソールを操作した。データが追加された。
「見つけました」とアルテが言った。
颯は端末の画面を見た。波形の中に、明確な周期性を持つパターンが浮かび上がっていた。他のノイズとは異なる形だった。
「信号です。自然発生のノイズには出ないパターンです。周期が約十七時間。人工的な送信です」
「発信源は」
「解析中です。複数のタイムスタンプと受信強度の変化から、方位を計算しています」
颯は待った。ゾーラも黙って立っていた。
「方位は北北西です。このステーションから計算すると、おそらく七百から千天文単位の距離です」
「千天文単位」
「遠いです。航続距離の限界を超えています。到達するには中継拠点の確保が必須です。ただ途中の宙域の情報がありません」
颯は画面を見続けた。十七時間周期。人工的なパターン。三年前から送られ続けている。
「内容は解析できるか」
「試みます。ただし信号が弱い。現状のアンテナ状況では完全な受信が難しいです」
ゾーラが言った。「一本、使えなくなっているアンテナがある。三年前に強風で傾いた。修正できなかった」
「どの方向だ」
「北寄りだ」
「見せてくれ」
アンテナは施設の屋上にあった。
六本のアンテナが放射状に並んでいた。そのうち一本が、取り付け基部から五度ほど傾いていた。大きな損傷ではない。固定ボルトが緩んで、強風で動いたのだ。
「三年間、触れなかった理由は」
「高所作業の装備が壊れていた。単独では危険だった」
颯は施設の屋上を見渡した。手すりは残っている。固定点もある。錆鉄丸の安全帯があれば作業できる。
「一時間もらう」
アンテナを正位置に戻した。
ボルトを増し締めした。固定金具に角度調整のスペーサーを挟んだ。元の設計仕様にはないが、再度の緩みを防ぐためだ。
「計測値が変わった。受信感度が上がっている」とゾーラが地上から言った。
颯は降りた。
「再計算します」とアルテが言った。「信号の受信品質が改善されました。内容の解析を試みます」
解析に三時間かかった。
颯は通信機器の経過観察を続けた。温度は安定していた。一時間後も同じだった。放熱が機能している。
「通信機器は安定しています」とアルテが言った。「このまま長時間稼働させても問題ないと思います」
ゾーラは計器を見た。長い沈黙があった。
「七十年動かし続けた機器だ」とゾーラは言った。「もう少し動く」
颯はその声を聞いた。感情の薄い声だったが、その薄さが逆に何かを伝えていた。
「信号の解析が終わりました」とアルテが言った。
颯は端末を手にした。
「繰り返しパターンです。三種類の情報が交互に送信されています。座標データ、温度データ、そして短いテキストシーケンスです」
「テキストは」
「旧連邦の標準暗号形式です。復号できます」
颯は端末を見た。
ーーー
STATUS: OPERATIONAL
POPULATION: UNDISCLOSED
REQUEST: CONTACT IF RECEIVED
REPEAT CYCLE: 17H
ーーー
稼働中。人口は非公開。受信したなら連絡せよ。十七時間周期で繰り返す。
それだけだった。名前も、場所の詳細も、何が必要かも書いていない。ただ受信したなら連絡せよ、と言っている。三年間。
「ゾーラ、返信できるか」
「試したことはない。送信帯域は合っているが、相手に届くかどうかは分からない」
「やってみる価値はある」
ゾーラは少し考えた。「何を送る」
颯はアルテに言った。「こちらの座標と、受信確認の返信を送れ」
「送信形式を旧連邦の標準形式に合わせます」
アルテが送信内容を生成した。
ーーー
SIGNAL RECEIVED: DELTA STATION, OUTER BELT
CONTACT ESTABLISHED: HAYATE / AI: ARTE
COORDINATES: ATTACHED
RESPOND IF POSSIBLE
ーーー
「送信します」
ゾーラがコンソールに手を置いた。「送る」
短い間があった。送信が完了した。
返信はすぐには来なかった。当然だ。距離がある。電波の速度でも、往復には時間がかかる。
しかし送った。デルタから、宇宙の北北西へ。
その夜、颯はゾーラと話した。
「エリアへの通信は今後もできる」と颯は言った。「修理した機器で安定して届く。デルタとの定期通信が確立できる」
「フィーエルとアステルとも繋がるか」
「アルテに確認させる。中継ポイントが必要かもしれないが、繋がらない理由はない」
ゾーラは黙っていた。食堂の椅子に座って、トレイを前にしていた。今夜の食事は同じ保存食と藻だったが、量が少し多かった。
「七十年間、ここには誰も来なかった」とゾーラは言った。「エリアが信号を送ってきたのが三年前。颯が来たのが今日だ」
「来ないと思っていたか」
「思っていた。それでも送信と記録を続けた」
颯は食事をしながら聞いた。
「理由は」
「やめる理由がなかったから、続けた」ゾーラは言った。「それだけだ」
端末の中でアルテは静かだった。
「アルテ、フィーエル、アステル、ロストンへの通信経路を計算しておいてくれ」
「しています。デルタから直接届く周波数帯が一つあります。ただし、中継なしで安定した通信を維持するには、この施設のアンテナをもう一本増設した方がいいです」
「設計図はある」
「あります。旧連邦の標準型アンテナです。部品の八割は錆鉄丸にあります。残りはアステルか隠れ里で調達できます」
颯はゾーラに言った。「アンテナを一本追加すれば、フィーエル、アステル、ロストン、隠れ里、デルタが繋がる。全部、定期的に話せるようになる」
ゾーラは少し考えた。「アンテナの設置は私にできるか」
「設計図があれば、できる。アルテが工程を説明する」
「時間はかかるが、やれる」ゾーラは言った。短い言葉だったが、受け入れていた。
翌朝、颯は出発の準備をした。
錆鉄丸の点検を済ませた。消費した素材の在庫を確認した。熱伝導材とアルミ板を使った分は、アステルで補充できる。
「北北西の信号、返信は来ていない」とアルテが言った。
「まだ早い。届くのに時間がかかる」
「届いたとして、返信が来るのはもっと先です」
「分かっている」
颯は荷物を確認した。ゾーラが昨夜のうちに補充してくれた保存食が追加されていた。言わずに入れてある。
外に出ると、ゾーラが立っていた。帯の光が薄く広がっていた。朝の光だった。
「アンテナの設計図は端末に入れた」とアルテが言った。「工程の説明資料も添付しています」
「受け取った」とゾーラが言った。
「定期で通信する。週に一度でどうだ」
「それでいい」
「北北西の信号に返信が来たら、すぐに知らせてくれ。デルタが最初に受信できる位置にある」
「了解した」
颯は錆鉄丸に乗り込もうとした。
「颯」ゾーラが言った。
振り返った。ゾーラは変わらない表情だった。ただ立っている。帯の光を背に受けて。
「また来い」
颯は頷いた。「来る」
錆鉄丸のエンジンが起動した。デルタの接続を切った。帯の外縁から離れていった。
施設が遠ざかった。アンテナが六本、放射状に並んでいた。そのうち一本が、昨日より少し確かな角度で立っていた。
「フィーエルへの通信を試みます」とアルテが言った。「アステルにも同時に送ります。デルタからの通信網確立の報告です」
「送ってくれ」
「デルタで受け取った七十年分のデータも整理が終わり次第、フィーエルのセイさんとアステルのイグニスさんに転送します。旧連邦の通信記録や技術データです。各拠点の技術者たちに役立つものが多いです」
「頼む」
颯は航路計算を始めた。次の目的地を考えた。
北北西の信号。七百から千天文単位。返信は来ていない。しかし届いたかもしれない。届いていれば、向こうも今、何かを送っている。
「アルテ、北北西へのルートを計算してくれ」
「計算します。ただし途中の宙域の情報が不足しています。安全な航路を確定するには、もう少しデータが必要です。アステルの旧連邦地図データがあれば照合できます。あの基地には星図が残っていると聞いていました」
「アステル経由で北北西か」
「はい。それが最も情報が揃うルートです」
颯は計器を確認した。錆鉄丸は問題なく動いている。エンジン音が均一だ。
アステル。フィーエル。隠れ里。デルタ、ロストン。五つの拠点が今、同じ通信網の中に入ろうとしている。そして北北西に、まだ名前のない六番目がある。
「ゾーラ、まだ通信範囲か」
「はい。あと一時間ほどは届きます」
「繋いでくれ」
「繋ぎます」
短い接続音があった。
「ゾーラ、聞こえるか」
「聞こえる」ゾーラの声が届いた。少し遅れた。距離のある声だ。
「通信網は完成する。アンテナを追加すれば、フィーエルとアステルとロストンと隠れ里に繋がる。一人じゃない」
ゾーラは少し間を置いた。「分かっている」
「週に一度、呼ぶ」
「待っている」
接続が続いていた。颯は特に話すことを考えなかった。ゾーラも話さなかった。ただ繋がっていた。
しばらくして、ゾーラが言った。「七十年分のデータを誰かが使うとは思っていなかった」
「使う。アルテが全部整理して、必要な人間に届ける」
「そうか」
通信範囲の境界が近づいた。信号が弱くなり始めた。
「届かなくなる前に」と颯は言った。「次は来た時に、アンテナの確認をする」
「待っている」
接続が切れた。
錆鉄丸は宙域を進んだ。後ろにデルタが遠ざかり、前に星が広がった。
「アルテ」颯は言った。
「はい」
「おまえが持っている設計図、三万二千件。まだ使っていないものが大半だな」
「ほとんど使っていません」
「使う機会が増える」
アルテは少しの間、何も言わなかった。
「そうなりますね」とアルテは言った。「一つ繋がると、また別が見えてくる」
颯は前方を見た。星が静かだった。エンジンが均一に回っていた。
北北西の方向に、十七時間ごとに信号を送り続けている誰かがいる。三年間、返信がなくても送り続けてきた。それはゾーラと同じやり方だ。エリアとも同じだ。
颯はシートに背をつけた。
アステルまで、三日かかる。その三日の先で、リード13番の座標が待っている。
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