声の向こう
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朝、颯はヘインの部屋へ行った。
ヘインは着替えていた。寝具ではなく、外へ出られる服だ。
「立てるか」
「昨日より楽だ」ヘインは立ち上がった。手を壁から離した。二秒、三秒。揺れなかった。「歩ける」
颯は計器を出した。血圧、体温、血液成分。数値を確認した。
「投与は今日が最後だ」
「そうか」ヘインは自分の手を見た。「完全に戻った感触ではないが、動ける」
「動けるで十分だ。完全に戻るのは時間がかかる」
「分かっている」ヘインは窓の外を見た。光が差し込んでいた。「エリアの話では、水路が見えると聞いた」
「水は正常だ」
「そうか」ヘインは短く言った。
投与を終えた。針を抜いた。ヘインは腕を押さえず、すぐに手を下ろした。
「デルタへはいつ着く」
「順調なら明後日の朝だ」
「そこに何がある」
「通信ステーションと技術者がいる。旧連邦のデータにアクセスできるかもしれない」
ヘインはうなずいた。「行く価値はある」
「そう判断している」
「颯」ヘインは振り返った。「M-0144の記録を持っているか。投与量と症状の変化の記録だ」
「持っている」
「コピーしてもらえるか。ここに残したい。数値だけでなく、自分の言葉で書いておきたい」
颯はアルテに指示した。記録を整形して出力した。日付ごとの状態の変化も含めた。ヘインは受け取り、一枚一枚確認した。
「正確だ」
「数値はすべて記録してある」
「ありがとう」ヘインは記録を抱えた。「デルタで何が分かるか、いつか教えてくれ」
「機会があれば」
「それで十分だ」
颯は部屋を出た。
ユイは庭にいた。
朝の光の中で、鉢を膝に置いて地面に座っていた。カウルが隣で丸まっている。葉は昼間だから光っていない。それでも八枚ある。
「颯」ユイは顔を上げた。「今日だね」
「夕方に出発する」
「そっか」ユイは鉢を持ち上げた。「持って行くの、覚えてる?」
「船に固定してある」
ユイは目を細めた。颯は隣に座った。カウルが鼻を持ち上げてから、また目を閉じた。
「投与は今日が最後だ」
「五日経ったんだね」ユイはノートを開いた。「全部記録した」
「見せてもらえるか」
ユイはノートを渡した。颯はページをめくった。投与の日時、症状の変化、体温、食事の量。それと葉の数。毎日葉の数が書いてある。
「葉は記録に必要か」
「必要かどうか分からないけど、変化してるから」ユイは答えた。「記録するものを決める基準が分からなかったから、全部書いた」
「正しい判断だ」
ユイはノートを受け取った。「颯はどこへ行くの。デルタの後は」
「決まっていない」
「決まってないの」
「行きながら決める」
ユイは鉢を見た。「そういう生き方なんだ」
「そういう生き方だ」
しばらく、二人とも黙っていた。カウルが寝返りを打った。
投与の準備をした。ユイは腕を差し出した。空を見ながら。針が入った。薬剤が入った。
「終わった」
「うん」ユイは腕を引いた。「また会える?」
「分からない」
「そっか」ユイはカウルの頭を撫でた。「正直に言ってくれてありがとう」
颯は立ち上がった。庭を出た。
昼前に、錆鉄丸の通信室へ入った。
「アルテ、周波数の設定は」
「完了しています。エリアのログを見ると、ゾーラは正午前後に応答しています」
「今は」
「十一時四十分です」
颯は送信機の前に座った。出力を確認した。エリアが整備した中継設備がある。環状帯の手前だが、届くはずだ。
「送信する」
「了解です」
颯はコードを入力した。ゾーラの周波数。待った。
十秒もかからなかった。
「こちらデルタ、ゾーラだ。錆鉄丸か」
声は低く、中性的だった。颯の名を知っていた。エリアから聞いていたのだろう。
「そうだ。十六夜颯だ。出発前の確認通信だ」
「エリアから聞いている」ゾーラは言った。「医療機器の技術者と、旧連邦のAIが来ると。今日の夕方に出発するとも」
「情報は正確だ」
「到着は明後日の朝か」
「そう予定している」
「了解した」短い間があった。「通信設備の不具合について、事前に聞きたいことはあるか」
「エリアから症状は聞いていない。こちらで把握しているのは、通信ステーションがあるということだけだ」
「出力が安定しない」ゾーラは言った。「周期的に落ちる。電源を替えても改善しない。七十年前の機器だ。設計書はある。だが読んでも原因の特定ができていない」
アルテが颯の前で待っていた。
「アルテ」
「はい、ゾーラ。旧連邦規格の通信機器なら、設計仕様は把握しています。出力が周期的に落ちる場合、同期クロックの劣化か、増幅回路の熱膨張が多い。電源交換で改善しないなら、後者の可能性が高い」
通信の向こうで、何かが動く音がした。記録しているのかもしれない。
「送信周期と落下のタイミングを記録してあるか」と、アルテが続けた。
「している」
「そのデータを到着後に見せてください。数字があれば診断は早くなります」
「分かった」ゾーラの声から、硬い部分が少し取れた。「中枢AIと実際に話したのは初めてだ」
「旧連邦の技術者と仕事をしていたか」と颯は聞いた。
「していた」答えは短かった。「別の話だ。環状帯の通過ルートは決まっているか」
「南南西からアプローチする。エリアに教えてもらった」
「正しいルートだ。外縁の流れが強い区域を避けられる。到着前に再度通信しろ。場所を案内する」
「了解した」
「到着を待っている」
通信が切れた。
「アルテ」
「はい」
「ゾーラはどんな人だと思う」
「慎重で、技術に詳しい。問題を自分で調べて、記録している。AIについては、警戒より興味の方が強そうです」
「旧連邦のAIと仕事をしていたと言っていた」
「それが今の反応に繋がっているかもしれません」アルテは言った。「行けば分かります」
「そうだ」
午後、エリアに別れの挨拶をした。
エリアはテーブルの前で記録を整理していた。颯が入ると、手を止めた。
「ゾーラとは話せたか」
「話した。エリアが事前に伝えていたようだな」
「昨日の夜に通信した」エリアは言った。「颯たちが来て何をしたか、ヘインとユイのことも。ゾーラには知っておいてほしかった」
「正解だった。話が早かった」
エリアは微かに笑った。「長い付き合いだから。ゾーラは最初から警戒しなかったか」
「警戒はしていた。でも最初から名前を知っていた。それで手順が違った」
「名前を知っているのと知らないのとでは、全然違う」エリアは言った。「ゾーラはそういう人だ」
「デルタとはいつから連絡を取っていた」
「三年前から」エリアは記録に目を戻した。「最初は短い信号だった。意図的なものかどうかも分からなかった。少しずつ確認して、人がいると分かった。それからゾーラと話すようになった」
「孤立していると思っていたか」
「この里ができてから十年間はそう思っていた」エリアは窓の外を見た。光が傾いていた。「ゾーラの信号が来た時、信じられなかった。まだ他にも人がいるとは思っていなかったから」
颯はうなずいた。
「記録は続ける」
「続ける」エリアは言った。「あなたたちが来たことも、水路のことも、ヘインとユイのことも。全部」
「ロストンへも送り続けるか」
「送り続ける。ミカが待っている」
颯は立った。
「ゾーラへよろしく伝えてくれ」
「伝える」
エリアは立ち上がった。手を差し出した。颯は握った。エリアの手は固かった。長く農作業をしてきた手だ。
「また会えるかもしれない」エリアは言った。「ゾーラと私は時々話す。あなたがデルタにいる間、三者で通信できる」
「それは良い」
「そうしよう」
颯は部屋を出た。
夕方、錆鉄丸のエンジンを起動した。
推進系、電力系、正常。センサーアレイ、較正済み。生命維持、安定。
「アルテ、出発準備」
「完了しています。南南西ルートで環状帯外縁へ。所要時間は推定三十七時間です」
「了解した」
エリアと数人の里人が外に出ていた。
颯はハッチから顔を出した。ユイがいた。カウルを抱えている。クレも来ていた。
「来なくてもよかった」
「来た方がいいと思った」エリアは言った。
颯は外へ出た。ユイが何かを差し出した。小さなガラス瓶だった。中に土が入っている。
「里の土。あっちでも使えるかもしれない」
颯は受け取った。土は湿っていた。エリアが変えた、根に合う土だ。
「使える場所があれば使う」
「そうして」ユイはカウルの頭を撫でた。「カウル、颯に何か言いなさい」
カウルは目を開けた。颯を見た。それからまた目を閉じた。
「何も言わなかった」颯は言った。
「言ったよ」ユイは言った。「目で言ってた」
颯には分からなかった。でもそれでいい。
クレが前に出た。「水路の修理、本当に助かった。また何かあれば、通信で聞いていいか」
「エリアを通せば届く」
「分かった」クレは一歩引いた。
颯はエリアを見た。エリアは何も言わなかった。うなずいた。颯もうなずいた。
ハッチに戻った。エンジンが唸った。推進器が温まった。
錆鉄丸が地面を離れた。
里が小さくなった。エリアが手を上げていた。ユイが手を振っていた。クレは立ったままだった。
「アルテ」
「はい」
「南南西ルート、始動開始」
「了解です」
夜が来た。
星が見えた。環状帯はまだ遠い。帯状に広がる粒子が夜空の一部を白く染めていた。
「颯」
「何だ」
「ゾーラは旧連邦の通信記録を持っているかもしれません。広域のデータが残っている可能性があります」
「そうなったら」
「私が持っていない情報が手に入るかもしれません。他のコミュニティの場所や、旧連邦のネットワーク構成図も」
颯は星を見た。遠くに環状帯の光が見え始めた。白く、静かな光だった。
「行けば分かる」
「はい」
颯は操縦席に座った。チェックリストを開いた。順番に確認していった。すべて正常だった。
鉢を見た。固定した棚の端で、葉が振動に揺れている。光ってはいない。まだ早い。暗くなりきってから光り始める。
ヘインが今朝立った。ユイが土を渡した。エリアが記録を続ける。ゾーラが到着を待っている。
エリアはゾーラに颯のことを伝えていた。颯が来る前日の夜に。それだけで、今日の通信は違った。名前を知られている、それだけで警戒の質が変わった。
ゾーラもまた孤立の中にいた。三年前にエリアの信号が届くまで。デルタもそうだった。名前だけが先に届いて、今度は颯が向かっている。
錆鉄丸は星の海を進んだ。葉が揺れた。光はまだなかった。通信ログには、向こうへ届いた声だけが残っていた。
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