補修の日
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朝に準備を始めた。
補修材の缶を三本、ロープを一巻き、照明ユニットを二台。颯はそれをカートに積んだ。アルテの端末がカートの横に固定してある。
「水温は昨夜より〇・三度上がっています」とアルテが言った。「植物の代謝が活発になっているせいかもしれません」
「急ぐ理由が増えた」
クレが加工室から出てきた。厚手の作業着を着ていた。ベルトで絞って体に合わせてある。袖をまくると腕が細い。でも立ち方は三日前と違う。地面をしっかり踏んでいる。
「投与は今日の朝も済んだ」
「確認した」
エリアが廊下の角に現れた。
「二人で降りるのか」
「二人で足りる」と颯は言った。「入口が狭い。人数が増えると作業しにくい」
「水路の下には通信が届かない」
「何かあれば戻る」
「ユイの投与は昼だ」
「時間内に終わらせる」
エリアが少し黙った。カートの荷物を目で確認した。それから頷いた。
「気をつけて」
水路の入口は加工室の床にある。鉄の蓋を外すと、段になった降り口がある。照明がなければ何も見えない深さだ。壁から湿気と冷気が漏れてくる。
「先に降りる」と颯は言った。
段を踏んで降りていった。壁に手をつくと湿気が皮膚に染みる。底まで十二段。最後の二段は石が滑りやすくなっていた。
クレが後から降りてきた。足音が静かだった。暗い中でも迷いがない。
「よく覚えている」と颯は言った。
「二十年、降りてきた」クレは照明を点けた。「目をつぶっても降りられる」
水路は幅一メートル強の通路だった。底に水が流れている。深さは足首程度だ。壁には植物の根が細く入り込んでいる。根の先端がわずかに光っている。青みがかった色だった。颯は三日前に気づいたが、クレは二十年間それを見てきたはずだ。
「侵入口は三カ所だったな」
「はい。最初の侵入口は七十メートル先です」とアルテが端末から言った。
颯とクレは歩いた。水が靴底を濡らした。冷たかった。底の石が丸く削れている。長い時間が流れたことが分かる形をしている。
七十メートルを歩くと、壁に亀裂が見えた。指の幅ほどの隙間だ。根がそこから入り込んでいる。根は白くて細い。七本か八本が束になって、水中に垂れていた。根の先端が揺れるたびに微光が散る。
颯はそれを触った。弾力がある。ヘラで押すと切れた。白い液体が出た。
「毒性はないか」
「確認済みです。根そのものは無害です。水に溶けている成分が一定量を超えると影響が出ます」
「亀裂を塞げば止まるか」
「新しい根の侵入は止まります。既存の根は時間をかけて枯れます。成分の溶出量は急速に減少します」
「やる」
颯は缶を開けた。補修材はねっとりしている。ヘラで亀裂に押し込んだ。根がある部分は根を先に切ってから押し込む。根の断面をウエスで拭き、液が混じらないようにしてから充填した。壁の表面が粗いため、端まで丁寧に押し広げる必要があった。
クレは端末の地図を見ながら、照明を颯の手元に向け続けた。
「角度が悪い」と颯は言った。
「ここか」クレが照明を動かした。
「そこだ」
作業に十分かかった。補修材が亀裂を埋めた。表面を均してヘラを拭く。
「固まるまで時間がかかるか」
「このタイプは三十分で一次固化します。完全硬化は二十四時間後です。今日の水路利用に影響はありません」
「次に行く」
二カ所目は四十メートル先にあった。
一カ所目より亀裂が大きかった。幅が二センチ近くある。根の数も多く、水の底まで届いていた。水の流れに根が揺れて、光が水中で散る。
「二十年前には気づかなかった」とクレは言った。「最初は細い根だったはずだ」
「踏んでも切れない。伸び続ける」
「五年ほど前から水の味が変わった気がしていた」クレは壁を触った。「その頃から気にはなっていた。でも原因が分からなかった」
「気のせいではなかった」
「百人以上がいる。何かが変わった時、原因が見つからなければ気のせいにする。そうしなければやっていけない」
颯はヘラで根を切った。液が出た。ウエスで拭いた。亀裂に補修材を押し込んだ。
クレも作業に入った。颯がヘラで押し込んだ箇所の隣を、細い指で丁寧に均していく。手つきが正確だった。
「慣れているか」と颯は言った。
「修理は専門ではない。でも細かい作業は好きだ」
「向いている」
「水路の地図を描くことも向いていると思っている」クレは補修材を均した。「あなたは?」
「向いているかは分からない。やるだけだ」
クレが少し間を置いた。「そういうものか」
「そういうものだ」
作業が終わった。二カ所目の亀裂が埋まった。水路が静かに鳴っている。
三カ所目が問題だった。
水路が分岐している場所の、さらに奥にあった。入口から百五十メートル。クレの地図では端のほうにある。壁の亀裂は見つけにくかった。天井に近い場所に細い線が走っている。照明を向けなければ気づかない。
「高い」と颯は言った。
「脚立がない」
「肩に乗れ」
「乗れるか」
「乗れる。軽いだろう」
クレが颯の肩に上がった。軽かった。照明を持ち上げると天井の亀裂がはっきり見えた。幅は一センチほどだが、長さが三十センチある。根は入り込んでいないが、水が細く染み出している。
「根の侵入口ではないかもしれません」とアルテが言った。「構造の劣化による水漏れの可能性があります。ただし、放置すれば根の侵入路になります」
「塞ぐ」
クレが缶を持ち上げた。颯の肩の上で重心を安定させ、ヘラを使って亀裂に押し込んでいく。天井への角度が難しい。補修材が落ちようとするのをヘラで押さえながら均していく。
「もう少し左だ」と颯は言った。
「ここか」
「そうだ。端まで入れてくれ」
「分かった」
七分かかった。クレが肩から降りた。
「重くはなかったか」
「問題なかった」
「三日前では倒れていた」クレは自分の手を見た。「今日は動ける」
「投与が効いている」
「あなたの治療が効いている」クレはヘラを拭いた。「エリアが言っていた。颯は必要な時に必要なものを持ってくる、と」
「たまたまだ」
「たまたまでも、起きたことには変わりない」
颯は缶を片付けた。返す言葉がなかった。水が流れる音だけが聞こえた。根の先端がまだ光っている。これからも光り続けるだろうが、根は枯れていく。
地上に戻ると昼前だった。
エリアが入口の前で待っていた。
「三カ所、全部終わった」
「問題はなかったか」
「三カ所目が天井側にあった。構造劣化だ。補修は済んだ」
「水質の変化はいつ出るか」
「アルテ」
「根からの成分溶出は今日中に減少が始まります。有意な改善は三日から五日後です。一時的に数値が上がる可能性があります。枯れ始めた根から成分が溶け出すためです」
「一時的には悪化する」とエリアは言った。
「一時的に。その後下がる」
「分かった」エリアはクレを見た。「体は」
「大丈夫だ。高い場所の作業も颯の肩を借りてできた」
「肩を使ったか」エリアが颯を見た。
「荷重は軽かった」
「そうか」エリアは少し目を細めた。「昼ごはんがある。食べて休んでくれ」
昼にヘインとユイの投与を済ませた。
ヘインの顔色が安定していた。昨日より言葉が多かった。颯が準備をしている間、ヘインは天井を見ながら話した。
「昨日、川の夢を見た話をしたね」
「した」
「子供の頃、地上に川があった。入ると冷たかった。あの冷たさを長い間忘れていた」ヘインは天井から颯へ目を動かした。「水路を直してくれたそうだね」
「今日、終わった」
「そうか」ヘインは静かに言った。「川みたいにはならないだろうが、きれいになるか」
「きれいになる」
「それならいい」
投与が終わった。ヘインは目を閉じた。呼吸が落ち着いている。
ユイは投与の間、植物の鉢を膝に置いていた。カウが横に座っている。
「水路は直った?」とユイは言った。
「直った」
「この子も関係あるか」ユイは鉢を持ち上げた。
「関係ある。根が原因だった」
「この子の根?」
「仲間の根が水路の壁から入ってきていた」
ユイは鉢を胸に抱えた。「悪いことをしていたの?」
「悪気はない。生きていただけだ」
「じゃあしょうがないね」とユイは言った。少し考えてから付け加えた。「でも水がきれいになるならよかった」
投与の針を刺すと、ユイは小さく息を吸い込んだ。それだけだった。逃げなかった。薬剤が広がると目を細めた。鉢を抱えたまま目を閉じた。
夕方に水質の最初の計測をした。
エリアとクレが計測キットを使って数値を出した。颯はアルテに確認させた。
「根由来の成分は〇・二低下しています。誤差の範囲ですが、方向は正しい」
「正しい方向だ」と颯は言った。
エリアが数値を記録に書き込んだ。「ロストンには今日も送った。水路の修理が終わったこと」
「返事は来たか」
「ミカからだ。水路問題は自分たちも経験した、と。植物の根ではなく砂の堆積だったが、同じ問題だったと言っていた」
「同じ構造だ」
「別の場所でも同じことが起きる。そういうことか」
「旧連邦時代に設計されたインフラは同じ設計書から作られている。問題の起きる場所も似てくる」
エリアは少し考えた。「それはロストンに伝えた方がいいか」
「伝えてくれ。他に三カ所、確認すべき部分がある。アルテが設計書から推測した」
「外れている可能性もあるか」
「ある。でも確認する価値はある」
「伝える」エリアは端末を開いた。「ミカもそういう話を喜ぶ。向こうも直していける場所が増える」
夜になった。
颯はテーブルで端末を開いていた。アルテからの通知が一件あった。
「環状帯外縁の中継基地デルタについて、追加情報が見つかりました」
「言え」
「旧連邦時代のデータベースに運用記録があります。最後の記録は標準暦二二十八年。基地員二名で運用されていたと記録されています。その後、定期報告が途絶えています」
「途絶えた理由は」
「記録にはありません。基地自体の設計寿命は標準暦二二八〇年まであります。現在は二二八七年です。設計寿命を超えていますが、構造的に崩壊していない可能性はあります」
「誰かがいるか」
「不明です。ただ、運用記録が途絶えた後も、通信アンテナから微弱な信号が断続的に出ています。自動システムが生きている可能性があります」
「自動システムだけか、人がいるかは分からない」
「現時点では分かりません。直接確認するしかありません」
颯は端末を置いた。鉢が目に入った。アルテノフィラの葉が、照明が落ちると縁から光り始めた。昨日も気づいたが、今日もそうだ。根ではなく葉が光る。
患者の投与はあと二週間は続く。水路の水質は五日後に確認できる。ロストンとの通信が続いている。
その後に、中継基地デルタがある。
十天文単位。錆鉄丸で届く。
「燃料の現状は」
「推進剤は七十二パーセントです。デルタへの往復と若干の機動余裕を含めて、問題ありません」
「患者が安定したら出る」
「了解しました」
「デルタへのルートで注意すべき点を整理しておけ。急がないが、出る前に確認したい」
「はい。並行して作業します」
端末を閉じた。
テーブルの上の鉢が光っている。根ではなく葉が光る。昼間には分からない。夜に照明が落ちてから分かる。
エリアはこれを颯に渡した。礼として渡した。この植物が水路の問題を起こした原因だった。それでも夜には光る。
こういう光もある、と颯は思った。
椅子に深く座って、目を閉じた。葉の光が静かに揺れていた。
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