夜の底
お昼に更新中です。 ぜひ読んでいってください!!
夜の底で、治療の結果はまだ数値に出ていなかった。
医療室を出た。
エリアが先を歩く。颯は診断ユニットのケースを持ち直した。中で付属部品が当たって鳴った。廊下の照明は低く、夕方に似た色温度だった。だが地下に夕方はない。生活リズムを作るために設定されているのだと、通路の曲がり角で気づいた。
「次はどこだ」
「奥だ」とエリアが言った。「二人は別の部屋にいる」
水路の音がついてくる。颯は診断ユニットのケースの重さを左手から右手に移した。
「年齢は」
「六十二と、四歳だ」
颯は足を止めなかった。「四歳」
「生まれたのはここだ」
「親は」
「いる」
それ以上聞かなかった。
廊下が幅広くなった。壁に棚が作られ、保存容器が並んでいる。手書きのラベルが貼られていた。日付と内容物。いちばん古いものは十七年前だった。
「六十二の方は」
「ヘインだ」とエリアが言った。「最初の七人の一人だ」
「ここに来た時に一緒にいた人か」
「そうだ」
颯は通路の先を見た。エリアの背中は動き方が一定だった。感情を出さない歩き方をしている。
「ミカとダルが生きていることを、ロストンの誰も知らなかったのか」
「ここに来たときに通信機が壊れていた」とエリアが言った。「修理はできなかった。部品がなかった」
「ロストンからの送信は聞こえていたか」
「断片的に。全部ではなかった。三年くらい前から聞こえなくなった」
颯はアルテの端末を確認した。ロストンの送信記録はまだ残っている。三年前のデータを探せば、エリアが聞いた頃のものが出てくるかもしれない。
「後で整理する」と颯は言った。
「何を」
「ロストンのログだ。あなたが最後に聞いた頃のデータを送る」
エリアは答えなかった。
ヘインの部屋に着いた。
扉は木材と金属を組み合わせた補修品だった。エリアが二回ノックして開けた。
部屋は狭かった。ベッドに老人が横になっている。白い髪。目は閉じている。呼吸は聞こえていた。壁には図が貼ってあった。手描きの配管図と、植物の育成記録。どちらも細かく、几帳面な線で描かれていた。
椅子に女が座っていた。四十代くらいに見えた。ヘインの手を両手で包んでいる。
「バオ、技師が来た」とエリアが言った。
バオは顔を上げた。目が腫れていた。「お願いします」
「診てから判断する」と颯は言った。
バオはすぐに立ち上がって場所を空けた。
颯は診断ユニットのケースを開いた。本体接続用の小型ユニットを出す。
「アルテ、スキャン開始してくれ」
「はい」
センサーがヘインの腕の上で光る。端末に数値が流れた。
クレより重かった。炎症反応が広範囲に出ている。代謝が落ちて、腎機能の数値が低い。神経系のスキャンには時間がかかった。
「全部分かるか」と颯は聞いた。
「スキャンの精度に限界があります」とアルテが言った。「主な原因は循環不全と慢性的な低栄養です。M-0144で対応できる範囲です。完治ではなく、安定化が目標になります」
「危険は」
「低くはありません。年齢と臓器への負荷を考えると、初期投与を半量にした方が安全です」
「効果は落ちるか」
「半分程度になります。ただし急変のリスクが下がります」
颯はヘインを見た。白髪の中に、かすかに日焼けの跡があった。この地下に来る前に、外で長い時間を過ごした人間の痕だ。
「半量で始める。反応を見て上げる」
バオが息を吐いた。椅子の背もたれが軋んだ。
颯はカートリッジを差し込んだ。投与量を調整して、M-0144本体に接続した診断ユニットを起動した。低い振動が小型スタンドから床へ伝わった。バオがその音を聞いて、背筋を伸ばした。
「最初は変化が小さい。三十分待つ」
「はい」とバオが言った。
「その間に四歳の子を診る。情報をくれ」
「ユイです。三週間前から熱が下がらなくて、一週間前から目が覚めなくなりました」バオは一息で言った。「母親は二年前に亡くなって、父親のカウが一人で面倒を見ています」
「熱の原因は」
「環境由来だと思います。水質の問題か、栽培区画の菌類か。断定できていません」
颯はアルテの端末に記録した。「ユイの部屋に連れていってくれ。端末はここに置いていく。変化があったら知らせてくれ」
バオはヘインを見た。それから颯を見た。一瞬、何かを計るような目をした。頷いた。
ユイの部屋はヘインの部屋から三つ先だった。
扉の前に男が立っていた。三十代。背が高く、腕が細い。肩の力が抜けていたが、目だけ開いていた。眠れていない人間の目だ。
「カウ」とエリアが言った。
男は頷いた。
「中に入っていいか」と颯は聞いた。
カウは手を出した。颯が握ると、指先が冷たかった。「お願いします」
部屋に入った。
ユイは小さかった。掛け布団が体の大半を覆っている。頬が赤い。呼吸のたびに、わずかに眉が寄っていた。
颯は診断ユニットのケースを床に置き、しゃがんで手を近づけた。体温を確認した。高い。クレやヘインとは違う症状だ。
「アルテ」
「はい」
「スキャンしてくれ。データはクレとヘインのものと分けて管理する」
センサーをユイの近くに置いた。カウが壁際に立っていた。
数値が出た。
「高熱の原因は感染症です」とアルテが言った。「栽培区画の菌類の胞子による気道感染と考えられます。免疫反応が過剰になっています。抗感染のカートリッジで対応できます」
「吸入式に変換できるか」
「変換アダプターがあれば可能です。子どもへの気道投与はこちらの方が負担が少ない」
「持っていない。作れるか」
「設計図はあります。ここの施設で加工できる材料があれば」
颯はエリアを見た。
「加工室はある」とエリアが言った。
「案内してくれ」
加工室は栽培区画のさらに奥にあった。旧連邦規格の小型旋盤と、手工具が並んでいた。工具は全部、使い込まれている。
アルテが設計図を端末に出した。変換アダプターの形状は単純だった。アルミニウム系の素材を十分ほど削れば作れる。
エリアが素材を棚から出した。颯はノギスで寸法を確認した。旋盤を試運転した。振動が大きかったが、精度は出そうだった。
「二十分かかる。戻っていてくれ」と颯は言った。
エリアは動かなかった。
「待つ」
颯は旋盤を調整した。エリアが棚に寄りかかって腕を組んだ。加工室の空気は金属の匂いがした。
「ミカはどこにいる」とエリアが言った。
「ロストンの補給基地にいた。医療の専門家たちと一緒に動いていた」
「変わっていないか」
「面識がない。颯が最初に会ったのがロストンだった」
エリアは黙った。
「ダルは」
「同じ場所にいた。技術チームで動いていた」
「そうか」
旋盤の音が続いた。削り屑が床に落ちた。颯は切削の速度を少し上げた。
「二人はここのことを探していたか」
「ミカが南東方向の生存者の話をしていた。詳細は知らない」
「伝えていたんだ」
颯は手を止めずに答えた。「二十六年、ずっとここにいたのか」
「ここに来てから、出ていない」
「選んだか」
「患者が増えて、出られなくなった」エリアの声は平坦だった。「最初から出るつもりはなかったかもしれない」
旋盤が一定の音を出した。颯は寸法を確認した。あと少しだ。
「ミカとダルは、あなたが生きているとは思っていなかったと思う」と颯は言った。
「分かってる」
「送信文には、それを含める」
エリアは答えなかった。
削り作業が終わった。アダプターを取り外し、M-0144のカートリッジとの接合を確認した。合った。
「戻ろう」と颯は言った。
エリアが腕を解いて立った。
ユイへの投与は静かに終わった。
吸入式のアダプターを通じて、薬剤が霧状に広がった。ユイは途中で目を開けた。焦点は合っていなかった。カウが娘の手を握った。
「今夜中に熱が下がり始めると思います」とアルテが言った。「明日の朝に再測定が必要です」
カウが颯を見た。「続けられますか」
「明日も来る」
カウは颯の顔を見ていた。それから、視線を娘に戻した。「ありがとうございます」
颯は頷いた。
ヘインの部屋に戻った。
バオがまだ椅子に座っていた。端末の数値を見ていた。
「変化は」
「上がりました」とバオが言った。「少しだけ。でも分かります」
颯は端末を確認した。循環系の数値が動いていた。半量投与で効果が出始めている。
「もう半分を追加する。反応を見てから決める」
「はい」
颯はM-0144の設定を調整した。追加量を入力して、投与を再開した。
「ヘインさんが悪化し始めたのはいつからか」
「二ヶ月前から急に」とバオが言った。「それまではちゃんと歩いていました。水路の水質が変わったかもしれないとヘインさんが言っていました。植物の根が伸びすぎて、水路に何か混入したかもしれないって」
颯はアルテに端末で連絡した。
「水質データを環境由来の仮説と照合してくれ」
「エリアさんから水質データを受け取り次第開始します」
「水路の水質データはあるか」と颯はエリアに聞いた。
「ある。後で渡す」
「頼む」
診断ユニットが低く振動していた。颯は端末で治療ログをまとめた。三人の患者のデータ。投与量、反応速度、次のステップ。
アルテが端末に送ってきた。「クレの状態は安定しています。次の投与まであと一時間」
颯は時間を確認した。地下に夜があるとすれば、もう夜の時間帯に入っていた。
「今夜はここに泊まっていってください」とバオが言った。
颯は答えなかった。
「出て行かれると困るのは私たちで。でもそういう意味じゃなくて」バオはヘインの手を見た。「ヘインさんが目を覚ましたとき、あなたがいた方がいい気がします」
颯はM-0144の表示を見た。ヘインの数値が少しだけ上向いていた。
「分かった」と颯は言った。
夜の時間帯、水路の音がゆっくりになった気がした。照明が低くなる。人の声が減る。
颯はエリアが用意した小さな部屋にいた。ベッドは硬かった。端末でロストンへの送信文の下書きを作った。
宛先はミカ、ダル。内容は短くした。
エリアは生きている。百八十六人の集落を率いている。M-0144による治療を開始した。
それだけにした。
返信用のプロトコルも付けた。この施設の受信機で受けられる周波数に合わせる。アルテが計算した。
「送信準備ができました」
「送れ」
「送りました。返信が来るまで数日かかる可能性があります」
颯は端末を置いた。壁の継ぎ目を見た。岩と金属と植物繊維。百八十六人が二十六年かけて作った場所だ。
ドアをノックする音がした。
「入っていいか」
エリアの声だった。
「どうぞ」
エリアが入ってきた。手に小さな容器を持っていた。「植物から作った。飲める」
颯は受け取った。温かかった。飲むと、草の香りと、わずかに甘い味がした。
「ロストンへの送信は」
「終わった」
エリアは部屋の入口に立ったままだった。「短くしてくれたか」
「短くした」
「ありがとう」
颯は容器を持ったまま、エリアを見た。
エリアは壁を見ていた。「二十六年、返事を書かなかった」
颯は何も言わなかった。
「聞こえていた送信に、返事をしなかった。壊れた通信機のせいだけじゃない」
「続けなくていい」
「続ける」とエリアが言った。「ここに来た時に、外のことを全部終わらせようとした。病人が増えて、食べ物を確保して、百八十六人が今日を生き延びることだけで全部が埋まった。それで精一杯だった」
颯は容器の温かさを確認した。
「でも、ミカとダルが生きているなら」とエリアが続けた。「終わっていなかった」
「そうだ」と颯は言った。
エリアはそれきり何も言わなかった。
少しして、「おやすみ」と言って出ていった。
扉が閉まった。
颯は容器を飲み切った。
アルテからの通知が来た。「ヘインの体温が少し下がりました。バオに伝えました」
「分かった」
「ユイの熱も、緩やかに下がっています」
「クレは」
「起きています。水を飲みました」
颯は端末を置いた。地下の夜は音が静かだった。換気ファンだけが動いていた。
外には宙域が広がっている。ロストンがある。アステルがある。まだ名前を知らない場所もある。
颯は目を閉じた。
今日だけで三人を診た。まだ安定していない。明日も来る。
颯は診断ユニットのケースの蓋を閉めた。夜の底で、ヘインの呼吸はまだ細かった。
面白かったら評価・ブックマークお願いします!!作者のモチベがアップします!!




