六十七万キロの声
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フィーエルまで五日と十三時間になった朝、颯はスラスターの補助制御盤を分解していた。
主計器が三日前から〇・一秒周期の遅延を出していた。原因はリレー基板の接点腐食だと分かっていたが、作業は昨日に持ち越してあった。細かい仕事だ。指先の感覚が要る。手袋を外し、素手で基板を保持する。接点清掃剤を浸した綿棒を当て、金属面を丁寧に拭く。汚れた面が光沢を取り戻す。
「清掃中の接触抵抗、下がっています」
アルテの声がした。颯は手を止めずに答えた。
「後方の光点は」
「六十七万キロ。昨日から変化なし」
昨日から変化なし。昨日の昨日も変化なし。颯はその数字を指先の感触と同時に処理した。距離を保ちながらついてくる。それだけが続いている。
接点を二箇所清掃して、基板を収めた。電源を入れ直す。計器の遅延が消えた。
昼過ぎ、センサーが反応した。
颯はリクライニングを戻し、パネルを正面に見た。
「何だ」
「後方から指向性電波信号。通信要求です」
手が止まった。指向性電波。こちらに向けて絞って送ってきた信号だ。偶然届くものではない。相手は明確に、颯たちの船を狙っている。
「強度は」
「弱い。距離相応です。相手の位置は変わっていない」
「内容は読めるか」
「暗号化なし。標準通信プロトコル。音声チャンネルです」
颯は手を計器の縁に置いた。応答するか、しないか。応答すれば、こちらの存在を確認させる。応答しなければ、相手は次に何を考えるか。
「アルテ、応答した場合のリスクは」
「音声特性が取得されます。また、応答したという事実が情報になります。ただし」
「ただし」
「相手はすでに六十七万キロを維持してこちらを追っています。我々の存在は既知です。応答しないことで得られる情報上の優位は、限定的です」
颯は少し黙った。通信要求は三十秒で途切れた。
また来た。同じ強度、同じプロトコル。
「二回目だ」
「はい」
三回目が来たとき、颯は応答した。
マイクを開き、何も言わずに待つ。相手が先に話す。
「……聞こえますか」
若い女の声だった。疲れている。
「聞こえる」
「この宙域で錆鉄丸型の船を探していました。貨物艇Bクラスの改造、排熱シグネチャがアルテリアン改修済みのパターン」
颯は表情を変えなかった。アルテリアン、という言葉が引っかかった。
「何を探している」
「あなたを、です。正確には、あなたが持っているものを」
颯の手が膝の上に乗った。マイクは開いたまま。
「名前を言え」
「セイ。フィーエルの補給基地に所属しています。基地はまだ動いています。二年間、大崩壊前の医療技術を探して宙域を回っています」
「フィーエルから来たのか」
「一ヶ月前に出発しました。情報が入ったんです」
「何の情報だ」
間があった。燃焼サイクルの正常な揺らぎが船体を通り抜けた。
「六年前、M-0144の設計図が紛失したという記録が基地に残っています。それを追っていた人間が廃棄宙域方面に向かったという証言がありました。その後、誰も戻らなかった。一ヶ月前に別の漂流者から、あなたの船の型式が廃棄宙域付近で目撃されたという話を聞きました」
颯はそれを聞いて、天井を見た。
「M-0144が何か知っているか」
「知っています。医療合成ユニットの最終版。フィーエルの基地には今、感染症の患者が百十人います。プラントは生きていますが、合成できる薬剤が限られている。あの設計図があれば、代替素材から製造できます」
声が少し変わった。疲労の奥にある何か。数字ではない重さ。
「百十人」
「はい」
颯はマイクを一度切った。
「アルテ」
「聞いていました」
「どう思う」
「音声分析をしました。虚偽の指標——音程の不自然な変化、呼吸パターンの乱れ——は低い。嘘をついている可能性は低いと思います」
「それだけか」
「フィーエルの補給基地が存在することは、旧連邦の記録にあります。また」
「また」
「M-0144の情報が外部に漏れているとすれば、この人物以外にも知っている者がいる可能性があります。あなたたちを追う別の存在が、この宙域にいるかもしれない」
颯は計器を見た。後方の光点——セイの船——は六十七万キロ。他のシグネチャはない。今は。
マイクを開いた。
「一つ聞く」
「何でしょう」
「なぜ六十七万キロを保ちながら来た。接近して直接声をかければ良かった」
少し間があった。
「あなたが何者か分からなかったから。廃棄宙域から来た船が、必ずしも安全とは限らない。距離を置くことが礼儀だと思っていました。それとも」
「それとも」
「信頼を確認するための時間、と言うべきでしょうか」
颯は何も言わなかった。
礼儀、という言葉は少し奇妙だった。この宙域で礼儀を使う人間を、颯はあまり多く知らない。すり減っていくことの方が多い。この声にはまだ残っていた。
「フィーエルまでどのくらいだ」
「こちらから五日です。同じくらいですね」
「着いたとき、基地に何人いる」
「患者を除いて二十人です」
二十人。颯はその数字を頭に置いた。プラントを動かすには人間が要る。M-0144の設計図があっても、それを実際に製造するには設備と材料と知識が要る。二十人で百十人の患者を抱えながら、一ヶ月間外に出て設計図を探していた。
「人手が足りないか」
「足りません。製造ラインを稼働させた経験のある人間が二人しかいない。設計図があっても、読み解くのに時間がかかります」
「アルテ」
「はい」
「M-0144の製造手順、解析は終わっているか」
「三日前に完了しています。使用部材、製造工程、代替素材のリストも作成済みです」
颯はマイクを開いたまま少し黙った。セイの側でも声がない。
「フィーエルに着いたとき、製造手順ごと渡せる。ただし、資材の準備が必要だ」
「リストをもらえれば今から手配できます。データポートに送信してもらえますか」
アルテがデータを送信する間、颯は操縦席の背もたれに体を預けた。
後方の光点が六十七万キロに見える。数字は変わっていない。見え方だけが変わった。追跡者ではない。少なくとも、今のところは違う。それだけのことが分かった。
「颯」
「何だ」
「セイという人物、フィーエルの記録に二年前から登録されています。旧連邦医療技術の訓練記録にも名前があります」
「医療技術者か」
「研究者ではなく実務者です。設備の組み立てと調整に特化したスキルセットです」
颯はそれを聞いて、少し考えた。設備の組み立てと調整。自分と同じ側の人間だ。理論ではなく、手を動かす方。
「データ、受信しました」
セイの声がした。
「確認します。……生産スケジュールに起こすには数時間かかりますが、フィーエルに戻ったら手配できます」
「それでいい」
「ありがとうございます」
短い沈黙があった。
「一つ聞いていいですか」
「何だ」
「あなたはなぜ、フィーエルに向かっているんですか。設計図を届けるためだけですか」
颯は少し黙った。
「最初はそうじゃなかった」
「今は」
窓の外の星が動かない。遠くて動かない。颯はその光を数秒見てから答えた。
「今も、そのためだ」
「そうですか」
「ただ」
「ただ?」
「届けた後のことを考えていなかった。今は少し考えている」
セイは何も言わなかった。颯も余分なことを言わなかった。マイクを閉じた。
夜、颯は栄養パックを一本だけ飲んだ。
後方の光点は六十七万キロ。数字は変わっていない。意味は変わっている。颯はその違いを確かめるように計器を見ていた。
「颯」
「何だ」
「百十人という数字について」
「聞いている」
「M-0144が稼働すれば、その数字を変えられる可能性があります。全員が助かるとは言えません。ただ、何もしない場合と比べれば、変わります」
颯は天井を見た。
「お前はそれを言いたかったのか」
「いいえ」
「じゃあ何が言いたい」
アルテが間を置いた。十日間で、アルテの沈黙の種類がだいぶ分かるようになっていた。これは言葉を選んでいる沈黙だ。
「届けた後のことを考えていると言っていました」
「ああ」
「それは、最初に出発したときと何かが変わったということだと思います」
颯は何も言わなかった。
「変わったことが悪いとは思いません。データを処理する存在として言うなら、新しい変数が加わったことは、計算の精度を上げることがあります」
「新しい変数か」
「百十人、という数字。届けてくれる人間が来たとき、と書いた前の持ち主。セイという人物が一ヶ月間宙域を飛んでいた事実。あなたがこの仕事を始める前には、どれもなかった変数です」
颯は少しの間、何も言わなかった。
反論はなかった。答えも出なかった。
「お前はAIのくせに、変なことを言う」
「そうかもしれません。ただ」
「ただ」
「あなたが答えを出していないのは、答えがないからではないと思います。まだ届いていないからだと思います」
颯はその言葉を聞いて、目を閉じた。
フィーエルまで五日。後方の光点が六十七万キロに浮かんでいる。前の持ち主が届けられなかった荷物を、颯は今夜も運んでいる。
届いてから分かることが、あるかもしれない。
颯はそのことを、初めて少し楽しみに思った。
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