緑の座標
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錆鉄丸は出力を絞って巡航に入っていた。
航行七日目だった。ロストン・プロスペクトの岩は三日前に視界から消えた。前方は何もなかった。暗さと星だけだった。
颯は機関室の床に座って、電源フィルタのハウジングを分解していた。
右舷の第二フィルタが熱を持っていた。ロストンを出た翌朝から気になっていた。温度差は基準値の上限ギリギリだったが、放置すると焼き付く。十四日の巡航中に焼けたら面倒だった。分解するなら今のうちだった。
「異物です」とアルテが言った。「冷却溝の三番目に繊維状のものが詰まっています」
「何の繊維だ」
「旧連邦の断熱材に由来する素材と一致しています。ロストンの格納庫の床材が劣化していて、そこから混入した可能性があります」
颯はピンセットで詰まりを取り除いた。直径一ミリに満たない繊維が三本、固まって詰まっていた。
「格納庫の床材か」と颯は言った。「あそこは二十年使われていなかった」
「劣化は相当進んでいます。ミカさんたちも補修の必要性は分かっていると思いますが、材料がない」
颯はハウジングを組み直した。締め付けトルクを確認するとき、計器パネルに置いていたダルのトルクレンチを手に取った。刻印が指の腹に当たった。旧連邦の製造番号だった。
「このトルクレンチ、ちゃんと使える」と颯は言った。「精度が狂っていない」
「適切に保管されていた証拠です」とアルテが言った。「ダルさんは工具の管理に丁寧な人です」
颯はトルクレンチをベルトホルダーに収めた。フィルタの温度を確認した。安定していた。
ブリッジへ戻ると、アルテが航路データを展開していた。
「ミカさんから受け取った座標の解析が進んでいます」
「何が分かった」
「ミカさんが参照していた通信記録は旧連邦崩壊前、八年間分です。その中に『緑化実験地点』という記載が二件ある。いずれも南東方向の宙域で、座標の誤差範囲が一致します」
「緑化実験」
「旧連邦後期に、各コロニーで環境工学の試験プロジェクトが行われていた記録があります。主に密閉型の生態系構築。廃墟惑星や小天体の内部空間に植生を作り、居住環境の整備を試みていた」
颯は星図を見た。目的地の周辺は特に何もない領域だった。近傍に大きな恒星もなく、小惑星帯の端部に近かった。
「コロニーが今も続いているとすれば、エネルギーはどうしている」
「小型の地熱発電か、太陽光の蓄積系か。私には判断できません。到着して計測しないと分からない」
「通信は出ているか」
「現時点では検出できていません。ただし意図的に出力を絞っている可能性があります。ロストンも、外からでは存在が分からなかった」
颯はパネルに肘をついた。ロストンに近付いた日のことを思った。岩の表面に光が一点漏れていた。それが最初の手がかりだった。今回はどんな形で見つかるか、あるいは見つからないか。
「エリアという人物に関する記録は」
「旧連邦のデータには名前が出てきません。ミカさんの証言にだけ出てきます。コロニーのリーダーで、外部との接触に慎重だ、と」
「慎重というのは、どの程度だ」
アルテが少し間を置いた。
「通信に応答しない可能性があります。近付きすぎると警戒される可能性もある。ロストンの場合はミカさんとダルさんが積極的に接触してくれましたが、同じ展開になるとは限りません」
颯は計器パネルの端を指で叩いた。
「M-0144を持っていく理由を先に伝えられないか」
「送信できます。ただし受信している保証がない。送りっぱなしになる可能性があります」
「それでも送る」と颯は言った。「到着七日前から、一日一回。内容はシンプルにする。医療機器を持っている。接触を求めている。それだけだ」
「分かりました。文案を作ります」
航行十日目の夜、颯はブリッジのシートで目を覚ました。
眠るつもりはなかった。計器の更新を待っていたはずだった。
アルテが静かに声をかけた。
「起こすのを迷いました」
「何かあったか」
「微弱な信号です。南東方向から。断続的な発信で、暗号化されていませんが変則的なパターンです」
颯は上体を起こした。信号のデータを出させた。周期は不規則だった。単純なノイズではなかった。
「人工信号か」
「高い確率でそう判断しています。旧連邦の識別コードに似た構造が含まれていますが、完全には一致しない。改変されている可能性があります」
「応答できるか」
「信号の形式に合わせた返信を組める。ただし、彼らが何を意図して送信しているか、現時点では不明です」
「こちらが存在していることを示すだけでいい」
「了解しました。最小限の応答を組みます」
颯は待った。送信が完了した。
しばらくして、向こうから変化はなかった。信号の周期が変わらなかった。颯は再びシートに体を預けた。眠れなかった。
到着三日前。
目的地の方向から電磁気的な放射が検出され始めた。
「生体由来の成分が含まれています」とアルテが言った。
「生体」
「光合成に関係する反応です。植物が代謝を行う際に生じる微細な電磁波のパターンと一致します」
颯はデータを見た。範囲は広かった。点ではなく面だった。
「大きな規模の植生がある」
「推定では、直径三百メートル以上の閉鎖型生態系が複数存在する可能性があります。旧連邦の緑化実験プロジェクトのスケールと矛盾しない」
颯はブリッジの計器を見回した。船体の各部は正常だった。エンジンは安定していた。フィルタの温度も問題なかった。
「アルテ、ミカから受け取った記録にあった『緑化実験地点』の記述、詳しく出してくれ」
アルテが文書を展開した。崩壊前の旧連邦が作成した内部報告書の断片だった。文字が一部欠落していた。
「『Ⅲ号基地より南東三十度に位置する候補地は、内部空間の規模と熱源の安定性において最も有望と判断される。試験体の移植は完了済み。定期観測の継続を推奨する』とあります。それ以降の記録は欠損しています」
「Ⅲ号基地というのは」
「フィーエルの旧連邦施設に使われていた名称系列と一致します。フィーエルから見た方向も一致する」
颯は星図を確認した。推定位置を重ねた。点が近付いていた。
到着一日前。
目的地の正確な形状が見えてきた。
小天体だった。直径は二キロメートル前後。自転は遅い。表面はほぼ岩石だったが、一か所だけ放射スペクトルが異なる区画があった。
「構造物です」とアルテが言った。「岩の表面に建造物が密着している。外からは判別しにくいが、内部空間があります」
「電力反応は」
「あります。微弱ですが継続している。小型の発電設備が稼働中と判断しています」
颯は速度を落とした。出力を最小限にした。存在を示すことと、威圧することは違う。
「もう一度、音声送信してくれ」
「何を送りますか」
「同じ内容だ。医療機器を持っている。接触を求めている。敵意はない。それだけだ」
アルテが送信した。
沈黙が続いた。十分。二十分。颯はエンジンの出力を落としたまま、小天体の軌道に近づきながら待った。
返信はなかった。
「距離はいくらになった」
「百二十キロメートルです」
「このまま保持する。急がない」
「了解です」
颯は小天体の影を見た。岩肌に光が当たっていない面は完全な暗だった。それでも構造物の区画だけ、わずかに反射が違った。誰かがいる。それは分かった。
「アルテ」
「はい」
「旧連邦の緑化実験プロジェクト、成功した例はデータにあるか」
「ほとんど未完に終わっています。崩壊前に中断されたものが大半です。ただし、一件だけ——記録の最後まで継続していた実験地があります。場所は今の座標と一致しません。別の宙域です」
「でも、それが成功した」
「『植生の自律維持が確認された』という最終報告があります。そこで終わっています。その後の記録はない」
颯は小天体を見た。二キロメートルの岩塊だった。人が住める場所には見えなかった。
でも今、その内部で何かが育っている。何十年も育ち続けてきた。
「待つ」と颯は言った。
「はい」とアルテが言った。
三十八分後、通信機が反応した。
音声ではなかった。数値の羅列だった。アルテが即座に解析した。
「旧連邦の座標伝達フォーマットです。内容は——進入許可点の指定です。小天体表面の特定座標に来るよう、指定されています」
颯は数値を確認した。
「一か所だけか」
「一か所です。それ以外の領域への接近は示唆されていません」
颯はエンジンを入れた。出力は最小のままにした。指定された座標に向かって、ゆっくりと移動を開始した。
「アルテ、M-0144のデータシートを翻訳して待機させてくれ」
「済んでいます」
「錆鉄丸の構造と目的も、聞かれたら答えられるようにしてくれ」
「準備できています」
颯は小天体の表面が近づくのを見た。岩の凹凸が細部まで分かるようになってきた。指定座標の付近に、かろうじて判別できる大きさのハッチが見えた。
旧連邦の設計に見えた。造りが古かった。
でも、動いていた。緑の座標は、次に船を向ける理由になり始めていた。
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