方位一定
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朝の打ち合わせ室には折りたたみ式のテーブルが一台あった。
イグニスとマリエが先に来ていた。マリエは壁際の端末に向かって何かを入力していた。イグニスはテーブルに紙を広げていた。生産ラインの図面に書き込みが入っていた。昨晩だけのものではない——書き込みの密度を見れば分かった。
「昨日遅くまで作業していたか」と颯は言った。
「ダールが」とイグニスは言った。「俺はここにいた」
マリエが端末から離れた。手に帳面を持っていた。
「患者の現況から始めます」と彼女は言った。「現時点で、M-0144の治療を受けている患者は四十三名。そのうち三名が昨日新たに加わりました」
「北区画の七名は全員入れたか」と颯は聞いた。
「六名です。一名は症状が進んでおり、今日の午後に追加の評価を行います」
「問題がなければ今日中か」
「今日中に開始します」
マリエが帳面にペンを走らせた。颯は紙の向こうにイグニスを見た。
「生産ラインは」
「今日から第三工程の試験を始める」とイグニスが言った。図面を指先で叩いた。「ダールが昨晩、旧工具を使った動作確認をした。アリスの言った通りだった——許容範囲を○・一ミリ広げても精度は出る。現物で確認が取れた」
「試験に何が必要だ」
「素材の供給が一つ。今日は小ロットで動かして、出力の数値を見る。問題がなければ明日から本格稼働に移せる」
「問題が出た場合は」
イグニスが一瞬間を置いた。「もう一日かける」と言った。「手順は決まっている。時間の問題だ」
颯はそれ以上聞かなかった。
「輸送スケジュールについて」とアルテが端末から言った。颯の手元に置いた端末のスピーカーから声が出ていた。「フィーエルへの次回補給便が来月初旬の予定です。その便に今回の生産分を積み込む場合、今週末までに数量を確定する必要があります」
マリエが帳面から顔を上げた。「今週末で、どれだけ出せますか」
「第三工程が今日中に安定すれば」とイグニスが言った。「週末までに十から十二台」
「治療中の患者への分は確保できるか」
「三十台の在庫がある。治療分は別枠で確保している」
マリエが数字を書き留めた。「十二台を輸送に回せるなら、フィーエルの待機患者に届けられます」
打ち合わせは三十分で終わった。イグニスが立ち上がった時、足元の砂が鳴った。現場の人間の靴だった。
生産棟は坑道を二本挟んだ先にあった。机と工具台と作業台が並んでいて、旧連邦の製造設備が半分残っている。もう半分はアステルが独自に改造したものだった。天井が低く、照明が作業台の真上だけに集中していた。
ダールが第三工程の台の前にいた。三十代半ばの男で、イグニスの右腕だった。旧工具を並べて、順番に手に取って確認していた。
「颯さん」とダールは言った。振り返らないまま声をかけた。「昨日の工具——前の作業場がどこか分かりますか」
「中継所の格納庫だ。棚に整理されていた」
「使われていた跡がある。摩耗のパターンが特定の作業工程に偏っています」
「旧連邦の整備員が使っていたのかもしれない」とアルテが端末から言った。「工具の製造年号と中継所の建設記録から見ると、設置当初からあった可能性が高いです」
ダールは工具を一本持ち上げた。光に当てて角度を変えた。
「六十年以上前の工具か」
「おそらく」
「動く」とダールは言った。「昨日確認した。問題はない」
颯は作業台の端に立った。第三工程の機器は複雑ではなかった。旧連邦の標準設計に従っている。アルテが事前に図面を出していたから、颯にも見当がついた。
「何から始める」
「素材を入れます」とダールが言った。「最初の一回は俺が全部やります。見ていてください」
ダールが素材をセットした。段取りを一つ一つ確認しながら進めた。手順に無駄がなかった。覚えた手順ではなく、理解した手順だと颯には分かった。
機器が動き始めた。小さな音が続いた。ダールの呼吸が一定になった。
「一工程目、基準値内です」とアルテが声を出した。「二工程目、誤差○・○三ミリ。許容範囲内です」
ダールは工具を持ち替えた。旧工具に切り替えた。握り直した。
機器の音が少し変わった。より細かい作業に入ったらしかった。岩盤の内側にいるため振動がなく、作業音だけが静かに続いた。
「ここです」とダールは言った。「昨日まで精度が足りなかった部分です」
作業台の上で部品が動いた。ダールの手が角度を合わせた。数値が出た。
「○・○○九ミリ」とアルテが言った。「基準値の範囲内です」
ダールが手を止めた。
数秒、何も言わなかった。周囲の音が止まった。
「出た」と、静かに言った。
颯はダールを見た。ダールは部品から目を離さなかった。
「アリスの言った通りだ」とダールは続けた。「工具が正しければ出る。最初からそういう設計だったんだ——工具込みで」
「六十年前の整備員も、同じ工具を使っていたわけだ」
ダールがようやく颯を見た。少しだけ口元が動いた。
「この仕事に必要なものが、六十年間そこにあったのか」
颯は何も言わなかった。
ダールが部品を台に戻した。工具を手に取って、また光に当てた。摩耗の跡を指の腹で確かめていた。
午後になった。
颯は病棟の前の廊下を通った。声が聞こえた。患者の声と、医療スタッフの声が重なっていた。
一室の扉が開いていた。中に二人の患者がいた。一人がベッドに腰をかけて、もう一人が椅子に座っていた。話していた。何を話しているかは聞こえなかった。
颯は通り過ぎた。
マリエが廊下の先から歩いてきた。
「六名目、今朝から始めました」と彼女は言った。「七名目は今日の午後の評価で問題がなかったので、三十分前に開始しました。全員そろいました」
「昨日退院したガリナは」
「家族の元に戻りました。連絡先を登録してあります。定期的に確認します」
颯は廊下の壁を見た。岩盤の削り出しに、荷物を固定するフックが並んでいた。以前は資材置き場だったらしく、フックの間は空だった。
「家族はアステルにいるのか」
「夫が採掘班にいます。息子が二人、補修作業班に」
「会えたか」
「昨日の夜、食堂で」とマリエは言った。少し間があった。「私は離れたところから見ていましたが——何も言わなかったようです。ただ座っていました。全員で」
颯は何も言わなかった。
マリエが次の病室の方へ歩いて行った。颯はしばらくその場に立っていた。フックの並ぶ壁を見ていた。
夕方、生産棟に戻った。
第三工程の台で、ダールの他に二人が作業していた。イグニスも来ていた。壁際に立って、腕を組んで見ていた。
「どうだ」と颯は聞いた。
「三台目まで出た」とイグニスは言った。「全部基準値内だ。明日から本格稼働に入る」
「週末までに十四台はいけると思います」とダールが作業しながら言った。「素材の供給が続けば」
「素材はどのくらいある」
「今の在庫で二十台分」とイグニスが言った。「炉の移設が完了したら、精錬の効率が上がる。来月末には三十台分の追加供給が見込める」
颯は生産台を見た。ダールの手が動いていた。旧工具が光に当たった。
「フィーエルへの輸送便は来月三日だとアルテが言っていた」
「そうだ。補給船の船長には話を通してある。積み込みの許可が出た」
「台数は」
「十四台を出せたとして、うち二台を予備として残す。十二台をフィーエルへ」
颯はしばらく黙っていた。計算した。フィーエルの患者数、現在の治療状況、フィーエルが持っているM-0144の在庫。
「セイに連絡を入れる。受け入れ準備をするように」
「頼む」とイグニスは言った。
ダールが部品を台に置いた。四台目に取りかかった。手順を繰り返した。
夜、船に戻った。
アルテが端末に向かっていた。颯が席に座ると、画面に数字が並んだ。
「第三工程の試験結果が出ました」とアルテが言った。「全ての計測値が基準値内に収まっています。イグニスは明日から本格稼働に移ると言っています」
「聞いた。フィーエルのセイに連絡を入れてくれ。来月三日の便で十二台を送る。受け入れ準備を頼むと」
「了解しました。今夜中に送ります」
颯は端末の画面を眺めた。数字の並びが落ち着いていた。予定通りに進んでいた。
「アルテ」
「はい」
「通信の件。フィーエルに転送した六座標、セイから何か言ってきたか」
「昨日、受信確認の返信が来ています。座標の分析を始めたと。次の連絡は一週間後か、あるいはもう少しかかるかもしれません」
颯は窓の外を見た。坑道の外壁が暗かった。
「他に受信したものはあるか」
アルテが少し間を置いた。
「一つ、確認したいものがあります」と言った。
「何だ」
「三日前から、特定の周波数帯に断続的なノイズが出ています。パターンが不規則ですが——完全なランダムではありません」
颯は端末を見た。アルテが波形を出した。細い線が上下していた。規則性があるとも、ないとも取れた。
「自然現象か」
「岩盤の磁気ノイズではありません。周波数の選択が、旧連邦時代の通信帯域に近い」
「人工的なものか」
「判断できません」とアルテは言った。「ノイズとも取れます。ただ、発信源の方位が一定です。毎回、同じ方向から来ています」
颯は波形を見た。上下の幅は小さかった。数秒ごとに揺れていた。
「方位は」
「アステルから見て、南南東。今の航路マップに登録されていない方向です。フィーエルでも中継所の座標でもない」
颯は手帳を取り出した。南南東、と書いた。
「受信できた時間帯はいつだ」
「深夜から明け方にかけて。昼間はアステルの採掘機械のノイズに埋もれて確認が取れません」
「つまり昼間も出ているかもしれない」
「可能性はあります」
颯は手帳の文字を見た。南南東。どんな場所があるのか、今は分からなかった。
「もう少し様子を見ろ」
「はい」
「変化があれば起こしてくれ」
「了解しました」
颯は手帳を閉じた。
窓の外は暗かった。坑道の向こうに岩肌があった。その向こうに空があって、南南東の方向に何かがあった。あるいは誰かがいた。
それだけでよかった。今夜はそれだけでよかった。
端末の波形が静かに揺れていた。颯はそれを見ながら、明日の手順をもう一度頭の中で整理した。生産ラインの本格稼働、輸送準備の確認、フィーエルへの連絡。一つずつ片付ければいい。
信号が何なのかは、もう少し先に分かる。
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