手の記憶
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工作区画の朝は、金属の冷たさから始まる。
颯が台の上に骨格を置いた時、アリスはすでに設計書の三枚目を広げていた。カレンは素材箱の蓋を開けて、内部を手のひらで確かめていた。重さを確認しているのか、それとも別のことをしているのか、颯には判断がつかなかった。
「工程表の一節から入る」
二人が顔を上げた。
「まずアリスが設計書と照らし合わせながら配線を引く。カレンはトルクマニュアルを見て締め付けを担当する。俺は全体の監修に回る。一台目は止まっても構わない。不明点はその都度確認する」
アリスが頷いた。カレンは工具を手に取って、グリップの重さを確かめた。
「旧連邦の工具だ」と颯が言った。「通常のものより重い。重さで力加減を感知するための設計になっている。マニュアルに感覚の習熟段階が書いてある。最初から数値通りに締めようとするな。手が抵抗を感じる直前で止めて、端末で確認する。繰り返すうちに手が覚える」
カレンが工具を一度置いて、手を開いた。それからもう一度取り上げて、親指をグリップの端に当てた。手首を小さく動かした。角度を変えて、もう一度。
「試してみます」
「そうしろ」
最初の締め付け確認で、カレンは三回やり直した。数値は毎回わずかに違った。颯は何も言わず、端末の数値だけを見ていた。四回目で数値が基準範囲の中央に近い値を出した。カレンは手を離して、工具を見た。
「同じ力のつもりでした」
「感覚と数値はずれる。最初は必ずそうだ」
「四回目がなぜ近かったか分かりません」
「今は分からなくていい。感触だけ覚えておけ。五回、六回と積み重ねると、手がその感触を基準にし始める」
カレンがもう一度工具を握った。今度はゆっくり締めた。颯は端末に目を落とした。数値が上がって止まった。
「いいか」
「はい」
「続けろ」
アリスは隣で配線を引いていた。設計書と実物を交互に見て、指先で配線を折りながら位置を確認していた。迷っている様子はなかった。颯は時折アリスの手元を見たが、止める必要はなかった。
二時間半で一台目が仕上がった。
颯が検査端末を当てた。数値が順番に表示された。全工程で許容誤差の範囲に収まっていた。わずかに下端に寄っていたが、機能に影響しない水準だった。
「記録する。次の台で修正する箇所がある。アリス、配線ルートの三工程目を見てくれ。旧連邦の標準とは一カ所取り回しが違う。今回は問題なかったが、統一した方が後の検査が楽になる」
アリスが端末に打ち込んだ。
「二台目からそのルートにします」
カレンが自分の手を見ていた。作業で赤みが出ていた。颯はそれに気づいた。
「痛いか」
「痛くはないです。ただ、皮膚が工具に慣れていない気がします」
「二日目、三日目と続けるうちに変わる。今日の感触を言葉か図で記録しておけ。明日の基準点になる」
カレンは端末を取り出した。メモを打つ代わりに、右手のひらを広げて見た。それから目を細めて、一行だけ入力した。颯はその内容を見なかった。
昼を過ぎて、颯は医療区画に向かった。
橋本が廊下に立っていた。颯の顔を見て、すぐに中へ入るよう示した。
「昨日の夜から数値の傾きが変わりました」
区画の中は白かった。ヒデオはベッドの上で体を起こしていた。背中が立っていた。颯が入ると、ヒデオは右手を肩の高さまで上げた。震えはなかった。わずかな緊張が指先に見えたが、それは意識して動かすための緊張だった。
「今朝できるようになった」
「両手か」
「まだ左は感覚だけだ。動かすには時間がかかる」
橋本が端末を示した。折れ線グラフだった。三日前から直前までは水平に近かった線が、一昨日の夜から角度を持ち始めていた。急峻ではなかったが、方向が変わっていた。
「この段階の減薬プロトコルをアルテに確認しました」と橋本が言った。「旧連邦の文献では、この数値域に入ってから七日後に第一段階の調整を行っています。症例によって差がありますが、今のヒデオさんの経過は標準的です」
「他の患者は」
「三十四人のうち、十二人で同様の改善傾向が出始めています。ヒデオさんほど明確ではありませんが、数値の方向は一致しています」
颯はヒデオを見た。
「カレンには伝えたか」
「まだ今日は会っていません」とヒデオが言った。「俺の口から言うより、お前が数値ごと伝えてやれ。あの子はそういう伝え方の方が受け取りやすい」
颯は廊下に出た。工作区画に戻る前に入口でカレンに短く伝えた。午後のヒデオの数値が改善していること、右手が動いていること。カレンは颯の顔を見て、一回頷いただけだった。何も言わなかった。次の工程の準備に戻ろうとして、一瞬手が止まった。それだけだった。
午後三時、通信区画の扉を颯が開けた。
アリスとセイが向かい合っていた。ディスプレイには出力値と送信ログの画面が出ていた。
「準備は終わっているか」
「昨夜から整っています」とアリスが言った。「あとは送信するだけです」
颯はセイを見た。セイが端末を颯の方に向けた。旧連邦の通信規格で書かれた短文だった。識別コード、位置情報、存在確認のシーケンスが三行に並んでいた。
「これだけか」
「最初はこれで十分です」とアルテが言った。スピーカーは天井にあった。「過剰な情報は解釈の誤りを生む。相手が受信できる状態にあれば、旧連邦規格の信号は自動で認識されます」
「送ってくれ」
短い間があった。ディスプレイの出力値が一度上がった。それだけだった。
アリスが画面を見たまま動かなかった。セイは端末を閉じた。颯は壁を見た。送信の前と後で、区画の中は何も変わっていなかった。機械の音も、明かりの強さも。それでも何かが変わった気がした。颯がそれを言葉にする前に、アルテが口を開いた。
「送信は完了しました。応答があるとすれば最短で四十八時間後です」
「待つ」
颯は区画を出た。廊下は静かだった。
夕方、工作区画に戻ると、カレンが一人で作業していた。
二台目の初期工程だった。颯が入っても顔を上げなかった。工具を持った手が一カ所で止まっていた。颯は近づいて横に立った。
「どこで迷っている」
「止まっているのではないです。確かめています」
カレンが静かに工具を押した。端末を颯に向けた。
数値は許容範囲の中央より少し高いところにあった。一台目の時よりわずかに改善していた。
「昨日と今日で変わったか」
「変わりました」とカレンが言った。工具を見ながら言った。「朝よりも今の方が、どこで止めるかが分かります。昼に一回手を離して、そこからです」
「三工程目まで続けろ。俺が見ている」
カレンは続けた。颯は横で黙っていた。三工程目の終わりで、カレンが工具を置いた。颯が端末を当てた。
全工程で許容範囲に収まっていた。一台目より安定していた。
「よし」
それだけ言った。カレンは次の工程の準備を始めた。颯は工程表に目を落とした。一台目と二台目の数値を並べて確認した。傾向が同じ方向に向いていた。
夜、颯は錆鉄丸のシートに座っていた。
アルテの解析ウィンドウが橙色に光っていた。アステルへの送信ログが画面の端に残っていた。
「今日の製造は二台完成しました」とアルテが言った。「アリスとカレンの工程精度は、初日として標準的な習熟速度に収まっています。このペースが続けば、一週間で五台前後の見込みです」
「ヒデオの数値は」
「橋本から午後の報告が来ています。減薬プロトコルの第一段階を今週中に実施する方向で進んでいます。三十四人中十二人で改善傾向が出始めています」
颯はコンソールを見た。橙のランプが低く光っていた。
「アステルへの信号は」
「まだ分かりません。四十八時間は最短推定です。今夜も受信側の信号は継続しています。内容に変化はありません」
颯は窓の外を見た。フィーエルの夜に星が見えた。どれがアステルの方向か分からなかった。
「前の持ち主が届けられなかった設計図は、六年間、誰も知らないまま排熱ダクトにあった」
「そうです」
「あの人が向かっていたのが、アステルだったかもしれない」
アルテが少し間を置いた。
「可能性はあります。フロンティア区分の形式コードは、前の持ち主が行動していた時代と一致しています」
颯は何も言わなかった。しばらく窓の外を見ていた。エンジンの低い振動が座席から伝わった。錆鉄丸は動いていなかった。
「届かなかったものが、六年後に違う形で届こうとしている」
「はい」とアルテが言った。それだけだった。
工作区画でカレンの手が工具の重さを覚えていった一日と、ヒデオが肩の高さまで手を上げた瞬間と、宙に向けて送り出した三行の信号が、颯の中で一本の線になった。断片ではなかった。同じ方向を向いていた。
応答はまだなかった。颯は待つことを迷わなかった。窓の外の星のうち、一つがアステルの方向にあるはずだった。分からなくても、そこに光があることは確かだった。
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