起動の朝
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診断端末のランプが橙から緑に変わったのは、翌朝の五時二十分だった。
颯はシートの背もたれを倒したまま目を開けた。眠っていたのか眠っていないのか、自分でも境界が分からなかった。ランプの色が変わる瞬間を、音ではなく光の変化として瞼の裏で感じた。
「颯。診断プロセス、全十四工程が完了しました」
アルテの声が工作区画に響いた。壁の亀裂から差し込む外気が夜明け前の冷気を運んでいた。区画の外はまだ暗かった。
「結果は」
「全項目、設計値の正常範囲内です」
颯は上体を起こした。端末に近づいた。数値が縦に並んでいた。一行目から順に目を走らせた。冷却ループの循環圧、駆動モーターの位相整合、診断ソフトウェアの自己照合、電源変換効率、出力安定性——十四項目が整然と並び、それぞれの数値の右側に「NORMAL」の文字が続いていた。
颯は一度端末から目を離し、M-0144の本体を見た。作業台の上に固定されている。昨日まで部品だったものが、今は一つの機械として形を持っていた。接合部に隙間はなかった。
「アリスを呼んでくれ」
五分後、アリスがドアを開けた。コートを羽織ったままだった。おそらくこの近くで待っていたのだろうと颯は思ったが、何も言わなかった。アリスも何も言わなかった。颯が端末の前を空けると、アリスは立って数値を読み始めた。指が画面に触れることなく、視線だけで一行ずつ追っていった。
一分ほどかかった。
「冷却ループの循環圧が下限に近い」とアリスが言った。
「範囲内には入っている」
「入っています。ただし旧連邦の設計書に注釈があります。下限ギリギリでの長期運用は推奨されないと。一段階、圧力設定を上げるべきです」
「再調整が必要か」
「十分で終わります」
アリスは工具箱を開けた。颯は補助照明のスイッチを入れた。二人の影が作業台に伸びた。アリスが調整箇所に工具を当て、颯が固定位置を保持した。工作区画は静かだった。砂漠の微風だけが外から聞こえた。
調整が終わり、もう一度診断を実行した。循環圧の数値が基準値の中央付近に移動した。NORMAL の文字はそのままだった。
「問題なし」
「了解」
颯は通話端末を手に取った。橋本に連絡する時刻だった。
橋本は六時十分に来た。
白髪の混じった短髪、動作に余計な動きがなかった。フィーエルの乾いた空気が長年かけて染み込んだような体格をしていた。ドアを開けた瞬間に工作区画を一度見回し、M-0144に視線を止め、それからアリスを見た。
「設計書の確認まで済んでいるか」
「昨夜から調べています。問題になりそうな箇所は二つありました。一つは今朝調整しました。もう一つはこちらです」
アリスが設計書の一ページを広げた。橋本は近づいて読んだ。
「旧連邦の注釈が三行ある」
「長期連続稼働の際に、電源変換ユニットの放熱を監視する必要があるということです。今回の処置では問題になりませんが、量産化して連続稼働させる場合は監視ルーティンを組む必要があります」
「記録しておく」
橋本は診断ログの端末に向かった。数値を確認した。読む速度は速かった。
「アルテ」
「はい」
「この診断ログを医療チームに送れ。二時間で確認する。問題なければ午前中に準備に入る」
「今すぐ送信します」
橋本が颯を向いた。
「今回の対象患者について説明する。リュウ・ヒデオ、四十一歳。三年前から進行性の神経変性疾患を抱えている」
「セイからは聞いていませんでした」
「進行は想定よりも速い。現行の治療では回復の見込みがない。M-0144の適用範囲に入る症例の中で、最も緊急性が高い」
颯は橋本の言葉を待った。
「三か月以内に自力歩行が困難になる。最短のケースでは半年で植物状態になりえる。症例が重いという意見もあった。だが待てる時間がない。本人と家族の同意は得ている」
「分かりました」
橋本がドアに向かいかけた。
「十時に医療区画に来い。チームに手順を説明してくれ」
工作区画に戻ると、カレンがいた。
机の端に腰を下ろして、自分の手のひらを見ていた。颯が中に入ると顔を上げた。
「おはようございます」
「ああ」
颯は水を取った。
「リュウ・ヒデオという人を知っているか」
カレンは少し間を置いた。
「はい」
「今回の処置でヒデオが対象になると、橋本から聞いたか」
「昨日の夜に橋本先生から聞きました」
颯は水を一口飲んだ。
「師匠だと聞いた」
「直接習ったのは二年くらいです。でも基地の農業区画の仕組みの半分以上はヒデオさんが作ったものです。土地の使い方、水の回し方、機材の配置。一から手で作っていった人です」
カレンの手が膝の上に置かれた。昨日、旧連邦の配線を折れ癖をつけずに束ねていた手だった。
「昨日の作業の間ずっと考えていました」
「M-0144を作っていることを」
「はい。ヒデオさんが使うことになるかもしれないと分かっていたから」
颯はカレンを見た。
「だから素材を丁寧に扱っていたのか」
カレンが目を細めた。
「それは毎回です。素材は丁寧に扱うものです」
颯は短く笑った。カレンも少し表情が緩んだ。
十時の医療区画には七人の医療チームが集まっていた。
橋本が颯を紹介した後、颯は製造の経緯と手順を説明した。アルテが端末から技術的な補足を入れた。アリスが設計書の該当ページを広げ、医療チームの一人が細部を確認するたびに図面を差し出した。
若い女性のスタッフが手を上げた。
「アルテというのは今もこの部屋にいるんですか」
「端末経由で聞こえています」とアルテが答えた。「技術的な質問があれば答えます」
「ハナさんの症例と今回では、プロトコルの組み方が違いますか」
「神経変性疾患の場合、再生医療プロトコルの優先順位はハナの症例とは異なります。ただし基本機構は同じです。橋本先生が設定したプロトコルに沿って稼働します」
「旧連邦の設計書と今回の製造品で、何かズレがあるとすればどのあたりですか」
「素材の一部を代替品で製造しています。旧連邦規格の一次素材が入手できなかったため、フィーエルで調達できた素材を使いました。出力は旧連邦規格の九十三パーセントになります。この差が長期的に臨床的な意味を持つかどうかは、使用後のデータを蓄積して評価する必要があります」
医療スタッフたちはメモを取った。別の一人が颯に聞いた。
「一台製造するのに、どれほどの資材が必要ですか」
「資材リストを作成しています。フィーエルの現在の在庫と照らし合わせると、月に一台から二台の製造が可能な試算が出ています。製造に習熟した人員が増えれば改善の余地があります」
一時間かかった。質疑応答が終わる頃には、最初の硬い空気が変わっていた。医療チームの何人かが颯のほうを向いて、違う目をしていた。颯はその変化に気づいたが、名前をつけなかった。
橋本が時計を見た。
「午後二時、準備開始。三時に処置を行う」
昼過ぎ、颯は錆鉄丸の船内で飯を食った。
アルテが前の持ち主の暗号解読を続けている音だけがしていた。颯は窓の外のフィーエルの砂を見ていた。太陽が高かった。
カレンの手が配線を束ねていた動きを思い出した。折れ癖をつけない角度で、正確に取り回した。あれはヒデオから学んだ手の感覚なのかもしれないと颯は思った。土地の使い方、水の回し方、機材の配置。一から手で作っていった人間の手が、その弟子の中に残っていた。
皿を洗って、医療区画に向かった。
廊下に颯が着いたのは二時五十分だった。
セイがいた。アリスがいた。カレンもいた。三人とも壁に背をつけて立っていた。
颯はカレンの横に立った。ドアの向こうから低い機械音が聞こえた。M-0144の駆動音だった。昨日まで工作区画にあった音が、今は医療区画の中にあった。
誰も話さなかった。廊下の橙色の天井灯が四人の足元に影を作った。
十五分が過ぎた。
颯は壁に背中を預けたまま、床を見た。セイが腕を組んでいた。アリスが少し前に出て、ドアの向こうの機械音を聞こうとしているように見えた。カレンは動かなかった。手は体の横に下ろされていた。
二十分が過ぎた。
ドアが開いた。
橋本が出てきた。表情は変わっていなかった。颯はすぐに何も言わなかった。橋本も黙っていた。廊下に機械音が漏れ出し、ドアが閉まった。
「正常に稼働しています」
橋本の声は低かった。
「ヒデオの神経伝達指標が変化しています。方向は正常です。二時間後に再測定します」
セイが壁に手をついた。
アリスが小さく息を吐いた。
颯は橋本の目を見た。疲れた顔だった。しかし眉の奥に何か別のものがあった。十年以上フィーエルの医療区画を支えてきた人間の目に、颯が今まで見たことのない光が入っていた。
「良い仕事だった」
橋本がドアに戻った。
颯は廊下に立ったままだった。窓の外にフィーエルの午後が続いていた。砂が橙色に染まり始めていた。
カレンを横目で見た。カレンは前を向いたまま、唇が一度動いた。何を言ったのか聞こえなかった。目は赤くなっていなかった。ただ視線が、ドアの向こうに固定されていた。
「始まったな」とセイが言った。
「ああ」と颯は言った。
夜、コンソールに戻ったのは二十二時を回っていた。
医療区画の二時間後の再測定でも数値の変化は正常方向を維持していた。橋本から短い報告が来た。それだけだった。颯はそれを読んで端末を置いた。
「信号は来たか」
「二十一時五十三分に受信しました。ただし」
アルテが少し止まった。
「何か変わったか」
「今夜の信号は構造が変化しています。これまでの七回と異なるパターンです。在庫報告の定型フォーマットではありません」
颯は前のめりになった。
「具体的には」
「解析中です。複数のデータブロックが含まれている可能性があります。単純な在庫報告ではなく、より多くの情報量がある構造です」
「送信者が変わったのか、フォーマットを変えたのか」
「まだ判断できません。ただし意図的な変更であれば、送信側に何らかの変化があったことを示します」
颯はシートの背もたれに体を預けた。エンジンの振動が背骨を通じて伝わる。
医療区画でM-0144がまだ動いている。ヒデオの数値が動いている。二十一・八天文単位先で、今夜、信号のパターンが変わった。
「続けてくれ」
「はい」
コンソールの橙のランプが瞼の裏に残った。
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