搬送波
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治具の洗浄は午前のうちに終わった。
施設五番の流し台で颯は四十本の棒材を順番に洗った。切削油が水と混ざって白く濁った。排水口に流れた。棒材を乾燥棚に並べた。水滴が棒の表面を垂れる。重力が薄いせいで、落ちるより流れる。
「七番の穴縁に微細なバリがあります。触ってわかる水準ではありませんが、組み付け前に面取りを推奨します」
「カウンターシンクがあったか」
「工具箱の中段にあります」
三ミリのカウンターシンクがあった。七番の棒材をドリルに固定した。一秒。穴縁が整った。
残りをセイと一本ずつ確認した。外径、端面、穴の位置。寸法表を出してアルテが照合した。四十本目が終わったとき、セイが工具を置いた。
「問題ない」
「はい。四十本、規定値内です」
セイが施設の窓から外を見た。ここから見えるのは岩肌と星だけだ。フィーエルの方角には惑星の縁があるはずだが、施設の構造が遮っている。
「昼食をとってから施設三番に向かう。どうやって行く」
「錆鉄丸を使う」と颯が言った。「セイは」
「基地の移動艇がある。単独で飛ぶ」
昼食は施設五番の休憩室で食べた。
セイがアルテに聞いた。
「配線の工程、どのくらいかかる」
「増幅部単体で端子が二十二点です。今回交換するのは十点。セイが主導し颯が補助する形で、四時間以内を想定しています」
「明日の午前は変調器の確認に回せるか」
「配線が滞りなく終われば可能です」
セイが保存食のパウチを閉じた。颯は窓の外を見た。ガラス越しに岩の表面が見えた。この施設も施設三番も、同じ軌道帯の別々の岩塊の上にある。移動するには必ず真空の外に出なければならない。三人とも黙って食べた。
格納区画で錆鉄丸のエンジンを入れた。
コックピットに乗り込んだ。計器を確認した。燃料、圧力、温度。正常値が並んでいた。
「施設三番の座標を入れてくれ」
「入力します。距離は四十三キロメートル。施設三番の小惑星は同一軌道帯の別天体です。飛行時間は推定十二分」
スロットルを入れた。格納区画の外扉が開いた。
宇宙空間が広がった。
音がない。岩の肌が太陽光を反射して白く光っている。颯は機首を施設三番の方向に向けた。推力をかけた。船が動いた。後方に施設五番の構造物が小さくなった。リベット打ちの外壁、アンテナの残骸、固定ボルトの影が岩肌に伸びている。
正面に別の天体が見え始めた。施設三番のある小惑星だ。施設五番より小さい。不整形の岩塊で、表面が平坦な部分に施設が張り付いている。人工物の四角い輪郭が岩に対して鮮明だ。
フィーエルは右手遠方にある。惑星の球面が星の光の中に浮かんでいる。淡く青白い。ここから見ると小さい。
「施設三番のドッキング口が開いています。セイの移動艇は先着しています」
减速した。施設三番の外壁が視野を塞ぎ始めた。ドッキング口が正面に来た。小さな誘導灯が点いている。颯はスロットルを絞った。船が口に収まった。
気密が確立してからハッチを開けた。
内壁が金属の地肌を出している。繋ぎ目に打たれたリベットが何列も並んでいる。足が床に吸い付く感覚があるが、歩くたびに体がわずかに浮く。重力生成装置の出力が低い。颯は壁に手をやりながら進んだ。
セイがすでに建屋に入っていた。道具箱を床に置いていた。
建屋は長かった。天井が高い。壁に等間隔で灯具が並んでいる。均一な白い光を放っている。端の一区間だけ錆で茶色くなっている。颯はその上を踏んだ。固い。撓まない。
上部に高窓があった。外壁に設けられた透明なパネルだ。宇宙空間に面している。星が点在している。視線を右に動かすと、遠くにフィーエルの縁が見えた。惑星の球面が窓枠の端に少しだけかかっている。淡く青白い光の帯だ。ここからは遠い。
建屋の奥に通信設備があった。
幅一・八メートルほどのラック筐体が二台並んでいた。上段に受信機、中段に送信増幅部、下段に電源ユニット。颯はラックの正面に立った。パネルに細かい刻印が並んでいる。表面は傷と変色で覆われているが、構造は崩れていない。
「旧連邦通信規格、モデルTX-七七二Bです。送信出力の定格は五百ワット。増幅部の最終段に電解コンデンサが集中しています」
颯はパネルを指で叩いた。奥が空洞の音がした。
「どこを開ける」
「中段の前面パネルです。ネジが六点」
セイが電動ドライバーを取り出した。六点のネジを外した。パネルを引いた。
内部が出てきた。
基板が縦に並んでいる。配線が束になっている。端子台が密集している。颯はランタンを近づけた。黒く焦げた部品がある。端子の根元が白く腐食している箇所が三点ある。六十年分の硫化だ。
「腐食は三点です。この三点を含む十点を今日交換します」
セイがラックの横に道具箱を置いた。半田ごて。半田吸い取り線。フラックス。ニッパー。細いラジオペンチ。コンデンサの袋。
一点目は上段の端子だった。
セイが半田ごてを入れた。古い半田が溶けた。吸い取り線が吸い取った。コンデンサの足を抜いた。
「次の番号は」
「C-四-一です。耐圧百六十ボルト、静電容量四七マイクロファラッド。基板右側、赤線のすぐ隣です」
颯はコンデンサの袋から一点取り出した。セイに渡した。セイが穴に足を差し込んだ。
「極性の確認を」
セイはランタンを正面に向けた。基板の印刷を見た。
「合っている」
半田を流した。余分な足をニッパーで切った。
「二点目」
五点目まで一時間かかった。
間隔が狭い箇所が二点あった。セイがラジオペンチで基板側の部品を保持し、颯がこてを当てた。手首の角度を限界まで絞らないと入らない。金属の臭いがする。汗が額に滲む。こての熱が近くで輻射している。手袋越しでも感じる。
「もう少し手前を持ってくれ」
セイが指を一センチずらした。颯がこてを入れた。半田が流れた。
六点目。七点目。八点目。
腐食のある端子が出てきた。セイは吸い取り線を三回使った。腐食が基板面まで及んでいる。熱を加えすぎると基板のパターンが焼ける。
「熱量に注意してください。パターンの許容温度は二百六十度です」
セイは返事をしなかった。こてを引いた。別のフラックスを塗った。吸い取り線を新しいものに替えた。ゆっくり熱を入れた。
端子が外れた。
「九点目」
颯は腐食した端子を手に取った。根元の白い部分に触れた。施設が封じられてから、ずっとここにあった。六十年。誰も触れなかったものが今、颯の手のひらにある。
十点目が終わったのは四時を過ぎていた。
セイが半田ごての電源を切った。颯が工具を片付けた。アルテが配線図と実際の状態を照合した。
「全十点の交換を確認しました。電源を入れる前に通電試験を行います」
テスターを取り出した。各端子間の抵抗値を計った。アルテが基準値と照合した。
「一点目から十点目まで、すべて規定値内です」
「電源を入れる」
「前面の主電源スイッチが左側にあります。投入前に内部に異物がないことを確認してください」
颯は内部を確認した。セイも確認した。異物はなかった。
主電源スイッチを入れた。
ラックの内部がわずかに唸った。ファンが回り始めた。電源ユニットのインジケーターが緑になった。
「電源正常。増幅部に通電します」
中段のスイッチを入れた。
数秒、何も起きなかった。
颯は計器を見た。電流計の針が動いている。電圧が安定した。
「出力確認のため、内部テスト信号を送ります」
増幅部が低く唸った。出力計の針が上がった。
二百四十ワット。
「基準値の三百ワットに達していません」
「原因は」
「エージング不足の可能性があります。初回通電時には出力が低い場合があります。三十分の通電を経て再計測します」
セイがラックの横に立った。針を見た。
「三十分待つ」
三人とも何もしなかった。
ファンの音だけがした。颯は壁に背をつけた。腕を組んだ。
高窓を見た。パネルの向こうに星があった。フィーエルの球面が右端に光っている。この建屋の外に空気はない。壁の向こうは真空だ。重力も薄い。ここがどこかの岩塊の上だということを、部屋のすべてが教えてくれる。
出力計の針はゆっくり動いていた。二百五十。二百六十。上がっている。
セイが床に腰を下ろした。壁に背をつけた。颯は立ったまま待った。
この設備が最後に使われたのはいつだろうと考えた。旧連邦が崩壊した時、誰かがここで同じ計器を見ていたのか。それとも誰も見ていなかったのか。電源が切れて、設備だけが残って、六十年が過ぎた。
針が三百ワットを越えた。そのままゆっくり上がり続けた。
三百四十ワットで止まった。
セイが立ち上がった。
「基準値を超えています。定格の六十八パーセント。送信可能な出力です」
颯は針を見た。
「搬送波を送れるか」
「はい。変調器の確認なしで搬送波のみであれば、今すぐ送信できます」
セイが颯を見た。何も言わなかった。
「周波数は旧連邦の共通帯域です。一二一・五メガヘルツ。旧連邦時代に緊急用として登録されていた周波数です」
「送れ」
アルテがコマンドを送った。
ラックが唸った。出力計の針が揺れた。三百四十から三百五十になった。
搬送波が出た。
颯はラックの前に立っていた。
何かが変わったわけではない。この部屋の空気は同じだ。セイの立ち方も同じだ。ファンの音も同じだ。出力計の針だけが三百五十ワットを指したまま動かない。
波が出ている。
この岩塊の外壁を経由して、外に出た。真空の宇宙空間を進んでいる。今この瞬間も進んでいる。光速で、遮るものなく。どこかまで届くかどうかは、何年も経ってから初めてわかる。あるいは永遠にわからない。
颯は高窓を見た。星がある。フィーエルの縁が薄く光っている。その向こうに、さらにその向こうに、何があるかは誰も知らない。アルテも知らない。搬送波がそこまで届くかどうかも。
ただ出ている。
「送信継続中」
「止めるのか」とセイが言った。
「今日のところは十分で止めます。変調器の確認ができれば、通信符号を乗せて定期的に送ることができます」
颯は何も言わなかった。
十分後、アルテが送信を止めた。ラックの唸りが静まった。出力計の針がゼロに戻った。
静かになった。さっきまでと同じ静かさだったが、どこかが違った。颯はその感覚に名前をつけなかった。
施設三番を出た。
「通信設備の記録を保存しろ。出力値と周波数と送信時刻を入れておいてくれ」
「保存しました。変調器確認のスケジュールを入れますか」
「明日にする」
「了解です。明日の午前に施設三番での変調器確認を入れます。M-0144の組み付け工程はセイが単独で進める予定です。午後に合流しますか」
「合流する」
ドッキング口から外に出た。颯は錆鉄丸のコックピットに乗り込んだ。スロットルを入れた。機体がわずかに震えた。ドッキング口が離れた。宇宙空間が広がった。
施設三番の外壁が後方に遠ざかった。人工物の四角い影が岩塊に張り付いている。あの中に送信機がある。今は停止している。しかし配線は生きている。明日また動く。
フィーエルが前方にある。基地の灯りが岩塊から岩塊へと点在している。昨日より一つ多い。施設二番の電源が復旧した分の光だ。
「アルテ」
「はい」
「今日の搬送波、どこまで届くと思う」
アルテは少し間を置いた。
「三百五十ワットで一二一・五メガヘルツの搬送波であれば、大気圏の減衰がない宇宙空間では理論上は無限に伝わります。ただし距離の二乗で強度が落ちます。実用的な受信が可能な距離は、受信機の感度によります」
「感度次第か」
「はい。高感度の受信機であれば、相当な距離まで届きます」
颯は機首をフィーエルの方向に向けた。基地の灯りが近づいてくる。岩塊の表面に散らばって点在している。搬送波は今も宇宙空間を進んでいる。止まった針の先を、波だけが進み続けている。
「届けばいい」
アルテは何も言わなかった。颯も何も言わなかった。
錆鉄丸が基地へ向けて進んだ。四百ワットの波だけが、基地より先の闇へ出ていた。
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