条件を取る
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朝、施設三番のドッキングポートに接舷した。ロックアームが噛み合う音がして、ランプが緑に変わった。エアロックで内外の圧差が均等になるのを待った。施設内の空気が流れ込んだ。一晩で人の息が散っている。少し薄く感じる。
工業区画まで歩いた。廊下の一灯ずつを点けながら進んだ。壁の亀裂、配管の継ぎ目。昨日と変わらない。区画の照明を全灯にした。二番機が昨日のまま待っていた。
工具袋を機械の脇に置いた。手袋を外した。機械の側面に掌を当てた。鉄が施設の夜の冷気を溜めていた。スイッチを入れた。モーターが鈍く起き上がった。回転数が上がった。軸受けの音が整うまで、颯は機械の隣に立って耳を傾けた。
三分で定格回転になった。昨日と同じ音だ。変動がない。
昨日の試し削りで出た表面粗さはRa〇・八マイクロメートルだった。M-0144の光学部品嵌合部に必要なのはRa〇・四以下だ。砥石の粒度を上げなければ届かない。
棚を開けた。昨日見つけたWA120Lを取り出した。旧連邦製のホワイトアランダム砥石だ。フランジ径を確認した。合う。箱の底に乾燥剤が入っていた。砥石面に指を走らせた。均一だ。劣化はない。
フランジのボルトをトルクレンチで外した。A46Hを取り外した。WA120Lを取り付けた。締め付けトルクを規定値に合わせた。軸を手で回した。重さの偏りがある。バランス調整が要る。
砥石の重心を探す作業だ。軸を少しずつ回して、重い側が下に来る位置を繰り返し確認する。フランジの溝にウェイトを差し込んで、重心を中心に合わせる。位置を微調整するたびに軸を回して確認する。施設の静寂の中で、颯の指だけが動いていた。
「バランス許容値内に入りました。偏心量〇・〇〇一五ミリです」
アルテの声が端末から出た。二十分かかった。次はドレッシングだ。ドレッサーを当てて砥石面を整えた。五パス入れた。
「面精度〇・〇〇二ミリ以内です」
電源を入れた。モーターが上がった。砥石が変わった分、音の高さが変わった。高く細い音になった。工業区画の天井に反響した。
棒材をチャックに取り付けた。ダイヤルゲージを当てた。
「振れ量〇・〇二ミリあります」
チャックを緩めた。棒材を微妙に動かした。再度締めた。
「〇・〇〇五ミリです」
加工を始めた。切込み量〇・〇〇五ミリに設定した。砥石が棒材に触れた。昨日とは違う音だ。鋭い。粒度が細かい分、音が高い。火花が出た。昨日より少ない。一パス終えた。機械を止めた。マイクロメーターを当てた。
「四一・九八ミリ、四一・九七ミリ、四一・九八ミリです。差は〇・〇一ミリです」
まだ大きい。送り速度を半分に落とした。切込みを〇・〇〇二ミリにした。三パス入れた。止めた。測った。
「四一・九四三ミリ、四一・九四四ミリ、四一・九四三ミリです。差は〇・〇〇一ミリです」
良くなった。同じ工程を繰り返した。削って止めて測って削って。施設の中に砥石の音と、マイクロメーターを扱う金属音だけがあった。
二時間後、棒材の直径が三十八・〇〇二ミリになった。仕上げパスを一回入れた。
「三八・〇〇〇ミリ、三七・九九九ミリ、三八・〇〇一ミリです」
比較見本板をあてた。Ra〇・四の板より均一だ。
「推定表面粗さはRa〇・三三マイクロメートルです」
颯は加工面に指を当てた。引っかかりが何もない。指の腹で送り方向になぞった。すべる。昨日の試し削りとは別物だ。あの時は微細な引っかかりがあった。今は何もない。金属の面が指先に冷たく貼りつく感触だけがある。
M-0144の光学部品が収まる部分はこの精度が要る。設計図の数値がそういう意味を持っている。寸法を守ることが部品になることだ。
「条件を記録しろ。砥石番号、切込み量、送り速度、パス数、全部」
「記録します。基準値として保存しました」
二本目で失敗した。
仕上げパスを入れる前に、設定値のリセットを忘れた。切込み量が〇・〇〇五ミリのままだった。気づいたとき、直径が三七・九八五ミリになっていた。公差のマイナス側を〇・〇〇五ミリ超えている。M-0144の筐体として使えない。
端材の棚に立てかけた。加工くずだ。颯はそのまま三十秒、その棒材を見ていた。旧連邦が保管していた素材だ。四十年間、誰にも使われずにいた。今日、削りすぎて用途を失った。
「原因は何だ」
「仕上げパス入力時に切込み量のリセットをしていません。一パス目の設定値が残留しています」
「次から仕上げパス前に設定値を確認する手順を追加しろ」
「追加します。加工チェックリストに組み込みました」
三本目のチャックを締めた。手順を最初から踏んだ。設定値のリセットを確認してから仕上げパスに入った。
「三八・〇〇一ミリ、三八・〇〇〇ミリ、三八・〇〇二ミリです」
問題ない。四本目も同じ結果になった。
棒材を並べた。四本のうち、使えるのは三本だ。
「一本くずにした。明日届く素材で補う」
「了解です。明日の素材リストを更新します」
三本の棒材を素材台に並べた。外径三十八・〇〇〇ミリ、表面粗さRa〇・三五程度。M-0144の筐体になる前の素材だ。端面を仕上げ、穴をあければ筐体になる。次の工程には旋盤が要る。
「施設五番の旋盤について、旧連邦の設備台帳に記録はあるか」
「確認します」
少し間があった。
「施設五番に六六年型汎用旋盤が二台、記録があります。最終稼働記録は四十三年前です。型番から判断すると、フィーエル基地向けの汎用機で、保守部品は施設内在庫から調達できる仕様です」
「行ってみなければ分からない」
「その通りです」
颯は手帳に施設五番の欄を作った。旋盤の型番、調べるべき項目。ベルト、チャック、刃物台の状態。切削油の残量。今日の仕事が終わったと思ったら次が見える。この施設群の仕事はそういう構造になっている。
昼過ぎにセイから通信が入った。
「どうだ」
「四本やった。一本くずにした。条件は確定した」
「くずを出したか」
「仕上げパスで切込み量のリセットを忘れた。三七・九八五まで落ちた」
「それで分かったな」
「次はない」
「明日の午前中に素材を上げる。ステンレス棒材四十本、アルミブロック十二個。まず筐体素材の加工から始めろ」
「了解した。旋盤の件、施設五番の台帳に六六年型が二台ある。端面と穴あけには旋盤が要る。状態確認を早めにしたい」
セイが少し沈黙した。
「今週中に私が施設五番へ行く」
「頼む。もう一つ。光学ガラスの品質確認はいつやる。保管状態は良好だったが、実際に使う前に計測が要る」
「計測機器が基地にある。来週中に持ち上げる。それまでは筐体素材の加工を進めろ」
「分かった」
通信が切れた。颯は端末を置いた。
今日の結果と明日の段取りが一本の線になった。明日、素材が届く。同じ条件で加工を始める。一本一時間弱でできれば、四十本で四十時間かかる。五日あれば終わる。その間にセイが施設五番の旋盤を確認する。来週、光学ガラスの計測機器が届く。
全部が順番に動いている。ではない。全部を手で動かして順番にしている。
「アルテ、今日の全記録をセイに送れ。加工条件、計測結果、くずの原因分析、施設五番の設備データも添付しろ」
「送ります」
工業区画の照明を落とした。
二番機が暗がりに沈んだ。明日また同じように立ち上げる。暖機して砥石の状態を確認して棒材をセットして削る。今日覚えた手順を明日も踏む。それで一本できる。四十本やれば次の工程に進める。
颯は加工済みの三本を素材台に並べたまま照明を消した。暗がりの中で、棒材の輪郭が消えた。明日また確認できる。
ハッチへ向かった。廊下の照明を順番に消した。施設三番が少しずつ暗くなった。
エアロックを通った。ドッキングアームが解放された。錆鉄丸が施設三番からゆっくり離れた。
操縦席に座った。帰還軌道を入力した。エンジンが点火した。施設三番が後方に遠ざかった。大きな構造物の影がゆっくり縮まって、やがて星の並びに紛れた。窓の外に、フィーエルが小さな円盤として見えた。昼側の縁が薄く光っている。大気の層だ。
「今日の作業記録まとめ」
「加工条件確定、三本完成、一本くず、チェックリスト更新、施設五番設備確認リクエスト共有完了です。明日は素材到着後に同条件でステンレス棒材四十本の外径仕上げを開始します」
大気圏に入った。機体が揺れた。外板が摩擦で鳴った。高度が落ちるにつれて、窓の外が暗い宇宙から薄い青に変わっていった。雲の層が近づいた。その向こうに基地がある。
今日、一つの数字が確定した。切込み量〇・〇〇二ミリ、送り速度最低、WA120L砥石、仕上げ前設定値リセット。その組み合わせで三十八・〇〇〇ミリの面が出る。その数字がなければ、M-0144の筐体は作れない。M-0144がなければ百台に届かない。百台がなければ十三の基地に届かない。
基地に人がいる。
エンジンを上げた。基地へ向かった。手の中には、条件という名前の失敗の避け方が残っていた。
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