場所のある仕事
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夜明け前の錆鉄丸は静かだった。
颯は機関室の床に仰向けになって、排熱ダクトの接合部を指先で確認した。前の持ち主が六年前に改造した箇所だ。フィーエルの大気の湿度が高く、接合部の周辺に結露が出始めていた。拭き取ってから、防錆剤を薄く塗った。急ぐ必要はないが、放置すると内部の断熱材が傷む。
機関室から操縦席に戻った。端末の表示を確認した。燃料電池の残量、生命維持装置の消費電力、航法コンピュータの待機状態。数字が出ている。問題はない。
「今朝の機関温度は安定しています」
アルテの声は操縦席のスピーカーから出た。夜明け前の船内では、音が少し広く聞こえる。
「大気の湿度データが更新されました。フィーエルは夜間に湿度が上昇する傾向があります。接合部の確認を定期的に行う必要があります」
「もうやった」
「確認しました。在庫台帳の優先順位付けは完了しています」
「セイに会ってから説明してくれ」
颯は外套を取った。フィーエルの夜明け前は冷える。格納庫まで歩いた。
格納庫の扉を引いた時、セイはすでに旋盤の前にいた。
計測器具が作業台に並んでいた。外径マイクロメータ、内径ゲージ、ダイヤルゲージ。フィーエルの朝が格納庫の高窓から入り始めていたが、セイはランタンを一つ点けていた。作業台の光の当たり方を調整しているらしかった。
「早い」
「今日やることが決まっているなら早く始めた方がいい」
セイは旋盤のチャックに測定用の基準棒を咥えさせていた。マイクロメータを当てて数値を読んだ。手帳に書いた。数字を変えてもう一度。また書いた。
颯は端に立って見ていた。三回目の測定が終わったところで、セイが顔を上げた。
「旋盤の主軸の振れは〇・〇三ミリだった。チャック把持での繰り返し精度は〇・〇四ミリ前後」
「M-0144の要求は〇・〇二ミリ以下だったな」
「足りない。〇・〇一から〇・〇二ミリの差がある」
颯は作業台の脇に歩いた。旋盤の主軸部分を見た。油の汚れが均一についている。メンテナンスはされている。機械自体の問題ではなく、経年による精度の限界だ。
「バイトの選択で補えるか」
「試してみないと分からないが、おそらく無理だ。旋削では補えない精度帯に入っている」
アルテの声が耳のインカムから出た。
「台帳データによると、近隣施設の中で施設三番に円筒研削盤の記録があります。研削加工であれば、〇・〇一ミリ以下の精度が達成可能です」
セイが手帳のページをめくった。
「施設三番は今回の往路で通った場所か」
「はい。昨日の走行ルートで、フィーエル補給基地から最も近い施設です」
「稼働しているかどうか分からない」
「電力停止記録がない施設です。ただし確認は現地で行う必要があります」
セイは手帳を閉じた。旋盤のチャックから基準棒を外した。計測器具を布で拭いた。
「段取りが変わる。第一工程のうち、高精度が必要な部品は施設三番でやる。この旋盤では荒加工と中仕上げまで」
「工程を二か所に分けるということか」
「素材の移動が増えるが、精度が出なければM-0144は動かない」
颯は施設三番までの距離を頭の中で計算した。錆鉄丸で移動すれば半日かからない。
「俺が施設三番に行って、研削盤の状態を確認してくる。稼働できるなら加工場所にする」
「一人でいくつもりか」
「セイは旋盤の段取りを続けてくれ。向こうの状態が分かれば、加工順序が決まる」
セイが颯を見た。少し間があった。
「アルテ、施設三番の電力系統図はあるか」
「あります。主電源のブレーカー位置と、補助電源への切り替え手順が記録に含まれています」
「それを颯に共有してくれ。現地で電源が落ちていても、自力で立ち上げられる状態にしてから行かせる」
午前中、颯は格納庫で施設三番の図面を確認した。セイは旋盤の刃物台を分解して、各部の摩耗状態を細かく調べていた。声はあまり出なかった。二人がそれぞれの作業をしている間、アルテが台帳データの読み上げをした。
「施設一番から五番の品目を優先順位付けで整理しました。M-0144の素材に該当するもの、医療器具の補修に転用できるもの、その他の三分類です」
セイの手が止まった。
「医療器具の補修素材は何か所にある」
「施設一番と四番です。施設一番は光学ガラスの原料、施設四番はステンレス系の棒材です」
「光学ガラスの前駆体か」セイが刃物台の摩耗部分を布で拭いた。「うちの検眼器具のレンズの精度が落ちていて使い物にならない。ガラスを引けるなら」
「加工には専用の徐冷炉が必要です。台帳にはガラス溶解炉の記録はありますが、徐冷設備は確認できていません」
「徐冷なしでは割れる」
「はい。ただ、原料があれば外注の検討もできます。フィーエルから他の基地に素材を送って、加工だけ依頼する形です」
セイがゆっくりと振り返った。
「他の基地に連絡できるのか」
「現状ではできません。しかし、フィーエルの通信設備が修復されれば、到達範囲内にいる基地との連絡は技術的には可能です」
颯は図面から顔を上げた。「通信設備は壊れているのか」
「基地の通信塔は旧連邦時代の設備で、受信系は動いています。送信系の出力増幅部が故障しています」
「修理に何が要る」
「出力増幅部の主要な電子部品です。旧連邦規格の部品で、現在の在庫には含まれていません」
セイが手帳を取り出した。書いた。颯は施設の図面に目を戻した。
「通信が通れば、人を呼べる」
セイが言った。颯は図面を見たまま答えた。
「M-0144の試験データが出てから、連絡する相手も判断できる」
「その通りだ」
昼を過ぎた頃、三人は格納庫のテーブルに集まった。
セイが手帳のページを開いた。颯は端末をテーブルに置いた。アルテの画面に台帳の一覧が出ている。
「整理する」と颯は言った。「今フィーエルに何があって、何をやるかを決める」
セイが手帳のページを指で押さえた。
「M-0144の製造。これが最初だ。施設三番の研削盤が使えるなら、部品の加工から始める」
「素材の確認が先だな。今日取った台帳データで主要素材はあるが、実際の状態は現地確認が要る」
「明後日に施設三番へ行く。颯が研削盤の状態確認をして、俺は素材の現物を見る。両方で行った方がいい」
颯はうなずいた。
「アルテ、製造開始から試験稼働まで、現実的な工程は何日かかるか」
「主要素材が揃っている場合、第一工程の加工に四日、第二工程の組み付けに二日、第三工程の調整と試験に三日です。合計で九日から十日が目安です」
「設備のトラブルが出れば延びる」
「はい。初回なので不測の事態は織り込む必要があります」
セイが数字を書いた。
「二週間で試作品を一台完成させる。それが当面の目標だ」
颯は端末の画面をスクロールした。
「M-0144以外の話もする。施設の在庫、通信設備の修理、医療器具の補修。優先度を決めておかないと動けない」
「通信は後だ。M-0144が完成してからでいい。通信が通っても、届けられるものがなければ意味がない」
「医療器具の補修は」
「部品を回収しながら並行でやれるものはやる。ただし、加工設備は共用するから、M-0144の工程が優先になる」
「アルテ、施設の在庫から医療器具補修に転用できる素材のうち、M-0144の製造工程と競合しないものを出してくれ」
「施設一番の光学ガラス原料と、施設五番の絶縁素材は競合しません。施設四番のステンレス棒材はM-0144の筐体材料と共通する工程があります」
「施設四番は後回しにする。一番と五番の素材は、M-0144の製造と並行して回収できる」
セイが手帳に線を引いた。優先度で区切っているらしかった。
「基地のシステムへのデータ転送はどうするか」
「今日の夜にやる」セイが言った。「あんたたちが帰る前に、この格納庫で接続を確認する。アルテのデータを基地のシステムに入れておけば、俺一人でも参照できる」
「転送の範囲はどこまでにするか。施設の建造記録、在庫台帳、製造工程の手順」
「全部だ。分けても意味がない」
颯はテーブルの上に両肘をついた。
「フィーエルが何をする場所かという話もしておく」
セイが手帳から顔を上げた。颯を見た。
「旧連邦が切り捨てた。でも施設は残っている。素材も残っている。記録も残っている。M-0144が完成すれば、他の基地に届けられる医療技術ができる。通信が通れば、フィーエルがどこにあって何を持っているか、他に伝えられる。ここに来れる人間には来てもらえる」
セイは手帳を閉じた。
「フィーエルを中継地にする。素材の加工と医療技術の供給、それから情報の集積。その三つが当面の役割だ」
「旧連邦の時代も、そういう場所だった」
「違う。旧連邦はフィーエルを管理していた。今は誰も管理していない。自分たちで決める」
颯はセイの言葉を聞いた。格納庫の外で風が動いた。
「アルテ、今の合意内容を記録しておいてくれ。後で参照できるように」
「はい。フィーエル補給基地の当面の役割として、素材加工・医療技術供給・情報集積の三点を記録します。短期目標としてM-0144の製造、中期目標として通信設備の修復と他基地への展開を記録します」
「日付と、誰がいた場で決めたかも入れてくれ」
セイがわずかに眉を動かした。
「記録の作法を知っているな」
「前の持ち主の船を見れば、記録しておかないと次に誰かが来た時に分からないと分かる」
セイが立ち上がった。ランタンを格納庫の奥へ持っていった。棚の位置を確認している。颯は端末に残った台帳の一覧を見た。五か所の施設、数十の品目、旧連邦が残していったもの。
全部に、今日から使い道がついた。
夜になって、アルテのデータを基地のシステムに転送した。
セイが基地の端末を持ってきた。接続ケーブルが二種類必要だったが、格納庫にあった。アルテが転送の手順を指示した。颯はケーブルの接続を確認して、セイがキーを打った。
転送に二十分かかった。進捗バーが少しずつ進む間、セイは基地の端末の画面を見ていた。颯は格納庫の外に出て、フィーエルの空を見た。
星が出ていた。昨夜より見え方が鮮明だった。遠い光が静止している。その中に人類の生き残りがどこかにいて、今日この瞬間に何をしているかを颯は知らない。
転送完了の音が格納庫から聞こえた。セイの声がした。「データが全部入った」
颯は格納庫に戻った。セイが基地の端末の画面を操作して、転送したデータの一覧を確認していた。施設の建造記録、在庫台帳、M-0144の製造手順、今日の合意内容。セイの手帳に書いてあったものが、全部画面の中にある。
「検索もできるようにしてある」アルテが言った。「品目名や施設番号で引けます」
「手帳がいらなくなるな」
「手帳の方が速い場面はあります」
セイが小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。
「明後日、施設三番へ出発する。朝一で動く」
「分かった。錆鉄丸の準備は明日の夜までに終わらせる」
「着いたら研削盤の状態から確認してくれ。電源が落ちていたらアルテの手順で立ち上げる。俺は素材の実物を確認する」
「了解した」
セイが基地の端末を持って格納庫を出た。颯は端末の電源を切った。格納庫に自分一人になった。ランタンが一つ燃えている。
工具が壁に並んでいる。昨日セイが一本を定位置に戻した音を思い出した。ここに誰かが残って、旧連邦が去った後も設備を維持した。記録には名前が残っていない。でも今日の合意には今日の日付と三人分の名前が入っている。
颯はランタンを消した。格納庫の扉を閉めた。錆鉄丸の方へ歩いた。フィーエルの夜気が広がっている。
明後日、施設三番へ行く。研削盤が動けば、M-0144の加工が始まる。加工が終われば組み付けが始まる。試験稼働のデータが出れば、セイは次の基地への展開を考える。通信設備が修復されれば、フィーエルの場所が他に伝わる。
錆鉄丸の昇降タラップを上がった。操縦席のシートに腰を下ろした。端末を起動した。
「施設三番の電力系統図、操縦席に出してくれ」
「出します」
画面に図面が出た。颯はそれを見た。明後日に自分がやることが全部そこにある。
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