最初の形
お昼に更新中です。 ぜひ読んでいってください!!
水曜日の朝、セイが格納庫に来たとき、颯は降着装置の四本目のボルトに締め付け具を当てていた。
外気温は低い。開口部から差し込む空気が機体の金属に当たり、温度差で薄く結露している。指先が冷たかった。工具の柄に湿気がなかったのは、格納庫内の暖房が一晩稼働し続けていたからだ。
「終わりました」
セイが入口に立っていた。足音が聞こえなかった。ブーツの底が磨耗している。以前から気になっていた。
「何が」
「アリスが読み終えました。全四百十七ページです。今朝の六時二十分に」
颯は四本目のトルクを確認した。規定値内だ。工具をおろし、立ち上がった。
「疑問点は」
「三件の追加があります。昨日の十九件と合わせて二十二件です」
「午前中に行く」
セイが頷いた。
窓の外に中心棟が見える。明かりがまだついていた。颯は昨夜の計算を思い出した。アリスが「百二十八ページ残っています」と言ったのは夜の九時だった。全体の進捗速度から割ると、残りには六時間以上かかる計算だ。それが今朝の六時二十分に終わったなら、ほぼ一晩を使ったことになる。数字は予測通りだった。
中心棟の明かりが消えていない。アリスはまだそこにいるか、明かりを消さずに眠ったかのどちらかだ。颯は工具袋を棚に置き、今日の順序を頭の中で並べた。
管理棟の小会議室に入ったとき、アリスはすでに資料を広げていた。
機の上に設計書が積んである。付箋が何十枚も貼られている。疑問箇所を書き込んだ紙が別途重なっている。アリスの目の下に疲労があった。眼球の充血はない。熱があるわけでもない。眠っていない目だ。それでも手の動きに迷いがなかった。資料を開く順序が正確だった。どのページに何があるかを頭の中に入れている。
カレンも来ていた。工具袋を床に置き、壁際に立っている。颯が確認しなかったのは、来るかどうかはカレンが決めることだからだ。
「最初の三件から入ります」
アリスが資料の先頭ページを開いた。
二十二件は、大半が製造仕様の細部に集中していた。設計書の前半は基礎構造だ。後半に製造仕様が並ぶ。アリスが読んで確信を持った部分と、判断を保留したままにした部分の境界が、疑問点の分布に出ていた。
「冷却経路の分岐角度です。本図では四十五度と読めますが、注釈に別の数値があります」
「いくつだ」
「三十八度です。本図との差が許容範囲かどうか判断できませんでした」
颯はアルテの端末を確認した。
「アルテ」
「三十八度が正しい数値です。四十五度は旧連邦初期規格の標準値で、M-0144は改良型です。後から加えられた修正が注釈側です」
アリスが手帳に書いた。頷きは小さかった。次のページに移った。
二十二件のうち十八件は、本図と注釈のどちらを採用するか、あるいは設計書前半の原則を後半の仕様にどう適用するかの問題だった。アルテが保持している旧連邦技術データベースを参照するたびに、一件ずつ答えが出た。颯はその都度パラメータを確認した。アリスが書き込む。カレンは何も言わなかったが、二度、ページを指さして「ここですか」と聞いた。どちらも正しい箇所を指していた。
四十分で終わった。二十一件が解決した。残った一件は素材の問題だ。
「特定の合金を指定しています。現状の在庫では確認できていません」
「外装部品から始める。内部の精密部品は素材の目処が立ってからだ」
「外装の三部品であれば、CNCデータを今日中に入力できます」
「今日やる」
基地の東棟に工作機械室がある。
入ると油の匂いがした。機械は三台あり、一台は停止している。稼働する二台はセイが先月動態確認を済ませていた。床に古い切り粉が残っている。最後に使われてから時間が経っている。颯は電源を入れる前に外観を一周した。油脂の充填状況を確認した。駆動部の遊びを手で確かめた。問題がなかったので電源を入れた。
「最初の部品のデータを入力しました」
アリスが端末から声をかけた。颯はパラメータを確認した。素材は汎用アルミ合金だ。設計書が指定するものではないが、外装の試作には問題ない。実行を指示した。
機械が動き始めた。
切削音が室内を満たした。颯は音を聞いた。回転数の揺れがない。振動が均一だ。この手の機械は異常が出るとき音が変わる。今は変わっていない。カレンが窓から機械の動きを見ている。セイが端末でパラメータを記録している。アリスは次の部品のデータを準備していた。
二十一分で一部品目が出てきた。
颯は手に取った。指先で合わせ面をなぞった。表面の粗さが指先に伝わる。計測器を当てた。〇・三ミリの誤差が一か所ある。公差範囲内だ。試作としては想定の範囲だった。
「〇・三ミリの原因を特定して次に反映する。切削速度と送り量の組み合わせだ。アリス、調整できるか」
「数値を出しています。確認します」
アリスがパラメータを修正した。颯はそれを見た。方向は正しい。
「それでいい」
二部品目が二十三分で出てきた。誤差は〇・二ミリになった。
三部品目では〇・一ミリに収まった。同じ素材、同じ機械で、調整を重ねるたびに数値が変わった。颯は三つの部品を機に並べた。最初のもの、二番目、三番目。並べると変化が目に見える。
カレンが機に近づいてきた。数値を確認するのかと思ったが、カレンは先に手を伸ばした。最初の部品を取り上げた。指先で表面をなぞった。それから三番目を取り上げて同じように触った。颯は何も言わなかった。カレンはその差を手で確かめ、三番目を機に戻した。
「記録する。数値と写真と調整の履歴を全部一緒に保存しろ」
「どこに保存しますか」
「アルテに渡す。アルテ、引き取れるか」
「引き取ります」
「次の担当者が来たとき、この記録が出発点になる。最初からやり直さずに済むように残せ」
アリスが顔を上げた。それから記録を始めた。颯はその様子を一度見た。アリスが書く内容は正確だった。疑問を持ったときどのページに戻ったかまで書いている。
格納庫に戻ったのは夕方だった。
朝のやり残しがある。降着装置の最終確認だ。四本の脚を一本ずつ手で触った。溶接部の表面を確かめた。ガタつきがない。重量の偏りもない。脚の根元を掌で押した。揺れがなかった。
降着装置の修復が終わった。
錆鉄丸の外壁を一度叩いた。金属の硬い音が返ってきた。補修した箇所が何か所かある。この格納庫に来てから手を入れた箇所と、セイと二人で直した箇所がある。一か所ずつに作業の記憶がある。音に問題はなかった。
「アルテ」
「はい」
「今日の記録はアリスから受け取ったか」
「午後に受け取りました。外装三部品の製造データと調整履歴を保存しています。写真も含みます」
「内部部品の素材はどこから探す」
「セイからリストを受け取っています。廃棄宙域の優先候補地が三か所あります。化学試薬の確認も追加しています。ただしそれぞれの宙域の現状が安全かどうか、現時点では確認できていません」
「動けるタイミングをセイと確認する」
「了解しました」
機の上に三部品が置いてある。試作品だ。設計通りではない。素材が違う。精度もまだ足りない。ただ今日、この手でM-0144の部品を初めて作った。颯は三部品を一度触った。最初のもの、二番目、三番目の順に指先を当てた。表面の仕上がりの差が指先で分かる。一日でここまで変わった。
夜、セイが来た。
格納庫の入口に立っていた。颯が手招きしなかったのは、入るかどうかはセイが決めることだからだ。セイは入ってきた。壁際に立ったまま口を開いた。
「アリスが今日の作業を終えてすぐ眠りました」
「そうか」
「来た日から今日まで、一日も休まずにいました」
「休まないと言ったのはアリスだ」
セイが少し間を置いた。
「颯さんはカレンに何を見ていますか」
颯は工具袋を棚に置いた。
「手だ」
「手?」
「工具の持ち方、素材の触り方、機械の動きを確認するときの目の位置。どれも手の使い方に出る。カレンの手は誰かに習った手じゃない。自分で試してきた手だ。今日、機械の前で〇・一ミリの誤差を見たとき、カレンは数値より先に部品を手に取った」
「気づいていませんでした」
「そういう手に技術を渡すと、想定外の使い方が出る。それがいい方に出ることがある」
「颯さんにはそういう経験がありますか」
颯は答えなかった。
棚から手を離し、自分の手を見た。機械油が染み込んで落ちない部分がある。工具の柄が当たる位置が硬くなっている。これだけのものを持ってきた。ただ渡す相手がいなかった。カレンには受け取る手がある。
「明日、廃棄宙域のリストを持ってきてくれ」
「持ってきます」
セイが出ていった。
格納庫が静かになった。
「アルテ」
「はい」
「今日の段階で、M-0144の製造を前に進める能力がこの基地にあるか」
アルテが少し間を置いた。
「あります。ただし素材の調達と、内部部品の精度を出すための訓練が必要です。外装部品の試作は今日確認されました」
「内部部品に移るためには何がいる」
「補助が必要な工程があります。ただしその工程が終われば、設計書の理解はアリスが担えます。製造判断はカレンが学べます。工程管理はセイが引き受けられます」
窓の外に中心棟の明かりはない。アリスが眠っている。一晩かかって四百十七ページを読み切り、眠っていない目で今日の問題を解いた。
颯は機の上の三部品を見た。
形になるまでいると言った。三か月と言った。その数字には根拠があった。ただ今夜、別の何かが見えた。最初の形だ。ここからもう一段階ある。内部部品の素材調達がある。廃棄宙域に何があるかはまだ分からない。訓練の時間がある。それでも今日、アリスが設計書を読み切り、カレンが部品を手に取り、外装三部品が出来た。それが最初の形だった。
「今日の全記録を明日セイに渡せる形で整理してくれ」
「了解しました」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
目を閉じた。
降着装置の修復が完了した。外装三部品の試作が成功した。アリスが四百十七ページを読み切った。カレンが部品を手に取った。
重さのある一日だった。昨日とは種類の違う重さだ。
お読みいただきありがとうございます! 励みになるので評価・ブックマークお願いします!!




