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第5話「崖」

 分かれ道、一本道なのに、向かう選択肢は無限と思えるほどにある。

見えない分かれ道がたくさん、隠れ道、近道。


あっちだったっけ、こっちだったっけ、いや、こっち。

こういって、こういって。


 記憶をたぐりたぐり隅から隅まで巡回させたあげくをさまよって、河の流域という言葉をたよりに川の流れを耳に納め、見えない道をたどる。

舗装も、足跡も、見える根拠なんてフェイクでしかない。川の流れだけに集中させて。


 きなりに引っ張られたときの記憶は、じっと曖昧になったまま。

しかしそれしか根拠はなく、それいがいの原因もない。


 右往左往、本当にそうだ。しかし、きちんと前進をして、足を前へと運んで。

前進をすれば、いつかはたどり着ける。


 環状線、つながれたレールの上をたどっているだけならば。

いつの間にか戻っているのであれば。


 なんともそれは、まるで森がラビリンスとでもいいたげなことだ。

しかし、いっこうに見つからないことを考えれば、案外間違いでもないのではと思ってしまう。



 ずるっと、急に土が崩れて、心臓がはねる。

一度触れた感覚はやむことなく、静かに、静かにとどくんどくんと脈打つ。

滑るような、宙を浮いたような間隔。

幽霊、ずっとこの感覚が続くなら、一生なりたくないなと思わせるほど。


 ミミズも何も見当たらない。虫一匹見つからないこの土で滑る。

それはきっと、ぬかるみではなく、乾きすぎたせい。草の生えていない、そこだけ白ずんでいる。

なんとも不思議な、いや、これだけで不思議と言えば、全てが全て不思議だが。


 体制を立て直すと再び歩き出す。

どこやったか、どうやって来たかを忘れてしまって。

さっきの心臓が飛び跳ねた瞬間、記憶も一緒に飛んでいってしまったみたいで。


 私のなかの困惑が私の足を止める。

もう、どちらに進んだらいいのかがわからない。


 これは、れっきとした迷子。

どうやって隠そうと、あたかも迷ってないかのように振る舞おうと。

そう、私は、かつて一度もなったことなどない、そのせいか対処法も知りもしない。

今までいいこでいたのが、こんなところで仇と出たのだ。


 どうすれば、目的地にたどり着けるか、どうすればこの迷路から脱出できるか。

とりあえず進まなければならないことだけはわかる。それ以外のことが全くわからない。


 かすかに、「迷子になればその場で待機」という事を聞いたような気がしたけれど、それはもう無意味だ。


 人など、私以外がここを見つけるのはどうあがいても無理。

せめて朝になって、明るくなるまで。


 そんなことをしていたら時間を惜しんでいた意味がわからない。

いままでつめつめとやってきた意味が泡となる。

そうすれば、きなりの所へと戻ろうとしたのも無意味だというのだろうか。



 もう、日も暮れる。

ベッドの恋しさがさらに増してきて。


 いっそのこと、作ってしまった方が楽だろう。

あの感覚を思い出しながら、曖昧ながらも確実に。


 わらか、あれはなんの草だったか。

ここは日陰、ならば、あのふかふかは天日干しでもしているのだろう。


 すると、まずは日が昇るのを待たねばならない。

するとここで待機しなければならない。


 そう、今できることは待機すること。


 これでは意味がないという答えばかり浮かぶ。

やはり前進あるのみ。


 暗い夜道でも私ならば、猫のように目を光らせ、コウモリのように耳を澄ませることができるだろう。

きらりと、どんな動物でも身震いし、近寄ろうとせずにそのまま震え固まる。


 なんともすてきなことだ。



 森がきれいに開けた場所に出る。


 周りに木々がなくなり、ちょうど小さな崖になっているところで、これで私も上へ上へと上った甲斐がある。


 赤、燃えるといえば、太陽は燃えているのかもしれない。


 雲がちょうど青と赤のグラデーションで、幻想的な感情が、一時の心を埋め尽くす。

足跡が、横から指す光で陰が濃くなり、なんとも美しい写真が撮れそうだ。


 写真、一時期としてゆうかは写真を撮ることにはまっていた事を思い出して。


 まぁ、そのときにもらった写真は、りさこ先生とゆうかと撮った写真は母とけんかした時に不意に踏みつぶしてくしゃっとなってしまったのだけれど。


 今となっては思い出で十分だといえる。


 足跡がここまで続いているということは、おそらくここは以前誰かがこの絶景を拝めるための場所として、私たちで言えばあの木の下みたいな、価値のある場所として足を運んでいたのだろう。


 夢見心地な気分、明るい場所から少しくらい場所に移動したときのあの気分。

目がくすんで、まるで白昼夢みたいに。



 そんなことより今はベッドを探しているのだった。


 ここなら見はらしもよし、音もよく聞こえる、おそらく見つけられるだろう。

よく聞こえる、といっても風の音が通り抜ける音がするだけなのだけれど。


 声、たどっても、耳を信じたいならどこかの誰かが叫び声でも上げないといけないだろう。



 崖の上に立ってみる。


 ちょんっとおせばすっと落ちていってしまうような。


 自殺にはもってこいだろうか。

追い詰められたとき、ここに来るのもいいかもしれない。

そうしたら、何も考えることなく、自然の力で風に吹かれて、消えていけるのかもしれない。


 知識を、あの木の下でゆうかと死ぬ方が私にとっては数万倍、数億倍もいいのだが。

私でない人は、私と正負のようにこちらを選ぶことは確実だろう。



 「はぁー。」


 吐息を、吐きためたものを一気に解放する空気。


 急なそれは、私の耳にしかと届く。もちろん私ではない。

ため息をつくほど、失望の色をみせるほど今は暇じゃない。

夕日を見る時間が暇だというのなら、それはこの世の終わりだろう。


 それはこのすぐ下。

木々で埋め尽くされたまるでわたほうしのような間から。

崖、このまま飛び降りて運がよければ上に乗れるのではないだろうか。


 そして声は、あの3人の誰でもない。

声色が反響して変化しているとか、昼と夜で声が変わるタイプだとか、そういうのを抜いたらの話だが。


 いや、それ以外に会話内容だろうか。

明らかにしなさそうな会話内容。というか、ついこの昼見た事実に相応しないのだ。


 「はぁ、練乳イチゴパンはどうやったって手に入らないのよ!それになんでこんなに少ないのよ!もっと送りなさいよ!」


 「そうよね。ほんとむかつくよね。月に一回はとられてしまうもんね。」


 「え、なに?それは私が月に一回とられただけで怒ってると言っているの?」


 「そ、そんなわけないよ!」


 「まぁいいわ。今度はあいつにとられる前にとってやるから。」



 パン、一週間に一回どさっと送られてくるのだけれど、その量は人並みではない。

その量を食べきれるのであれば、きっと悪食なのではないだろうか。

賞味期限切れをたくさん集めて、一気にガス抜きをしているのだろう。


 いや、一週間に一回と言えば、こまめの方が当てはまるのか。


 誰が何のために、といえば、袋のパンを売っているどこかが処分のために、と言うのかもしれないけれど、私は誰かが私たちのために送ってくれているのだろうとひそかに思っている。



 しかし、この会話。


 おそらく送られてくる種類に偏りがあって、それは争奪戦になっているのだろう。


 それは、あーやとかきなりとか。あそこらへんがパンをとっていってしまうことが予想できるだろうか。


 そう、そんなに練乳イチゴパンが人気なのなら、この前ゆうかが食べていたのは本当に本当に運がよかったのだろう。


 感想をもっとたくさん聞いておけばよかった。



 ずるっと、私の足が滑る。


 それはなぜかというと、下への意識が強すぎたせいか。話を聞くのに夢中すぎたせいか。


 下をのぞき込む体制は重力の影響を受けやすい、幽霊ならはなしは別だが。

生憎わたしは幽霊ではない。


 そして真っ逆さまに落下する。


 ジェットコースターのあの感覚。少しすりむいた膝もどこが痛いのかわからなくなって。


 落下する恐怖というのは恐ろしいものだ。


 地球に引っ張られる力。誰かまねできるとすれば、それは化け物だろう。


 意識が飛びそうになって、風圧が目にしみて少し目が潤う。

それの意味を消すように、風がすくい上げて空中に持って行ってしまうのだが。

決して何が悲しくて泣いているわけではないのだ。


 空回り、翻り、くるくるとうねうねと風圧に左右されながら落下した先。

ちょうど会話していた二人の近く、まぁ、ここから落ちてラッキーなら大当たり、つまりはアンラッキー。



 「ひゃっ!?」


 「うぇっ!?」


 変な悲鳴が聞こえる。


 ぱらぱらと岩肌が崩れ落ちて。草木の根っこを引きちぎってしまっていて。

少し生命体を壊してしまったような気がして心の中で謝ってみたり。


 私もどこかからだが壊れているのだろうけれど。

落下したときのショックのせいか前が真っ暗で何も見えない。

立ちくらみとか、その辺の感覚。


 どうせあとからうぁーっと痛みがじんわりとこみ上げてくるのだろう。

体制がどうなっているのかさえ認識ができない。



 「・・・・・・!」


 声が出ないくらいの驚きとおぞましいようなものを見る目を向けられて、そして相手はなにも見なかったかのように目を背けて、しかしやはり気になったのか二度見する。

何の余興もない事から急ににょこっと生命体が現れたら、まぁそれは誰もが一度は驚く瞬間だろう。


 そしてやはり誰も手をさしのべてはくれない。

この世の中の人は、もしかしたら慈悲や同情をくれないのかもしれない。


 なんとも悲しいもの。いや、いろいろなところが壊れているのなら、そうなっても仕方のないことだけれど。



 「大丈夫!?」


 もう片方。ぱっとみえた人じゃない方の子が手をさしのべてくれる。


 それはとてつもない、さっき述べた慈悲、同情、哀れんでくれて、なおかつ助け船を出してくれる、もう絶滅危惧種なみの存在。


 前言撤回をしよう。この世はとてつもない愛情に包まれていた。ころころとものうつりが激しいというのなら、それはきっと気のせいだと思う。


 私は私の思ったことを考えているだけだから。



 私はそのとても優しい手を握る。


 ぬめっと、少ししたのは、もしかしたらここが少ししめった場所だからだと思う。

河が近くを流れて、本当に小さな河で、上から見たときは木々に隠れて見つけられなかったものだ。


 汚いことを少し後ろめて、相手に不快な思いをさせてしまわない方がいいことを知っているから。

しかし、まぁどうしようもないこと。


 そこらで洗いたいけれど、しかし、もし彼女らの飲み物の源となっているところを汚してしまうのだとしたら、それはもう謝罪の域を超えなければいけなくなるだろう。



 引っ張られて、ぐいっと意識が揺れる。


心配そうに見つめる瞳の中、裏が表に翻ってしまっている服を整え、姿勢を正し、そして改めて助けてくれたこの方を見る。


 茶髪を下で二つ束ねた、第一印象おとなしめの子。

垂れ目がそう感じさせるだけかもしれないけれど。それとくせっ毛のせいか。


 もう一人は派手派手しい明るい色の金髪だけれど。

髪の毛は伸びていないのか、上少し以外の塗り残しは見られない。


 ピアスの穴も埋まっていない。これはもしかしたらヤンキーなのでは。

ここら辺はヤンキーが多いのか。いや、ヤンキーと言ってはかわいそうか。


 こちらの印象はけんか強いというよりはおとなしめの化粧好きという印象。まぁピアスを開けるかどうかは別としても、一緒にしても。

つまり、ギャルか。この二人はギャルコンビか。

ここで出てくるのが「見くびってはいけない。」


 そして、地味に見つけたことといえば、二人とも極度の垂れ目、まぁ優しい方は極度というほどでもないけれど。


 しかし、垂れ目というのは間抜けそうに見えるけれどそうでないことの方が多い。


 警戒せねばならない。


 助けてくれた相手に警戒など、もってのほかなのだろうけれど。

しかし、太陽が本格的に沈み始めて、もう空が青暗くなり始めている今、視界の他で何されるかわからない。


 そしてついでに。



 「助けてくれてありがとう。是非とも名前を教えてほしい。」


 なんとも自然な流れ。


 そう、こういう会話が自然とできれば、私にももっと友達と呼べる人物がたくさんいたのだろうけれど。


 この波を自ら作りにいくのが、私にとってどれだけ苦痛だったか。

自然に生きる私たちは自然に抗うようなまねをしたくないと、勝手に思い込んでいて、まぁ、機械とか町とか自然破壊が大変嫌いだったし、空気は空気に流されてしまえばいいと思っていたから。

まぁ、今になってはこの発想を黒歴史と呼ぶのだろうか。


 もしも人間に与えられた知恵を無駄方向に使っていると言うのであれば、この機械から外れた生活をしてみたらどうあがいてもこちらが間違っているということがわかる。


 しかし、相手は何か戸惑うように眉を垂らす。


 確かに私の動きはぎこちないかもしれない。慣れていないのかもしれないけれど。


 そんな顔をしなくていいじゃないか。そんな目を向けられる理由がないじゃないか。


「あー、うん。そうね。一言ひとこと区切るのはよくない癖?ロボットみたいでつい笑っていらついてしまうね。」


 決してわらわず、威圧をかける。


 笑わない、これは何度も校則破りを訴えたときに投げかけられた目だ。

あの先生を嫌う、それ以上に訴える私を心の底から毛嫌うあの目。

そして、それと同様に現在彼女が怒っていることは誰でもわかるだろう。


 これが短期になる、というものか。

少しいらついただけでこうも表に出てしまう。

そう、まぁ沸点の低いことは仕方のないこと。

制御して、何度もいらつく方向をねじ曲げてきたのが、これもそれもウィルスのせいだ。


 そのおとなしそうな茶髪の子が無言で怒った後に、しばらくの沈黙が走る。

そう、簡単に教えてもらえるなど、おこがましいにもほどがあるけれど。


結局怒りは静めてくれないし、まぁ、そう。一度いらつくと、その相手の全ての行動が、すごく相手を蹴落としたくなるような気分になる。

そう、それは何度か味わってきた。

行動するのはいつも相手側だけれど。


 空気を押しのけたのは、金髪のロング。とても急に、それを、茶髪の威圧をはねのけるかのように、味方を裏切る形で、前に一歩出る。


「ねえ、みゆき。なんでそんなにあなたが威張っているのかしら。あなたはおかしいと思わないの?」


 みゆき、メモメモ。

いつの間にか情報をとられているとむかつくけれど。


 まぁ、言った事実を消せるわけじゃないし、忘れろと言って忘れられるものじゃない。

記憶とはそういうものだし、現実とはそういうものだ。


 しかし、極限の威圧感。

常にこういう風に威嚇をしていると、そのうち体力が尽きて木偶になってしまうのではないだろうか。

まぁ、それほどに行くともう手のつけようがないくらいなのだが。


「い、いや、ごめんね。そんなつもりじゃなかったの。これからは威張ったりしないよ。」


 あっさりと、それはそれはまるできつねのように。

長いものには巻かれろとかなんとかいうが、常に長いものに巻かれて楽なわけがない。


 なんとも、強い人には逆らえないというのは私さえもが知っていることなのだけれど。

よく、権力で言えばおそらくきなりとあーやなみ。


 もし私がみゆきの立場なら、おそらく屈辱と情けなさでもうこの世にはいないのかもしれない。

まぁ、服従したくないだけで自殺などしていたらこの世の中に生まれてきた時点で死亡が確定しているのだが。まぁ、服従を愛している人も全員その結末は同じなのだが。


「あの、名前は?」


「あなたもなに調子に乗っているの?ふざけないでくれるかしら?私はあなたにしゃべっていいかどうか許可を取っていないわよね?」


 調子に乗ったことを見透かされる。悲しい、というよりはとても怖い。


 怒らすとこれは長いひもの巻き添えになってしまうだろう。

そんなことになるなんてまっぴらごめんだ。


 もうとっくに日は沈み、暗く、森の中なだけあって、真っ暗。

目はだんだんと慣れて、少ない光も漏らさずに取り入れられる。


互いの位置の確認、もうこのくらさでは警戒レベルを数段階上げないといけない。

さらに調子に乗ったと脅されたばかりだ。


「そうね。名前だけなら教えてもいいわ。ゆりなよ。」


 先ほどの怒りが冷めたのか、案外優しく言葉をかけてくれる。

とういうのも、もしかしたらウィルスにかかっている人は気分がころころ移り変わるのかもしれない。


 しかし問題はこっち。さっきのせいか、みゆきの方は私を憎み恨みの連発でくくってくる。

威嚇するようににらみ、なおかつ私にとって利益になるようなことをしないどころか、不利益なことをしてよろこぶ、いわゆるいじめをする雰囲気ではないだろうか。


 まぁ、幸いここは学校ではないし、いじめている余裕があるなら、おそらくその間に、いつの間にか天国にいたーというのもあり得る怖い世界だ。命が惜しければ絶対にしない選択肢。


 皆生きるのに必死すぎるのも、今は利になったか。



 さて、たまたま本来ならば巡り会うのはもう少し先だったはずの人達に巡り会えたのと、名前を入手したところで、成果は十分だろう。

解決策もここで見つかるわけがないし、まぁ、洞窟の中くらいはあさっても文句を言わないだろうか。


 洞窟、さっきから気になっていたのだが、この二人の寝床だろうか。

プライバシー、というかまぁ、ここに来て人権なんて気にしていたら解決策は遠のくだけだ。


 問題なのはそちらでなくテリトリーに踏み込まれたときの二人の反応の方。特にゆりな。

私ならどうということはないのだけれど、というか安全地帯に敵が踏み込んだととらえるなら、もうそれはそれはいやなのだけれど、塾のクラスメートくらいなら、敵と認識しなくてもいいし。

まぁ、塾のクラスメートという概念すら消されているかもしれないけれど。


 少しだけ、のぞくだけ。

洞窟は目の前でそれはそれは吸い込まれるような真っ暗な口を開けて。

望まれるどことか拒否されているような気分だ。


 しかし、中を見ると、案外からっぽ。


 真っ暗で見えないなりに探してみても、特に何もない。

強いて言えばパンのゴミが散乱し、一つ、それを束ねた枕らしきものがあるだけだ。


 見るために移動することを二人は止めなかったのかというと、もちろん止められたことは止められた。

しかし、それは見た後なのでセーフ。


 と、いうわけでもない。


 ぽんっと置かれた手には死の血相が浮かび上がり、それを支援するかのように月明かりの木漏れ日が横顔をてらす。

それはまるで狼のような。陰りの中からするりと現れるそれのような。


 恐怖、まぁ、手に持っているカッターナイフを見れば誰でもおびえてしまうだろう。

そんな物騒なものを振り回していいわけがないのに。



「・・・・・・。」


 なにもいえずに後ずさる。


 そしてやはり臆病で逃げることすらできない。

腰が抜けて、逃げるどころか動くことすらかなわない。


 まぁ、急に思い立ったように自分を追い抜かして自分の部屋をのぞき見られて、気持ちのいいわけがない。

それは十分承知、しかし、それがわかって今を打開できるのは何もない。



 蝉の音が鳴る。


 夏のこの日はいつものように虫の音がどこからかなって。

しかし、以前聞いたような声でない声も混じっているような気がして。


 そこから推測できるとしたら、おそらくウィルスの範囲は全生物。

人間だけではない、ということだ。


 そんなことは関係ないのだけれど。

推測をして何になるかと言えば、少しでもナイフの恐怖を遠ざけることくらい。

少し、虫が突撃して少し隙を作ってくれないかな、逃げる間がほしいな、なんてお願い事をしてみたり。


 我ながらこんな時になんてお願いだ、とは思うのだけれど。



「きゃっ!?」


 ゆりなは慌てふためくように空中にナイフの刃を飛ばす。

それはまるで見えない敵を駆除しようとしているみたいに。


 幽霊・・・ゆうか・・・いや、そんなわけない。

幽霊が物理的にこの世に干渉できる事はないと言っていたのは紛れもないゆうかだ。


 それに、耳をかすめるは羽音、ゆうかにも見え、なおかつ仕留めたいと思うようなもの。


 あの言葉が届いたのか、あの言葉が届くわけがないと思っていたのだが。

願いは叶うは案外本当だったりするのかもしれない。人は努力だと言うけれど。


 そんなことをつべこべ考えている暇はない。

とりあえず何かが作ってくれたチャンスを逃すわけにはいかない。

それがたとえゆうかであれ、他の何かであれ。



 すたこらさっさというエフェクトがつきそうなくらい大急ぎでかける。


 ゆりなは虫でいっぱいなのか、こちらに目を向けることはない。


 邪魔しないか心配だったみゆきは、何もせずに突っ立っていて、そこらに落ちている石ころなみの印象でしかなかった。

というか、驚きあふれた顔でこちらを見つめただけで、それはまるで傍観者のようだ。


 視聴者、傍観者、客観的に見て、笑ったり泣いたり、決してこちらには干渉してこない人物みたいな。


 そしてそれらを全て通り過ぎて、風をきるように、この森を駆け抜けていった。

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