第34話 何が起きている?
朝、目を覚ました瞬間、昨日のことを思い出した。
セナが死んだ。
その事実が、身体の芯まで重くのしかかってくる。しばらく、布団の中から出られなかった。天井を見つめながら、昨日の光景が、何度も何度も頭の中で繰り返された。階段の下で倒れていたセナ。震える手で握らせてくれた懐中時計と、あの温かい指先。
それでも、いつまでもこうしてはいられない。千夏先生が死んだときも、同じような朝があった。大切な人を失って、それでも、日々は続いていく。あのとき、少しずつでも前へ進もうとしたことを思い出す。
今回はちゃんと踏ん張らないと。
そう自分に言い聞かせて、なんとか制服に袖を通した。目は腫れていたけれど、学校に行かないという選択肢は、なぜか浮かばなかった。動いていないと、悲しみに押しつぶされてしまいそうだった。
重い足取りで、校門をくぐる。
「詩子、やっほー」
聞き慣れた声に、顔を上げる。実音がいつも通りの調子で、手を振っていた。
「……え?」
一瞬、言葉を失った。実音の顔には、昨日のあの、崩れ落ちるような悲しみの跡が、まったく見当たらなかった。むしろ、普段通りの、明るい表情だった。
「なに、そんな驚いた顔して」
「実音、大丈夫だったの?」
恐る恐る、そう尋ねた。
「? 昨日のこと? なんか夜遅くに帰っただけだけど」
その返しに、背筋が、ひやりとした。
「セナのことだよ」
そう言った瞬間、実音は、本当に不思議そうな顔をした。
「詩子、セナって誰?」
「え……」
「もしかして、新しい転校生の名前とか? 聞いたことないけど」
一瞬、頭が真っ白になった。
ショックで、記憶に蓋をしているのかもしれない。そんな可能性を、最初に考えた。あれだけのことがあったのだから、無理もない。防衛本能のようなもので、辛い記憶を、一時的に切り離しているのかもしれない。
「ほら、私たちの、親友の。昨日、病院で……」
「詩子、大丈夫? なんか変なこと言ってる」
実音は、笑いながら、そう返してきた。演技をしているようには、まったく見えなかった。困惑も、動揺も、記憶を探ろうとする素振りすら、そこにはなかった。
「本当に、覚えてないの? 一緒に、病院にも行ったよね?」
「たしかに病院には行ったけど、ケガした人を救急搬送についていっただけだよ」
「でも、実音、昨日、私に電話してきて」
「あの時は慌ててたから、ほんと助かったよ」
「だよね。それで、セナが倒れててさ」
「…セナって昨日の人の名前?」
食い下がってみても、実音の答えは、まったくブレなかった。嘘をついている様子でも、記憶が曖昧な様子でもない。ただ純粋に、身に覚えがないという顔をしていた。
心の底から、セナという存在を、知らない。
そう確信させるほど、実音の反応は、あまりにも自然だった。
「詩子? どうしたの、顔色悪いよ」
心配そうに、実音が顔を覗き込んでくる。その表情にも、隠している様子は微塵もなかった。
「実音は、昨日、警察に……」
「そのケガをしてた人の状況を聞かれててね。割と本格的な感じで、警察署で取り調べも受けてさ。なかなかない体験だったよ。夜遅くに帰ることになったけど」
「私、実音と一緒に病院にいたんだよ。セナが、階段から落ちて」
「詩子、大丈夫? ほんとに、何の話してるのか全然わかんない」
実音の声には、苛立ちよりも、純粋な心配が滲んでいた。友達が急に変なことを言い出した、というだけの反応だった。
背筋を、悪寒が這い上がってきた。
何かが、根本的におかしい。実音の家庭のことで揉めたことも、渡り廊下での取っ組み合いも、警察に連れていかれたことも、実音の中には、その痕跡すら残っていない。まるで、昨日という日そのものから、セナという存在だけが、綺麗にくり抜かれてしまったみたいだった。
「ねえ、ほんとに大丈夫? 保健室行く?」
実音が、本気で心配してくれている。その優しさが、今は、かえって恐ろしかった。
「ごめん、確認したいことがあるから、先に学校行ってくるね」
「うん、いってらっしゃい」
この違和感の正体を確かめるため、私は走って学校へ向かった。ポケットの中の懐中時計が、やけに重く感じられた。
*
実音の反応だけなら、まだ、本人特有の何かかもしれないと思えた。ショックで記憶が混乱しているとか、あるいは何か特殊な事情があるのかもしれない。だから、他の人にも聞いてみることにした。確かめずには、いられなかった。
始業前の教室、まだ半分ほどしか席が埋まっていない。窓際の席で参考書を広げている小山内を見つけて、駆け寄った。
「小山内、ちょっといい?」
「詩子おはよう! どうした?」
「私と実音の親友の、セナって知ってる?」
「セナ? 誰それ、知らないなぁ」
即答だった。考える素振りすらなかった。まるで、生まれて一度もその名前を聞いたことがないような、そんな反応だった。
「うちのクラスの子だよ。よく一緒にいた。文化祭のとき、照明やってくれてたじゃん」
「いや、そんな子、うちのクラスにいたっけ。詩子、人違いしてない?」
小山内は本当に心当たりがないという顔をしていた。混乱している私を不思議そうに見ている。
念のためと思って、教室の入り口あたりで友達と話していた野町にも声をかけた。
「野町、セナさんって知ってる?」
「セナさん? ごめん、知らない」
野町も同じだった。記憶を探ろうとする間もなく、あっさりと否定してくる。
嫌な予感がどんどん膨らんでいく。震える声でもう一つ確かめたいことがあった。まさかとは思う。それでも、確認せずにはいられなかった。
「小山内、千夏先生って知ってる?」
「千夏先生? 知らないね、何の先生?」
心臓が、大きく跳ねた。
「ほら、ゆうきちゃんだよ。文化祭でドラム叩いてくれた、数学の先生」
「……詩子、どうした?」
小山内は心配そうに眉をひそめた。からかっている様子でも、忘れたふりをしている様子でもない。本当にまったく知らない、という顔だった。周りにいた他のクラスメイトも、何事かという顔でこちらを見ていた。
セナだけじゃない。
千夏先生のこともみんなの記憶から消えている。
足元がぐらりと揺れたような感覚があった。教室の喧騒が急に遠くなる。世界中で自分だけが、二人のことを覚えている。その事実が今さらのように、はっきりと突きつけられた。
なんで今まで気づけなかった?
セナも千夏先生を忘れていたってこと?
じゃあどうしてセナは、私をあの時慰めてくれた?
これまで何度も一緒に過ごしてきたはずの人たちが、その痕跡すら記憶に残していない。まるで最初から、この世界に存在していなかったかのように。
そう考え始めると恐ろしくて、足がすくんだ。
「詩子、大丈夫? 保健室連れてこうか?」
小山内の声が、遠くから聞こえた。曖昧に首を振って、その場をやり過ごすことしかできなかった。




