第十六話 聖人への道
「……ケンジさん……」
「ケンジさん、起きてください……」
誰かの声が聞こえる。
遠くから聞こえていた声が、少しずつ近づいてくる。
「ケンジさん!」
身体を揺さぶられる。
「う……」
俺はゆっくりと目を開けた。
ぼんやりとした視界に、綺麗な顔が映る。
「…………」
近い。
めちゃくちゃ近い。
目の前には、ブレンダさんの顔があった。
必死に俺を起こそうとしている。
「ケンジさん! 大丈夫ですか!?」
俺はゆっくり身体を起こそうとした。
その瞬間。
「――――っ!!」
顎に激痛が走った。
「いっっっっっっっっったぁぁぁぁぁ!!」
反射的に顎を押さえる。
手に大量の血がついた。
「えっ!?」
下顎から、ものすごい勢いで血が出ている。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
慌てて顎を確認する。
「なんだこれ……」
頭の中に、なぜか昔の記憶が浮かんだ。
(これ……)
(渋谷の番長が吉祥寺の番長にやられた時みたいじゃねぇか!!)
「いや、待て待て待て!」
俺はさらに慌てた。
「俺、何されたんだ!?」
ギレンさんが俺の顎を見る。
そして、妙に落ち着いた声で言った。
「……顎の骨、砕けてるな」
「えっ!?」
ブレンダさんの顔が、一瞬で青ざめた。
「え……?」
「顎の骨って……」
「砕けてる」
ギレンさんは、まるで天気の話でもするように言った。
「ちょ、ちょっと待って!」
ブレンダさんが慌て始める。
「私が……?」
ギレンさんが頷く。
「お前の拳だな」
「…………」
ブレンダさんが固まる。
「わ、私……ケンジさんを……?」
「まあ、そうなるな」
「ご、ごめんなさい!!」
ブレンダさんが俺に駆け寄ってくる。
「本当にごめんなさい! そんなつもりじゃ……!」
「いや、大丈夫です」
「大丈夫じゃないですよ!! 顎、砕けてるんですよ!?」
「……そうなんですか?」
「そうだよ」
ギレンさんが即答した。
俺はもう一度、顎を押さえた。
「……痛いです」
「だろうな」
俺は顎に手を当てた。
「じゃあ、治します」
「え?」
俺は目を閉じる。
「治れ」
しばらくして。
「……あれ?」
痛みが消えた。
口を動かしてみる。
右。
左。
上下。
「……治ってる」
ブレンダさんが呆然と俺を見る。
「顎の骨を……自分で?」
「はい」
俺はブレンダさんを見る。
「そういえば、ブレンダさんは大丈夫ですか?」
「え?」
俺は肩の傷を見る。
そこには、傷ひとつ残っていなかった。
「……治ってますね」
「……」
受付嬢も傷を確認する。
「本当です……」
「よかった」
俺はホッとした。
「間に合ってよかったです」
ブレンダさんが、呆然と俺を見る。
「……あの」
「はい?」
「あなた……」
ブレンダさんは自分の肩を見た。
「私に顎の骨を砕かれたんですよね?」
「はい」
「なのに……なんで、そんなことが言えるんですか?」
「え?」
俺は少し考えた。
「いや、だって治りましたし」
ブレンダさんは、言葉を失った。
ギレンさんが腕を組む。
そして、なぜか得意げに言った。
「こういうやつなんだよ」
「……どういう人よ」
「人を助けても、見返りを求めねぇ。自分が怪我しても、相手の心配をする」
「……」
ブレンダさんが俺を見る。
俺は普通に顎を動かしている。
「まあ、治ったからいいですけど」
ギレンさんが、さらに得意げに頷く。
「な?」
受付嬢も小さく頷いた。
「……本当に、すごい方ですね」
「いや、そんな大したことじゃないですよ」
俺はそう答えた。
(……ブレンダさん、綺麗だったな)
気を失う直前に見えたものは、はっきりとは覚えていない。
ただ、目を覚ましたときに見た、あの綺麗な顔。
そして、治療中のこと。
はっきりとは覚えていない。
(……見えたような)
(……見えてないような)
それでも――。
(まあ、近くであんな綺麗な人の顔を見られたんだし)
(……十分だな)
俺は、妙に満足していた。




