第十二話 モローの娘
しばらくの間、誰も何も言えなかった。
ギレンさんは、自分の生えたばかりの腕をじっと見つめている。
そして。
ゆっくりと、指を動かした。
「……動く」
一本。
また一本。
指を握ったり、開いたりする。
「……本当に、動く」
今度は肘を曲げる。
肩を回す。
腕を上げる。
何度も何度も、自分の腕を確かめるように動かしている。
「…………」
その顔には、驚きと喜びが入り混じっていた。
「……もう一度、両手が使えるのか」
ギレンさんが、ぽつりと呟いた。
俺は何も言えなかった。
さっきまで「腕が生えた」と驚いていたけど。
こうして本人が動かしているところを見ると、改めて凄いことなんだと思う。
「……ありがとうございます、ケンジさん」
「え?」
「俺の腕を……戻してくれたんですよね」
「いや、えっと……」
俺は少し困った。
「腰の薬だったんですけど……」
「それでもだ」
ギレンさんは笑った。
「俺にとっちゃ、腰が治ったことより、こっちのほうが何倍もありがてぇ」
「……そうですか」
「ああ」
ギレンさんは、もう一度自分の腕を見た。
そして、しばらくしてから御者台に座り直した。
「……よし」
「ギレンさん?」
「町までは、ちゃんと走らせる」
「え?」
「モローさんに雇ってもらった仕事だ。期限まではやるさ」
そう言って、手綱を握る。
両手で。
モローさんが、少し驚いたような顔をした。
「……ギレン」
「なんだ?」
「助かるよ」
「こっちこそだ」
ギレンさんは笑った。
「せっかく両手が戻ったんだ。両手で仕事させてもらうさ」
馬車は再び走り始めた。
しばらくして。
俺の隣に座っていたモローさんが、ぽつりと言った。
「……ケンジさん」
「はい?」
「少し、お聞きしてもよろしいですか?」
「なんでしょう?」
モローさんは、少し迷ったような顔をしてから口を開いた。
「先ほどの薬……」
「はい」
「もしかして、魔法薬ですか?」
「……たぶん」
俺自身、よく分かっていない。
あれが魔法薬なのかどうかも、正直まだよく分からない。
でも、鼻から出てきた青い液体だし。
たぶん魔法薬なんだろう。
「そうですか……」
モローさんは少し考え込んだ。
そして。
「……一本、譲っていただけませんか?」
「一本?」
「はい」
モローさんの表情は真剣だった。
「お金なら、いくらでも出します」
「いくらでも?」
「はい」
俺は少し驚いた。
「そんなに高いんですか?」
「値段の問題ではありません」
「……?」
モローさんは、しばらく黙っていた。
そして、静かに話し始めた。
「私には、娘がいるんです」
「娘さんですか?」
「はい。今年で二十歳になります」
「二十歳……」
俺は思わず聞き返した。
「幼い頃から身体が弱くて……」
モローさんは前を向いたまま続ける。
「何度も病気になりましてね。治療もしてきましたが、身体が弱いことには変わりません」
「……そうなんですか」
「今も、ほとんど寝込んでいます」
「…………」
「良くなる可能性があるなら、私はいくらでも払います」
モローさんの声は、真剣だった。
俺は少し考えた。
そして。
二十歳。
娘。
二十歳の娘さん。
「…………」
俺の頭の中に、ある考えが浮かんだ。
魔法薬でも治るかもしれない。
でも。
俺には治癒魔法がある。
それなら。
わざわざ魔法薬を一本渡すより、俺が直接治したほうがいいんじゃないか?
それに――
病気なら、ちゃんと診察しないといけない。
症状を聞いて。
身体を診て。
必要なら、服を脱いでもらって。
「…………」
俺は真面目な顔をした。
……うん。
治癒魔法で治そう。
もちろん、患者を助けるためだ。
決して、それだけじゃない。
……いや。
まあ。
ちょっとくらいは。
そんなことを考えていた俺は、モローさんに向き直った。
「モローさん」
「はい」
「お金はいりません」
「……え?」
「その代わり、お願いがあります」
俺は少しだけ真剣な顔になった。
「今日、俺が使った薬のこと」
「はい」
「それと、今見たことを……他の人には話さないでください」
モローさんは、驚いたように俺を見る。
「それだけ、ですか?」
「はい」
俺は頷いた。
「その代わり――」
俺はモローさんの目を見た。
「娘さんは、俺が治します」
「……!」
「治癒魔法で」
モローさんの目が大きく見開かれた。
「ケンジさん……」
「明日、町に着いたら案内してください」
「……ありがとうございます」
モローさんは深く頭を下げた。
俺は、それを見ながら頷いた。
「いえ。患者さんを治すだけですから」
そう言いながら、俺は窓の外を見た。
……二十歳の娘さんか。
しかも、ずっと病気で寝込んでいる。
だったら。
俺の治癒魔法で、直接診たほうがいい。
そのほうが確実だ。
……うん。
俺が治そう。
こうして俺は、モローさんの娘を治療することになった。




