第9話 道具は三歩後ろに立つ
書き手七号として私は戦略室に戻った。
与えられた机は以前のものではなかった。書き手三号の机は、処刑のあと、備品として処分されたのだろう。新しい――といっても、傷だらけの古い机が、部屋の隅に据えられていた。
それでよかった。同じ机だったら、体が覚えてしまう。癖のある座り方をして、覆面の下の正体をいつか誰かに気取られる。
私は少し離れた場所から自分の椅子だったものを見た。
空いていた。半年、誰も座らなかった椅子。黒鉄卿が言った通りだった。
*
戦略室の内側は、外から見ていたときと少し違って見えた。
道具の目で十二年過ごし、半年間だけ道具でない目を持った。その目で戻ってくると、この部屋の仕組みが初めて外側から見えた。
書き手は全部で九人いる。
番号で呼ばれ、顔を隠し、互いに口をきかない。誰がどの案件を書いているかも知らされない。ひとつの戦略を複数の書き手が分割して書くこともある。全体像を知るのは、室長だけだ。
そうやって、書き手は自分が何を書いているのか、最後まで分からないようにできている。
私はそれを知っていた。
だが、この部屋を出て初めてその意味が分かった。
書き手が全体を知らなければ、書き手は罪の意識を持たない。婚姻の系図だけを書いた者は、その婚姻が誰を殺すか知らない。毒の分量だけを計算した者は、その毒が誰の口に入るか知らない。
みんな自分の欄だけを埋めて、手を汚していないつもりでいる。
私だけが全体を書いていた。師の死後、この部屋で全体を任されたのは私ひとりだった。
だから罪の意識も私ひとりのものだった。
*
室長のドラークスは週に二度、地下に降りてくる。
降りてくると、書き手たちに案件を配り、前の案件を回収し、皇帝への献上物に自分の紋章を捺す。それだけをして、また上へ戻っていく。
地下に長くいると、道具に似てくる。彼はそれを嫌っているらしかった。
私が戻って三日目、彼は私の机の前に立った。
「七号。西方の穴の件、どこまで進んだ」
「三割ほど」
私は書きかけの紙を差し出した。西方工作の失敗を取り繕う、新しい戦略。もっとも、私はそれを完成させる気がない。取り繕えるものなら、半年前に私自身が取り繕っている。
ドラークスは紙を斜めに読んで、頷いた。中身を検めてはいない。
「陛下がご不快だ。急げ」
「かしこまりました。……ひとつ伺っても」
「なんだ」
「陛下は、あと何年御位にあられますか」
ドラークスの手が止まった。
彼は初めて私の覆面のあたりをじっと見た。
「……道具が聞くことか」
「西方の立て直しには、十年かかります。ですが、御代が変われば、立て直しの方針も変わる。無駄な戦略を書きたくないだけです」
しばらく彼は黙っていた。
それから、声を落とした。地下室の乾いた空気の中で、その声はやけによく通った。
「……長くはない」
*
皇帝オズヴァルトが老いている。
それは宮廷では公然の秘密だった。公然の、というのは、誰もが知っていて誰も口に出さないという意味だ。
皇帝が老いれば、次が問題になる。
この国では代替わりは血で決まる。
帝室の妃の妊娠には必ず最上位の孕み呪い《はらみのろい》がかけられる。皇帝の子らは呪われた多子として生まれ、各腹の宝子だけが皇子・皇女を名乗る。添え子のきょうだいは「影」となって、皇子に仕える。
そして代替わりのたびに、皇子皇女の全員が殺し合う。
玉座の儀、という。
最後に立っていた者の一族が玉座を継ぐ。敗れた者の血統は根こそぎ殲滅される。禍根を残さないためだ。兄が弟を、姉が妹を殺し、勝った一人が負けた全員の血を絶やす。
残酷だと他国の者は言うだろう。
だが、この国の者は誰もそれを残酷だとは思っていない。玉座とは、そうやって受け継がれるものだ。それ以外のやり方をこの国は知らない。
*
命の軽いこの国に、たったひとつだけ、穢してはならないものがある。
――儀の血は、正直でなければならない。
玉座の儀は正々堂々でなければならない。儀の前に他の皇子を暗殺することは掟破りの大罪だ。この国の玉座の正統性はすべてその一点に載っている。
殺し合いは許される。だが、儀の前の不意打ちは許されない。
妙な話だと以前は思っていた。どちらも人殺しではないか、と。
だが、いまは分かる。
この国は命を軽んじることでは誰にも恥じない。恥じるのは、玉座の血が「不正だった」ときだけだ。血の重さではなく、血の正直さ。それだけが、この国の帝位を単なる殺し合いの戦利品から受け継がれるべきものに変えている。
だから帝位を望む皇子たちは、儀の前にこっそりと邪魔者を消す。
殺し合いは堂々と。
下準備はこっそりと。
こっそりと人を消すには、それが「事故」や「病死」に見えなければならない。
その需要が戦略室という部署を育て、戦略という技術を磨き上げた。
*
六年前、私が第六皇子の「病死」を書いたのも、その需要の一つだった。
勝ち目のない皇子を儀の前に消す。よくある注文。私はその年、同じ種類の仕事を四つ書いた。
いま皇帝が老いている。
つまり、また、その季節が来る。
私が机に戻って半月もしないうちに、その気配は地下室にも届き始めた。
ドラークスに配られる案件の中に皇族の名が増えた。表向きは「警護の見直し」「療養の手配」「巡幸の日程」。だが、書き手の目で読めば分かる。
誰かが誰かを消したがっている。
水面下で儀はもう始まっていた。
*
その夜、私は帰り道を変えた。
戦略室の書き手は地下から専用の通路を使って城外へ出る。顔を隠したまま、誰にも会わずに帰るための道だ。私はその通路を以前とは違う分岐で抜けた。
城壁の外れ、処刑広場を見下ろす石段の上に、影がひとつ立っていた。
黒い、鉄の面。
私はその隣に立った。二人とも広場の方を見ていた。明日の処刑の日程表が、夜目にも白く、掲示板に貼られている。
「戻ったか」
「ええ。……あなたのおかげで」
「仕事は」
「始まっています」
私は掲示板を見たまま言った。
「儀が近い。皇子たちが互いを消し始めた。……戦略室に注文が来ています」
黒鉄卿はしばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「お前はそれを書くのか」
私は答えなかった。
書く。書かなければ、七号の椅子は疑われる。疑われれば、妹の欄は守れない。
だが、どう書くかは私が決める。
誰の注文も裏切らず、誰の注文も成立させ、そして――全員が自分の注文で滅ぶように。
まだその形は見えていない。見えていないが、そこへ向かう道の入り口だけは、もう見えていた。
「……ひとつ聞いてもいいですか」
私は鉄の面を見た。
「あなたは、なぜ私を助けたのですか」
半年前と同じ問いだ。
黒鉄卿は今度もすぐには答えなかった。
広場の方を見たまま、彼はしばらく黙って、それから掲示板の日程表を顎で示した。
「儀が始まれば、あの板は皇族の名で埋まる」
「……まさか」
「皇子が皇子を消す。消された皇子の『影』が、罪をかぶって台に乗る。……六年前も、そうだった」
鉄の面がわずかにこちらを向いた。
「儀のたびに、あの板には名前のない人間の番号が並ぶ。お前が半年前に乗った、あの台だ」
私は掲示板を見た。
いまはまだ白い紙に罪人の番号がいくつか並んでいるだけだ。
だが、儀が本格化すれば、この板は殺し合いの帳尻を合わせるための欄になる。皇子の代わりに、名もない「影」たちが乗る台に。
「あなたは」
私は鉄の面を見た。
「その台で、斧を振るう側ですね」
黒鉄卿は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
彼は背を向けて、石段を下りていった。その背中に私は声をかけなかった。
なぜ私を助けたのか。半年前も、今夜も、彼は答えなかった。
だが、今夜、私は一つだけ確かなことを知った。
この男は――名もない者が台に乗せられるのを、いちばん近くで、いちばん多く、見てきた人間だ。
斧を持たされて。




