第8話 凡作です
部屋の空気が止まった。
ドラークスの眉が片方だけ上がった。彼が私に向けたのは、興味ではなく値踏みの目だ。生意気な道具はたまに出る。使えるかどうかは、次の一言で決まる。
「――続けろ」
「この戦略は、標的の国が『我々の思考の枠内で動く』ことを前提にしています」
私は頁を繰った。
「婚姻を重んじる国は、婚姻の醜聞で壊れる。血を重んじる国は、血の偽装で壊れる。……この書き手はそう信じている。だから、相手の国のいちばん大事なものを狙えば必ず崩せると考えた」
「それの何が悪い」
「相手を自分と同じ形に見ているからです」
私は束の一枚を指した。婚姻の系図だ。まだ若かった私が引いた線が、そこにある。
「婚姻を重んじる国の人間が、婚姻の醜聞をどう受け止めるか。この書き手はそれを自分の国の物差しで測っています。ですが、物差しは国ごとに違う。……ある国では醜聞であることが、別の国では醜聞ですらない」
私はリディエンヌのことを考えていた。
この戦略を内側から壊した王女。私が「祖国の物差し」で組んだ罠を、彼女は「嫁ぎ先の物差し」で無効にした。私が醜聞だと信じたものは、彼女の新しい国では醜聞ですらなかった。
私は他国を自分と同じ形に見ていた。
それが敗因だ。負けてから半年かけて、私はそう結論した。
「第二に」
私は次の頁をめくった。
「失敗の設計がありません」
「失敗の設計」
「この戦略には成功したときの分岐しか書かれていない。駒が予定通りに動いたときの道筋は、隅々まで美しく整っています。……ですが、駒が予定通りに動かなかったときの道が、一本もない」
ドラークスは黙って聞いていた。
「書き手が自分の頭脳を信じすぎているのです。自分の組んだ通りに世界が動くと疑っていない。……人は予定通りには動きません。二十年のあいだには、必ず想定外が起きる。そのとき、この戦略には逃げ場がない」
これも負けてから学んだことだ。
私は完璧な戦略を書いた。完璧すぎて、たった一つの想定外——読み解く王女——で、全部が崩れた。想定外に備える余白を私は一行も残していなかった。
自分の頭脳を信じすぎていた。
「第三に」
私は束を閉じた。そして表紙を上にして、机に置いた。
「この戦略には書き手の名前がどこにも入っていません」
ドラークスの手が止まった。
「二十年の設計を書いた人間が、一枚の紙にも、一行の署名も残していない。……奇妙です」
「奇妙とは」
「功績を主張しない書き手が、この国にいるでしょうか」
私はまっすぐに彼を見た。布の下から見えない目で。
「戦略室の仕事は、成功すれば、献上した者の功績になります。書いた者の名は残らない。ですが、優れた書き手ほど、どこかに痕跡を残したがるものです。人は自分の作ったものに名を刻みたい。……それができなかった者がいるとすれば」
私は一拍置いた。
「名を持つことを許されていなかった者だけです」
*
沈黙が落ちた。
ドラークスはしばらく私を見ていた。いや、私の覆面のあたりを見ていた。何かを思い出そうとしているような、けれど何も思い出せない、そんな顔だった。
彼は私の顔を知らない。
十二年、同じ部屋にいて一度も見なかった。彼が知っているのは、書き手三号という番号と、その番号が生み出した戦略の数々だけだ。
いま彼の目の前で、彼が「天才」と呼んだ書き手の欠点を三つとも正確に挙げた覆面の女がいる。
彼はそれを自分の椅子に座らせようとしている。
自分が殺した女を。
私は待った。
この沈黙で、彼が何を思い出すのか。あるいは、何も思い出さないのか。それを私は試していた。
もし彼が、この三つの指摘から「書き手三号」を連想したら――処刑された天才が、まさに名前を持たない添え子だったと気づいたら――私はその場で捨てるつもりだった。廃屋も、経歴も、全部。もう一度いない人間に戻る。
だが、ドラークスは何も思い出さなかった。
彼にとって、書き手三号は「よく書ける道具」でしかなかった。その道具に顔があったことを、名前がなかったことを、彼は一度も考えたことがない。考える必要がなかったからだ。
やがてドラークスは笑い出した。
脂の乗った顔を揺らして、愉快そうに。
「面白い。……実に面白いぞ」
彼は書類に初めて丁寧な字で何か書きつけた。
「採用だ、七号。あれの後釜として、貴様を使ってやる。……あの天才の欠点を三つ挙げた道具は、貴様が初めてだ」
「光栄です」
「今日から、貴様の番号は七号。だが仕事は三号のものを引き継いでもらう。西方の穴を埋めろ。それが最初の仕事だ」
私は深く頭を下げた。
布の下で、口の端が上がるのを止められなかった。
*
凡作です、と私は言った。
間違いない。
書いた本人が言うのだから。
あの戦略は凡作だった。二十年をかけて完璧に組み上げて、たった一人の王女に読み解かれた凡作。負けた戦略に美しいも醜いもない。負けは、負けだ。
だが、負けたおかげで私は三つのことを学んだ。
他国を自分と同じ形に見てはならない。
失敗の設計を必ず入れておかねばならない。
そして——名前を持たない者は、いくらでもいないことにできる。
三つ目は、いま私自身の武器になった。
私は名前を持たない。鑑定簿にも、帳簿にも、私の名はない。だから私は死んでも記録に残らず、生きても記録に残らない。
この国でいちばん消しやすい人間。
それは裏を返せば、この国でいちばん捕まえにくい人間だ。
*
面接室を出るとき、ドラークスが背中に声をかけた。
「七号」
「はい」
「三号は――前任は優秀な道具だった」
彼は書類に目を落としたまま言った。
「十年あまり、一度も逆らわなかった。命じた通りに書いて、命じた通りに死んだ。……ああいう道具はもう出ないだろうな」
私は扉の前で足を止めた。
振り返らずに潰した声で答えた。
「……逆らわない道具などいないと思います」
「なに」
「逆らう機会がなかっただけかと」
ドラークスは顔を上げなかった。
「口の減らない道具だ。……気に入った。下がれ」
私は地下室を出た。
階段を上りながら、私は思っていた。
あなたはいいことを言った。
逆らわない道具はいない。
逆らう機会がなかっただけだ。
私は、書き手になってから一度だけ逆らった。三十七行目に、三行を書き足した。
その機会が、いま私を生かして、この階段の下へ連れ戻した。
二度目の機会は、私が自分で作る。




