第7話 書き手七号
半年が過ぎた。
その半年で私は三度、死にかけた。
一度は熱で。廃屋には薬がなく、井戸の水で冷やして凌いだ。一度は簿外狩りに。夜、井戸へ水を汲みに出たところを路地の角で見つかった。逃げ切ったのは、私がその一帯の路地の形を以前に地図で覚えていたからだ。行き止まりの数と、抜けられる塀の位置を頭の中に持っていた。
最後の一度は飢えだった。
黒鉄卿の食料は三日に一度、正確に届いた。だが二月目のある週、それが途絶えた。四日、五日と、裏の戸の下は空のままだった。
六日目の夜に包みが戻った。
いつもより多かった。パンが二つ、肉が倍。そして詫びの一言もない。私は何も聞かなかったし、彼も何も言わなかった。ただ、包みの隅に乾いた血が一滴、ついていた。
処刑人は忙しい月がある。
*
半年のあいだに私は経歴を完成させた。
名は、なし。前歴は炉。器の等級で選別に外れ、書き取りの適性だけで拾われた女。
この経歴の巧妙なところは、確かめようがない点にある。炉の記録は膨大で、そのくせ杜撰だ。番号は使い回され、死んだ者の欄はしばしば別の者に上書きされる。私は実在した三人の入所者の記録を継ぎ合わせ、そのどれでもない一人を作った。
照合されても、矛盾は出ない。矛盾が出ないように、私が三人を選んだからだ。
顔は布で隠す。処刑を生き延びた添え子だと露見すれば、それで終わる。声は喉に効く薬草で潰した。低く、掠れて、聞き取りにくい声。話し方も変えた。私は普段句読点の多い喋り方をする。書き手の癖だ。だから面接ではわざと言葉を詰まらせ、間を置いた。
左の掌には簿外の刻印がある。これだけは消せない。だから手袋をつけた。書き取りの試験で手袋は不自然だが、炉帰りの凍傷痕という設定で通す。凍傷は炉ではありふれている。
準備は整った。
*
選抜の日、私は皇宮の通用口に並んだ。
覆面の候補は私を入れて四人いた。素性を隠したい者は、この国にいくらでもいる。誰も互いの顔を見ない。誰も名乗らない。それが戦略室の流儀で、そもそもそういう人間しかここには来ない。
私の前に並ぶ三人の候補を、私は横目で観察した。
一人は手が震えていた。炉か、牢か、どこかから逃げてきた者だろう。一人はやたらと姿勢がいい。没落した貴族の類だ。最後の一人は私と同じで、何も読み取らせない立ち方をしていた。玄人だ。
誰も私を見なかった。互いを見ない。それがここへ来る人間の作法だ。
地下への階段を半年ぶりに下りた。
空気が乾いていく。紙とインクと、燃やした封蝋の匂い。十二年、私がその中で生きた匂いだ。壁一面の書棚。天井まで詰まった書類。何ひとつ、変わっていない。
変わっていないことに、少しめまいがした。
私が死んで、私の椅子が空いて、それでもこの部屋は同じ匂いのまま回り続けている。書き手が一人死んだくらいでは、この国は瞬き一つしない。
当たり前だ。私はそれを知っていた。
知っているのと、階段の下でそれを匂うのとは、別のことだった。
*
面接室に通された。
机がひとつ。椅子が二脚。片方に私が座る。もう片方に――
ドラークス卿が座っていた。
半年前、貴賓席から私の処刑を眺めて笑っていた男。私が書いた戦略を、十年、自分の名前で献上し続けてきた男。
彼は私の顔を見なかった。
覆面だから見えない、という話ではない。この男は覆面を取っても私の顔を見ない。道具の顔を覚える必要がないからだ。彼は書類を繰りながら、私の方に半分だけ体を向けて、退屈そうに言った。
「――七号候補。名は」
「ございません」
喉が潰した声を出した。自分の声ではないような声だった。
「前歴は炉。器の等級で選別に外れ、書き取りの適性のみで拾われました」
「炉のどこだ」
「第四炉。北棟。書記補佐として、三年」
「番号は」
「四四〇八」
実在した番号だ。持ち主は二年前に消耗している。欄は閉じられ、誰も見ない。
ドラークスは書類に何か書きつけた。私の答えを検めた様子はない。この男にとって候補の経歴などどうでもいい。書けるか、書けないか。それだけだ。
*
「試験を課す」
彼は机の下から束を取り出した。
「これを読め」
どさりと、机に置かれた。
古い紙の束だった。角が擦れ、綴じ紐が色褪せている。
その表紙を見て、私の指が手袋の中で動いた。
私が書いたものだった。
西方工作の設計図。婚姻の系図。醜聞の配置。偽装死の段取り。二十年がかりで西の二国を潰すために組み上げた、あの戦略の、若い頃の草稿。
自分の筆跡を半年ぶりに見た。
いや——半年前に処刑された女の筆跡を、その女の後任候補が見ている。
「かつて我が戦略室に天才と呼ばれた書き手がいた」
ドラークスは心底残念そうに首を振った。
「惜しい者を亡くした。西方の失敗はあれの晩年の乱れだ。だが若い頃の仕事は美しかった。……これを読み、欠点を三つ挙げよ。挙げられねば、不採用」
私は束をめくった。
紙が指の下で乾いた音を立てた。
一枚一枚に覚えがあった。この行を書いた夜のことも、この数字を三度検め直したことも、全部、覚えている。私の目は一度見たものを忘れない。ましてこれは自分の手が書いたものだ。
自分の墓標を、自分でめくっているような気分だった。
これは罠のような試験だ。名作とされるものの欠点を挙げろと言われて、正直に挙げられる人間は少ない。たいていは褒める。褒めておけば安全だからだ。
だが、褒めた候補は落ちる。ドラークスが欲しいのは、名作を疑える目だ。
私はそれを知っている。
この試験の採点基準を書いたのは――十二年前の、私だからだ。
私は顔を上げた。布の下で口の端が、少しだけ動いた。
「三つ、ございます」
「ほう」
ドラークスが初めて、こちらへ体を向けた。
「早いな」
「第一に」
私は自分が書いた二十年を、机に置いた。
「これは、凡作です」




