第6話 銀貨十二枚
九つの年、家に役人が来た。
父の同僚だった。庭の新しい石畳を褒めて、茶を飲んで、それから世間話のついでのように言った。
「お宅の次子は字が読めるとか」
父は答えなかった。
私は厨の隅にいて、その会話を聞いていた。添え子は同席しない。壁の向こうから椀を洗う手を止めて聞いていた。
「戦略室が書き取りのできる子どもを探しております。……添え子で結構。むしろ、添え子がよろしい」
なぜ添え子がよいのか、その男は説明しなかった。
説明する必要がなかったからだ。
名前のない人間は消しても記録に残らない。
*
値段は銀貨で十二枚だった。
簿外狩りが炉に売る添え子の相場が、一人につき銀貨三枚。私はその四倍の値をつけられた。字が読めて、一度見たものを忘れないという理由で。
父は頷いた。
それだけだ。私の方を見なかった。
その夜、ヴェイトが厨に来た。手に包みを持っていた。
中には乾いたパンと、塩と、それから一冊の帳面が入っていた。彼が軍学校で使っていた、罫の引かれた帳面だ。
「持っていけ」
「宝子様の物は受け取れません」
「命令だ」
私は受け取った。命令なら、受け取れる。この国の添え子はそういうふうにできている。
彼は少しのあいだ何か言おうとしていた。
結局、言わなかった。
背を向けて出ていく直前に、一度だけ振り返って、こう言った。
「……字は忘れるなよ」
*
戦略室は皇宮の地下にあった。
窓がない。日が昇っているのか沈んでいるのかも分からない。壁一面が書棚で、天井まで書類が詰まっている。空気が乾いていて、紙とインクと、燃やした封蝋の匂いがした。
案内された部屋に老人がひとりいた。
痩せていて、背が高くて、指先がインクで黒く汚れていた。机の上には紙が山になっていて、その山の隙間から彼は私を見た。
「顔を上げるな」
それが最初の言葉だった。
「ここでは誰も他人の顔を見ない。見なければ、覚えない。覚えなければ、証言できない。……この部屋の全員が、そうやって生きている」
私は床を見たまま頷いた。
「名は」
「ございません」
「よろしい」
老人は初めて満足そうな声を出した。
「今日からお前は書き手三号だ」
*
その人が私の師になった。
名前は最後まで教えられなかった。
みんな彼を「初代」と呼んでいた。戦略室が作られたときから、そこにいた男だという。
師は私に何も教えなかった。
最初の一年、私がやったのは書類の整理だけだ。運ばれてきた報告書を、日付順に綴じ、綴じ紐の色で分類し、書棚に戻す。それだけを、来る日も来る日も。
二年目の春、師が突然私に聞いた。
「三年前の五月、リンドヴェールの港に入った船の数は」
「三十一隻でございます」
「積荷は」
「二十二隻が穀物、六隻が鉄、二隻が硝石、一隻は記載がございません」
師はしばらく黙っていた。
それから、初めて筆を渡した。
「――書け」
*
師の教えは三つしかなかった。
ひとつ。
「嘘を書くな。嘘はいつか書いた者に返る。……事実だけを並べ替えろ。並べ方が、嘘より強い」
ふたつ。
「戦略とは、人を動かすものではない。人が動きたい方向に道を作ってやることだ。道を作れば、人は自分の意思で歩いたと信じる。信じている者は止まらない」
みっつ。
「この部屋を出るな。出れば、お前は自分の書いたものを見ることになる」
私は三つとも守った。
三つ目だけは守り切れなかった。
書き続けた歳月のうちに一度、私は西方から届いた報告書の中に自分が設計した村の名前を見つけた。焼かれた村だ。数字だけの報告だった。焼失家屋、四十七。死者、記載なし。
その夜、師は私の様子を見て、何も言わずに、机の上に酒を置いた。
飲まなかった。飲めば、飲むことに慣れると思った。父のように。
*
師の処刑は、私が十の年の冬だった。
罪状は「国家機密の漏洩」。何をどこへ漏らしたのか、書類には書かれていなかった。書類を管理していたのは、他ならぬ師本人だ。
処刑の前の晩、師は私を呼んだ。
机の上に書きかけの紙が一枚あった。師はそれを蝋燭の火にくべながら、私に背を向けたまま言った。
「三号。お前はこの部屋でいちばん危ういものを持っている」
「……何でございましょう」
「一度見たものを忘れない目だ」
紙が燃え落ちた。
「知りすぎた道具は、捨てられる。捨てられる前に、忘れたふりを覚えろ。……それでも、忘れてはならんものを、ひとつだけ選べ」
私は意味が分からなかった。
師は振り返らなかった。
ただ、机の引き出しを開けて、中から小さなものを取り出し、私の手に握らせた。
鍵だった。
小さくて、黒くて、飾りのない鍵。どこの鍵かは言わなかった。
「持っておけ。……使う日が来なければ、それでいい」
*
翌日、私は広場にいた。
群衆の隙間から台の上の背中が見えた。師は最後まで背筋を伸ばしていた。人が死ぬのを、私はその日初めて自分の目で見た。
斧が上がる直前、師は顔を上げた。
群衆を見渡して、そして――私の方を、見た。
見た、と思った。あんな人混みの中で十一の添え子を見つけられるはずがない。それでも私には目が合ったように思えた。
師の唇が動いた。
声は聞こえなかった。読み取れたのは、二つの言葉だけだ。
名を持つな。
道具は名を持つと壊れる。
斧が落ちた。
群衆が沸いた。
誰かが私の隣で屋台の豆を食べていた。甘い匂いがして、私はその日から砂糖の匂いが嫌いになった。
*
半年後、私は師の椅子に座った。
十一歳だった。
最初の仕事は採用の内規を書き直すことだった。前任者が処刑された部署は、後任の選抜に半年を要する——その一文を書いたのは、私だ。
当時の室長だった若いドラークスは、私の書いた内規を読んで、頷いて、自分の紋章を捺した。
私の顔は見なかった。
*
廃屋の机の引き出しに私はその鍵を入れてある。
十一年、一度も使っていない。どこの鍵かも、いまだに分からない。
師は何を隠して死んだのだろう。
国家機密の漏洩。漏らした先は書かれていなかった。書類を管理していたのは、師本人だった。
――知りすぎた道具は、捨てられる。
私はその言葉の意味を、六年前まで理解していなかったと思う。
いや。
今日この日まで、理解していなかった。
私は書きかけの経歴書に目を落とした。
『書き手七号候補』
半年後、私はもう一度あの地下室の扉を叩く。
顔を隠し、声を変え、名前のない女として。
師がくれた三つの教えのうち、最初のひとつを、私はこれから徹底的に使うことになる。
――嘘を書くな。事実だけを並べ替えろ。
並べ方が、嘘より強い。
*
ペンを置いて、私は引き出しから鍵を取り出した。
黒くて、小さくて、飾りがない。掌の上で思ったより重い。
十一年、私はこれをどこの鍵とも知らずに持っている。師が死ぬ前に握らせた、意味の分からない一本。
――それでも、忘れてはならんものを、ひとつだけ選べ。
あのとき師はそう言った。私はその意味をずっと考えていた。忘れない目を持つ私に、なぜ「ひとつだけ選べ」と言ったのか。
いまは少し分かる気がする。
一度見たものを全部覚えている人間は、何もかもを同じ重さで抱えてしまう。焼けた村の数字も、豆の値段も、母の名前も、同じ棚に並べて区別しない。それは忘れているのと、たぶん同じことだ。
だから、選べ。
いちばん重いものを、ひとつ。
六年前の三十七行目。あの三行が、私の選んだひとつだったのかもしれない。命令に背いてまで、紙の上に残した、たったひとつの。
その相手が、いま私を生かした。
私はまだその二つを繋げていない。
鍵を引き出しに戻して、経歴書に向き直る。書くべきことはまだ山ほどある。
存在しない女を、あと半年でこの世に生ませなければならない。




