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第5話 注ぎ

 注ぎは月に一度だった。


 朔の夜、添えそえご宝子たからごの部屋に呼ばれる。掌を合わせ、自分の魔力を相手の器へ流す。それだけの、静かな儀式だ。


 痛くはない。


 冷たい水を体の芯から少しずつ汲み出されるような感じがする。終わると、指先が痺れて、数日は熱が引かない。それだけだ。


 器の底が見え始めると、話が変わってくる。


 最初に消えるのは、匂いだ。次に味。それから、寒さと暑さの区別がつかなくなる。歩いていても、自分の足音が遠くに聞こえるようになる。


 三子――弟は七つの頃から、その状態だった。


 *


 弟は四人の中でいちばん器が小さかった。


 鑑定官の書いた数字は、私やミレナの半分もなかった。それでも注ぎの量は添え子の頭数で割った定額と決まっている。器の大きさで加減する決まりは、どこにもない。


 決まりを作るのは、宝子の側だからだ。


 弟は月に一度、部屋から自分で歩いて出られなくなった。私が背負って厨まで運んだ。軽かった。背中に乗せると、鳥を背負っているようだった。


「ねえさま」


 ある夜、背中で弟が言った。


 添え子どうしは互いを呼ぶ名を持たない。だから弟は勝手にそう呼んでいた。誰かに聞かれたら罰せられる呼び方だった。


「ぼく、味がしないんだ」


「そう」


「でも、ねえさまの背中は、あったかい」


 それが最後の会話になった。


 三日後の朝、弟は起きてこなかった。


 役所から人が来て、器を測って、帳面に何か書いて帰った。


 私はその帳面を見た。


 一行だけだった。


『三子 消耗』


 病名も、日付以外の何も、書かれていない。消耗というのは、道具が使い切られたときに使う言葉だ。鍬の柄が折れても、そう書く。


 弟の器は生まれたときから小さかった。それを知っていた鑑定官がいて、それを知っていて定額を決めた役所があって、それを知っていて注がせた家があった。


 誰も罰されなかった。


 誰も悪いことをしていなかったからだ。


 *


 九つの年、私は買われた。


 それきり家を出たが、注ぎの義務は消えない。宝子の権利は添え子がどこにいようと追いかけてくる。年に三度、私は戦略室から実家へ戻された。


 そのたびに、ヴェイトは変わっていた。


 背が伸びて、肩が広くなって、目の色が薄くなっていく。宝子は年を追うごとに強くなる。国はその成長を順当な育ち方と呼ぶ。


 十五の年、彼は帝都の軍学校へ入った。


 十七の年、前線に出た。


 十八の年に帰ってきたとき、彼は私の顔を見て、少しのあいだ誰だか分からないような目をした。


 私は掌を差し出した。注ぎの夜だったからだ。


 ヴェイトはその手を見下ろして、それから言った。


「……今日は、いい」


「決まりです」


「俺が決まりだ」


 彼は自分の掌を握りしめて、後ろに隠した。


 それから笑おうとして、失敗したような顔をした。


「なあ。俺はこの前、部下を三人置いて撤退した。生きてる奴を、置いてきた」


 私は黙っていた。


「置いてきたとき、何も感じなかった。……いま思い出しても、何も感じない」


 窓の外で雪が降っていた。


 彼は長いこと黙って、それから独り言のように言った。


「おまえが厨の隅で飯を食ってるのを見て、昔は腹が立ったんだ。……何にだったかな。もう、思い出せない」


 *


 宝子は添え子の魔力を吸って強くなる。


 その代償を、私は当時、知らなかった。


 知っていたのは、宝子の側だけだ。誰も口に出さない。口に出せば、この国の仕組みそのものを疑うことになる。


 ――奪った力は、心をう。


 喜びから鈍る。次に、涙。最後に、他人の痛みを想像する力が消える。


 そして国はその状態を歓迎する。


 感情のない宝子ほど、よく働く兵器になるからだ。


 *


 二年前の冬、ヴェイトは死んだ。


 十九だった。


 北の戦線で単騎で敵陣に突っ込んで、三日戦って、四日目に力尽きたと聞いた。誰も止めなかったし、誰もそれを異常だと思わなかった。宝子とはそういうふうに使うものだ。


 遺体は帰らなかった。


 届いたのは、彼の外套と、剣の柄と、簡単な通知書だ。


 私は戦略室から休暇をもらって、実家へ帰った。父は玄関で酒を飲んでいて、私を見て、目を逸らした。


 夜半、私は彼の部屋にいた。


 空の部屋だ。寝台と、机と、椅子。私が住んでいた廃屋と、いま思えば、よく似ていた。


 そこで、それは起きた。


 *


 最初、床が傾いたのだと思った。


 次に、体の内側で堰が切れる音がした。


 二十年、器の底に薄く張っていただけの水が、突然深くなった。深いというより――底が抜けて、下から大河が押し上げてきた。


 立っていられなくて、私は膝をついた。


 部屋の空気が鳴った。机の上の燭台が倒れ、火が消え、それでも部屋は明るかった。私の腕から銀色の光が滲んでいた。


 そんなものは生まれてから一度も出したことがない。


 私は添え子だ。器はほとんど空で、月に一度、その空を掻き回して、掻き集めたぶんを兄に注いで生きてきた。


 その私の中に、いま海がある。


 そして耳のすぐそばで、声が聞こえた。


 二年前に前線で死んで、遺体すら帰らなかった男の声が、はっきりと。


 ――半分は、おまえのだった。


 *


 私は床に伏せたまま動かなかった。


 どれくらいそうしていたのか分からない。光が引いて、部屋がただの暗い部屋に戻ってから、私は起き上がった。


 手が震えていた。


 ――誰にも、言えない。


 最初に考えたのが、それだった。


 宝子が死んだとき、その力と器が、まれに添え子の誰かに移ることがある。移り、と呼ばれている。関係の深さ、器の相性、魔力の種類——条件は誰も解明していない。百に一つ、いや、千に一つの現象だ。


 だから宝子が死ぬと、添え子はまず疑われる。


 鑑定にかけられ、力が移っていれば、国有財産として回収される。使い道は決まっている。前線か、炉か、実験場のどれかだ。


 私が回収されれば、書き手三号の椅子は空く。


 空けば、妹の欄は誰にも守られない。


 だから私は隠した。


 鑑定官が来た日、私は掌を差し出して、空の器を見せた。二十年、空にされ続けた器の形を、私は誰よりよく知っている。どこを見せれば「空」に見えるかも、知っている。


 鑑定官は「異常なし」と書いて帰った。


 紙の上では私は今も、空っぽの添え子だ。


 *


 ヴェイトを失って、ミレナは主なしの添え子になった。


 主のいない添え子は、国有財産になる。売り払われるか、炉へ送られる。


 妹は炉へ送られた。


 名前を取り上げられ、髪を落とされ、手の甲に番号を焼かれた。


 番号七六二。


 私はそれを戦略室の机の上で知った。炉の月次名簿は戦略室にも回ってくる。工作員を潜り込ませる先を選ぶために、私が要求した書類だった。


 自分で作らせた書式の、決められた欄に妹の番号があった。


 *


 いま、廃屋の机の前で私は自分の右の掌を見ている。


 この二年、私は一度もこの力を使っていない。


 使えば、露見する。露見すれば、妹は死ぬ。


 だから私は生涯でいちばん強い武器を持ったその日から、一度も抜かずに生きてきた。


 ――半分は、おまえのだった。


 兄は何を知っていたのだろう。


 あれは、力の話だったのか。


 それとも。


 私は蝋燭の火を吹き消した。

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