第4話 二度目の出産
経歴書は七行目で止まった。
『出生』
その欄の前でペンが動かなくなった。
存在しない女を作るには、その女が生まれた場所と、生まれた年と、生まれ方が要る。私はこれまで何十人も紙の上で人を生ませてきた。西方の商人。港湾の楽士。侍従の未亡人。どれも実在の記録を継ぎ合わせただけの、嘘のない嘘だ。
なのに今日は手が止まる。
自分に近い人間を作ろうとすると、こうなるのだと知った。
私は羽根ペンを置いて、椅子の背に体を預けた。板で塞いだ窓の隙間から夕方の光が細く入っていた。
仕方がないので、私は私が生まれた日のことを考えた。
*
この国では女が身籠もると、家の者は呪術師を呼ぶ。
孕み呪い《はらみのろい》という。妊娠中の母体に呪いをかけると、胎の子の魔力が跳ね上がる。生まれてくる子は常人の何倍もの器を持って生まれる。
代償に胎が裂ける。ひとりで生まれるはずだった子が、三人や四人になって出てくる。そして呪いは母体を喰う。
母体は生涯に二度が限界だ。
初産ですら命がけで、二度目の出産はほぼ母の死を意味する。産婆はそれを「二腹目は棺と引き換え」と言う。言いながら、呼ばれれば行く。
それでも家は二腹目を望む。
増えた魔力は生まれた子に均等には宿らない。いちばん濃く受けた一人だけが宝子になる。宝子がひとり出れば、家は身分を上げられる。職民が宝家になれる。この国で身分を上げる道は、事実上それひとつしかない。
残った子どもたちは添え子と呼ばれる。
宝子の財産だ。名を与えられず、宝子に仕え、月に一度自分の薄い魔力を宝子に注ぐ。
四人産んで、一人が当たれば安い。
みんながそう言う。誰も母の側から数えない。
*
私の父は鑑定官だった。
生まれた子の器を測り、宝子と添え子を分け、鑑定簿に記す役人だ。生涯でいちばん多く「その子の一生」を決める職でありながら、俸給は驚くほど安い。
一腹目で母は三人産んだ。
三人とも宝子ではなかった。器が足りず、身分は上がらず、三人は幼いうちに次々と死んだ。名前は誰も覚えていない。呼び名しかなかったからだ。
父は二腹目を望んだ。
母がどんな顔でそれを聞いたのか、私は知らない。母の顔を知らないからだ。
二度目の孕み呪いはいちばん強い術者を呼んで、いちばん深くかけさせたという。父の同僚が後年、酒の席で笑いながら私に言った。あれは博打だった、と。籤の代金は母の命で、当たれば家が貴族になる。
四人、生まれた。
母はその日に死んだ。
*
鑑定の日のことを、私はもちろん覚えていない。
覚えているのは、何度も何度も聞かされた話のほうだ。
鑑定官は身内の子を測れない。だから隣州から父の同僚が来た。四つの籠が並べられ、順に器を測った。
ひとり目、ヴェイト。
――計器が、跳ねた。
鑑定官は二度測り直したそうだ。この州で二十年、こんな数字は見たことがないと言った。父は台の隅で両手を握りしめて立っていた。
ふたり目、私。
そこで、部屋が静かになった。
その静けさが何だったのかを、聞かされる話は説明しない。父も、誰も、そこを詳しく語らない。ただ「時間がかかった」とだけ言う。
鑑定官はしばらく計器を見ていた。それから、こう言ったそうだ。
「――呪いの実りは、ひとつだ」
私は添え子と記された。
三人目、四人目も、添え子と記された。
ヴェイトひとりが宝子となり、その日、我が家は宝家になった。父は昇進し、家に人が出入りするようになり、庭に新しい石畳が敷かれた。
母の葬儀はその石畳が敷かれる前に、簡素に済まされたという。
*
添え子は家族ではない。
同じ食卓には着けない。宝子が食事を終えたあと、厨の隅で残りを食べる。廊下では壁側を歩く。宝子の前では目を上げない。
名前は与えられない。
与える必要がないからだ。呼ぶときは「おい」で足りるし、書類には番号が振ってある。私は家の帳面で「次子」と呼ばれ、弟は「三子」、妹は「四子」と呼ばれた。
この国の身分は生まれた瞬間に鑑定簿に書き込まれて、そこから動かない。
帝家。宝家。職民。賤民と奴隷。
そして、簿外。
添え子はいちばん下ですらない。簿の外にいる。名前を書く欄が、最初から用意されていない。
抜け出す道は事実上ひとつだけだ。宝子を産むこと。だから女たちは母がしたように、二腹目に命を賭ける。
落ちる道はいくらでもある。
*
ヴェイトは優しい子どもだった。
優しい、という言葉が正しいのかどうか、いまでも分からない。ただ彼は他の宝子たちがすることを、しなかった。
近所の宝家の子は添え子の弟を犬のように歩かせて自慢していた。首に紐をつけて、四つ足で歩かせる。周りの大人は笑って見ていた。それは残酷な光景ではなく、微笑ましい光景として消費された。
ヴェイトはそれをしなかった。
私を壁側に歩かせなかった。厨の隅ではなく、自分の部屋に食べ物を持ってきた。父の目を盗んで、字を教えた。
添え子に字を教えるのは、禁じられてはいないが、誰もしない。読める道具は面倒だからだ。
私はすぐに覚えた。一度見た文字を忘れなかった。
ヴェイトはそれを見て黙っていた。喜びもせず、驚きもせず、ただじっと私を見て、それから小さく息を吐いた。
あのときの顔の意味を、私は二十年知らずにいた。
*
父は酒を飲むようになった。
昇進して、俸給が上がって、庭に石畳が敷かれてから、飲むようになった。
夜になると、父は帳面を広げて、同じ頁を何度も繰った。それから顔を上げて、部屋の隅にいる私を見る。
目が合う。
父は必ず、目を逸らした。
そして、誰にともなく呟くのだ。
「……呪いの実りは、ひとつだ」
教義の言葉だった。子どもでも知っている。神殿の壁にも彫ってある。この国の鑑定はすべてその一行の上に立っている。
けれど父はそれを教義として唱えていたのではなかったと、いまなら分かる。
あれは、言い聞かせだった。
誰に。
*
廃屋の机で私はペンを取り直した。
『出生』の欄に私は書いた。
『職民の家。両親は流行り病にて死亡。孕み呪いの記録なし』
嘘は一行もない。実在する家の、実在する記録から取った。その家の子どもは十二年前に本当に死んでいる。死んだ子の欄は閉じられたまま、誰も見ない。
私はその欄に入る。
書きながら、私は考えていた。
鑑定の日、私の番のときだけ、部屋は静かになった。
鑑定官はなぜ時間をかけたのか。
父はなぜ二十年、酒を飲みながら同じ言葉を繰り返したのか。
――呪いの実りは、ひとつだ。
あの言葉は事実を述べていたのではない。
事実を、押さえつけていたのだ。
*
鑑定官は身内を測れない。だから私の鑑定には隣州から父の同僚が来た。
その男はその後も年に何度か、うちに出入りした。石畳を褒め、茶を飲み、父と碁を打った。
一度だけ、私はその碁の脇に呼ばれたことがある。茶を運ぶためだ。盤の横に膝をついて、湯呑みを置いた。
男は碁石を置きながら、父にではなく、盤に向かって呟いた。
「……あの日の計器の針は今でも夢に見る」
父の手が止まった。
「同じ数字が二度出た。二度とも、同じ高さで止まった。……二十年やって、初めてだった」
「実りは、ひとつだ」
父が低く言った。
男は少し笑った。
「そう書いたよ。……そう書けと、言われた通りに」
碁石が、ぱち、と鳴った。
私はそれ以上何も聞かなかった。茶を置いて、下がって、厨の隅に戻った。
同じ数字が、二度。二度とも、同じ高さで。
子どもの私にはそれが何を意味するのか分からなかった。
いまなら、分かる。
ひとり目のヴェイトと、ふたり目の私。
計器は二度、同じ高さで跳ねた。
*
この国の教義は神殿の壁に彫られている。
呪いの実りは、ひとつ。
母の命を賭けて増やした魔力は、必ずひとりの子に宿る。だから宝子はひとり、残りは添え子。鑑定はすべてその一行を証明するために行われる。
けれど、もし。
もし、実りがふたつ生まれることが本当はあるのだとしたら。
教義に合わない子はどうなるのか。
――記録の側が、直される。
この国では事実と記録が食い違えば、直されるのは事実のほうだ。私は十年、それを他国に対して使ってきた。使う側にいたから、よく知っている。
私は添え子と書かれた。
書かれたから、添え子になった。
順番が逆だったのかもしれない。




