第3話 血袋
板の下は狭かった。
処刑台の床板と地面のあいだ、人ひとりが横になれるだけの隙間。粗い砂と、古い血の匂いと、湿った木の匂い。
黒い鉄の面が逆さまに私を覗き込んでいる。
仮面の目穴は思ったより小さい。そこに光が入らないので、奥に目があるのかどうかも分からなかった。
「動くな」
低い声だった。喉の奥から押し出すような、押し殺した声。
「まだ人がいる。日暮れまでそこにいろ」
私は答えなかった。答える息がまだ戻っていなかった。
鉄の面が離れ、板が塞がれた。
闇の中で私は自分の首に触れた。
繋がっている。当たり前だ。私が書いた通りに動いたのだから。
それでも、指が震えていた。
完璧に組んだ戦略が、完璧に動いたときの震えだ。これを喜びと呼んでいいのかどうか、二十一年生きて、まだ分からない。
*
日が暮れて、広場から人が引いた。
屋台が畳まれる音。荷車の軋み。掃除の水が石畳を流れる音。豆の殻を掃き集める箒の音が、いつまでも続いていた。
板が持ち上げられたのは、鐘が三つ鳴ったあとだった。
差し出された手を、私は取らなかった。自分で這い出した。膝が笑って、一度地面に手をついた。
黒鉄卿は待っていた。
急かしもせず、手も貸さず、ただ立って待っていた。
私は立ち上がって、まっすぐに彼を見た。
「なぜ、助けたのですか」
鉄の面は何も言わなかった。
「あなたに頼んだのは、五つだけです」
私は指を折った。
「斧の軌道を、二寸ずらすこと。籠の中身を、前夜のうちに入れておくこと。血袋の紐を、私の合図で引くこと。板の下の砂を、掘っておくこと。……そして、何も聞かないこと」
「そうだな」
「四つは報酬で買えました。処刑人は金で動く仕事です。……けれど五つ目は金では買えない」
私は一歩彼に近づいた。
「あなたは私が誰なのかを聞かなかった。なぜ助けを求めるのかも、聞かなかった。……人は理由の分からないものに手を貸しません。あなたには私が知らない理由がある」
仮面の下で息が漏れた。笑ったのかもしれなかった。
「戦略室の書き手というのは、みんなそうなのか」
「と、申しますと」
「命を拾ったその日に拾った相手の腹を探る」
「……職業病です」
「たいした病だ」
男は仮面の縁に指をかけた。外すのかと思って、私は息を止めた。
外さなかった。ただ、位置を直しただけだった。
「答えはまだやれん」
「なぜ」
「言えば、お前は今夜俺のところへ礼を返しに来る」
鉄の面がわずかに傾いた。
「借りを返す女は、次の仕事ができん。……お前の首はまだ使い道がある」
*
男は路地の奥に馬車を待たせていた。
紋章のない、粗末な荷馬車だ。荷台には空の樽が積まれていて、そのうちのひとつの底が抜けていた。私はそこに入った。
樽の中は酢の匂いがした。
「行き先は聞かないでおきます」
「聞け」
声が返ってきた。
「聞いて、覚えろ。お前は道を覚えるのが得意だろう。……二度と俺に道を教えさせるな」
私は目を閉じて、車輪の音を数えた。
石畳の目地を渡る音の間隔。角を曲がるたびの傾き。橋を渡るときの反響。坂の勾配。
東へ七町、北へ三町。二つ目の橋を渡り、下町の織物街を抜けて、その先の――
止まったのは、廃屋だった。
窓が板で塞がれ、扉の蝶番が片方外れている。壁の下の方に赤い塗料で数字が書かれていた。取り壊しを待つ家に、市が振る番号だ。
「三月は住める」
男は言った。
「その先は自分で考えろ」
*
中は思ったよりも整っていた。
寝台がひとつ。机がひとつ。椅子が一脚。それだけだ。
机の上に紙の束とインク壺と、削られた羽根ペンが三本、並べて置かれていた。
私はそれを見た。
「……これは」
「要るだろう」
男は扉の外に立ったままだった。中には入らない。
「食い物は三日に一度、裏の戸の下に置く。水は井戸だ。北の角。夜に汲め」
「あの」
「顔は隠せ。声も出すな。この辺りは簿外を狩る連中が回る」
簿外を狩る。
主を失った添え子や、逃げた奴隷を捕まえて、炉に売る商売のことだ。一人につき銀貨で三枚。私が書いた戦略の一つで、その相場を上げたことがある。工作員を潜り込ませるために、炉の入所者を増やす必要があったからだ。
銀貨三枚。豆が百五十袋買える。
あのとき私はそれを紙の上の数字として扱った。
「――半年待て」
扉の向こうで男が言った。
「なぜ、半年」
「戦略室は後任を公募する。あの部署は書き手なしでは回らん。だが失敗の直後は誰も採らない。責任のなすり合いが済んで、皇帝の関心が別に移るまで、半年かかる」
私は黙って聞いていた。
その通りだった。私が書いた採用の内規だ。十一年前に師が死んで、その後私自身が書き直した。
「……お詳しいのですね」
「詳しくもなる」
男は少し黙った。
「十一年前も、同じことがあった。初代の書き手が処刑されて、半年後に十一の子どもが後釜に座った」
息が止まった。
その処刑を、私は見ている。
十歳だった。師の背中が台に乗せられて、この男の――いや、この男ではない、当時の黒鉄卿の斧が上がるのを群衆の隙間から見ていた。
師は最後に私の方を見た。見たと、思った。
声は聞こえなかった。ただ、唇が動いた。
名を持つな。
道具は名を持つと壊れる。
その意味を、私は十年あまり考え続けている。
*
「なぜ、それを知っているのですか」
私は扉に向かって聞いた。
答えはすぐには返らなかった。
板の隙間から月の光が細く入っていた。埃がその中でゆっくり回っている。
「……お前の椅子は空いたままだ」
男はそれだけ言った。
「半年後、戦略室は書き手を募る。試験がある。覆面の者も受けられる。前歴が炉なら、なお疑われない」
足音が離れていく。
「待ってください」
私は扉に手をついた。
「せめて、お名前を」
足音が止まった。
しばらく、何も聞こえなかった。井戸の方で風が板を鳴らしていた。
「黒鉄卿でいい」
男は言った。
「この国で顔を見られないことを許された職は、ひとつだけだ。……都合がいいだろう」
足音が遠ざかった。
私は扉の前に立ったまま、その音が完全に消えるまで動かなかった。
*
机に向かった。
羽根ペンを取って、インクをつけた。手がまだ少し震えている。
白い紙に私は最初の一行を書いた。
『書き手七号候補・経歴書』
存在しない女の履歴を、これから作らなければならない。
実在する記録だけを継ぎ合わせて、嘘を一行も書かずに、いない人間を作る。それが私の本職だ。
二十年がかりの西方戦略を組み上げた手が、たった一人ぶんの偽の人生を書き始める。
ペンが紙をこする音だけが、部屋に響いていた。
――半年。
半年で妹の欄は閉じられるだろうか。
炉の帳簿は季節ごとに更新される。「消耗」と記される日は、器の残量で決まる。ミレナの器がどれだけ残っているかを、私は知らない。知るためには、あの部署に戻るしかない。
私は書き続けた。
三日目の夜、裏の戸の下に包みが置かれていた。
乾いた黒パンと、塩漬けの肉と、それから――
豆が、ひと袋。
砂糖のまぶしてある、屋台の豆だった。
私はそれを長いこと見ていた。
それから包みを持って中に入り、扉を閉め、机の前に座って、袋を開けた。
甘かった。
処刑台の上で嗅いだ匂いと、同じ味がした。
あの日、あの広場で、誰もが楽しそうだった。豆を買い、子どもを肩に乗せ、笑っていた。
その景色の中でたった一人だけ、私を生かした人間がいる。
私は袋の底まで食べて、指を舐めて、それから紙に向き直った。
六年前の三十七行目のことをまだ思い出していなかった。




