第2話 戦略の第一条
ドラークスが満足そうに顎を上げた。
彼の後ろで重臣たちが小さく囁き交わしている。何を話しているかは聞かなくても分かった。次の書き手は誰になる。西方の穴はどう埋める。この失態で室長の首は繋がるのか。
繋がる。
私が書いた戦略が失敗したのだから、罰されるのは私だ。この国の法は単純で、そしてこの十年間、彼を肥やしてきたのと同じ理屈でできている。
実行者は道具。罪は発注者に帰する。
だから彼が皇帝に献上した戦略は、すべて彼の功績になった。書いた人間の名前はどこにも残らない。書き手は道具で、道具の仕事は主人のものだ。
同じ理屈で道具が失敗したときだけ、罪は道具に返ってくる。
どういう仕組みなのか、十年考えて、分からなかった。
いや――分かっている。理屈などないのだ。理屈の顔をした都合が、この国には多すぎる。
「連れていけ」
*
処刑人が台に上がってきた。
黒鉄卿。帝都の公開処刑を執行する、仮面の役職だ。顔を見られないことが保証された、帝国で唯一の匿名の公職。黒い鉄の面の下に誰がいるのか、誰も知らないし、知ろうともしない。
板が軋んで、背後で足が止まった。
群衆の声が、潮が引くように静まっていく。誰も彼もこれから起きることを知っていて、それでも毎回、この瞬間だけは静まるのだ。
私は目を閉じなかった。
閉じる理由がない。
鎖を引かれ、首が前に出る。視界に入るのは、湿った木目とその向こうの籠だけになった。首を受ける籠だ。中は見えない。見えないように、深く作ってある。
背後で斧が持ち上がる音がした。
乾いた、短い音だ。木と鉄が擦れて、それから重さが空中で止まる。
その音を聞きながら、私は思い出していた。
六年前の夜のことだ。
*
第六皇子の「病死」の戦略を書け、と命じられた。
玉座の儀――皇帝の代替わりのたびに皇子皇女どうしが殺し合い、最後に生き残った一族が玉座を継ぐという、この国でもっとも過酷な掟――の前に勝ち目のない皇子を消す。よくある注文だった。その年、私は同じ種類の仕事を四つ書いている。皇子がひとり減るたび、依頼主は自分の勝ちが近づいたと信じる。信じたまま、次の依頼主に消される。
私はいつも通り完璧な戦略を書いた。
毒の種類。分量。運ぶ者の名。運ぶ時刻。医師の買収の順序。埋葬までの日程。棺の寸法。すべて紙の上に並べ、狂いのない順番に組んだ。
そして――生まれて初めて、命令に背いた。
戦略書の三十七行目に、一行だけ抜け道を書き足したのだ。
毒の量を致死量の半分に。
埋葬までの猶予を二日に。
棺の底板の寸法をひとまわり大きく。
誰にも気づかれない、書類の癖のような一行だった。数字の書き間違いにすら見えない。監査に出しても、誰も指摘しないだろう。指摘するには、その三つがひとつに繋がることに気づかなければならない。
三つが繋がれば、人がひとり棺の中で目を覚ます。
理由はいまでも自分でうまく説明できない。
ただ、その皇子だけが玉座の儀で「影」の弟を盾に使うことを拒んだと聞いていた。
帝家に生まれた皇子皇女には、必ず「影」がいる。同じ腹から生まれ、宝子になれなかったきょうだいだ。名を持たず、皇子に仕え、皇子のために魔力を注ぐ。儀のときは皇子の前に立って刃を受ける。
それが役目だと、この国では誰も疑わない。
第六皇子は疑ったらしい。
弟を盾にするくらいなら、負けて死ぬ、と。
馬鹿な男だ、と重臣たちは笑っていた。私はその報告書を三度読んだ。
この国で心を残した男がひとりいる。
それを殺したくないと思った。
ただ、それだけだ。
結果を知らされたのは、半月後だった。第六皇子カシアン、病により薨去。埋葬は簡素に。棺は封じられ、地下墓所へ。
その先のことは誰も報告してこない。書き手には結果しか届かない。
彼が棺の中で目を覚ましたのか、それとも底板の寸法など何の役にも立たず、暗闇の中で死んだのか。
私は、知らない。
あの三行を書いた翌朝、私は自分の手を長いこと見ていた。
命令に背いた手だ。露見すれば、それだけで首が飛ぶ。監査の目は年に二度入る。三十七行目の三つの数字が繋がることに、誰かが気づく確率を、私は真面目に計算した。
千に、三つ。
その三つを引いたら死ぬ。それでも書き直さなかった。
道具が道具のままでいることを、一度だけやめた。
理由を説明できないまま、私は六年間、その一行を胸の底に沈めて生きてきた。誰にも言わなかった。言えば死ぬからではない。言葉にすると、あれが何だったのかを自分で決めてしまうことになる気がしたからだ。
十年書いた戦略の中で、あれだけが私の慈悲だった。
*
斧が頂点で止まっている。
人の記憶というものは、こういうときに親切な速さで動く。二十一年ぶんの何もかもが、順番も脈絡もなく、勝手に並んでいく。
母の顔は覚えていない。
私を産んだ日に死んだからだ。母体は生涯に二度が限界で、二度目はほぼ死ぬ。それを知っていて、父は二腹目を産ませた。一腹目に宝子が出なかったからだ。
宝子がひとり出れば、家は貴族になれる。母の命はその籤の代金だった。
母は死ぬ間際に、生まれた四人のうちの一人を抱いて、名前を呼んだそうだ。
添え子に名前はない。だから、それは誰の記録にも残っていない。
残っていないものを、私は覚えている。
二年前、兄が死んだ夜のことも。
遺体は帰らなかった。届いたのは外套と剣の柄だけだった。その夜、誰もいない兄の部屋で、私は声を聞いた。魔力の抜けきった、掠れた声だった。
――半分は、おまえのだった。
何の話か、分からなかった。
分からないまま、私の体の奥で何かが音を立てて満ちた。堰が切れるような感覚だった。
あの夜のことは誰にも話していない。
話せば、私は国有財産として回収される。妹より先に、炉へ行くことになる。
だから隠した。二年間、ずっと。
*
斧が落ちてきた。
視界が横に流れて、木目が回った。
二十三本の筋が、ぐるりと回って、空が見えた。
悲鳴が上がった。歓声も上がった。どちらも同じ声に聞こえた。
――ああ。
私は思った。
仕掛けはうまく動いたらしい。
台の上の血の量が足りないと、見物人は騙されない。多すぎれば、係の者が不審に思う。だから前の晩に、私は袋の中身の分量を指で測って決めた。
処刑人の手元は見物人の位置からは死角になる。斧の刃が首に届く直前で、体を横へ倒せば、板と籠の間の隙間に落ちる。籠が深いのは、中を覗かせないためだ。
籠の中には前夜に炉で「消耗」と記録された女が、すでに入っている。
髪の色が同じで、背丈が近くて、そして誰にも引き取り手がいない女。彼女の帳簿の欄は昨日のうちに閉じられた。名前は最初から、どこにも書かれていない。
私が書いた最後の戦略は、私自身の処刑だった。
台の上に赤い染みが広がっていく。
群衆が沸いた。子どもが母親の肩に乗せてもらって、背伸びをしている。屋台の方からまた甘い匂いがした。
誰もが楽しそうだった。
貴賓席でドラークスが立ち上がり、重臣たちに何か言って笑っている。私の顔を、最後まで見なかった男。
板の下の暗がりで私は息を殺していた。
肺が痛かった。生きているというのは、こんなに騒々しいものだったろうか。
頭の上を、群衆の足音が渡っていく。
――戦略の第一条。
死んだ女は、疑われない。
いま、私はこの国のどこにもいない人間になった。
鑑定簿の外にいた女が、帳簿の外にも出た。
誰の目にも映らず、誰の記録にも残らない。
そういう人間にだけ、できることがある。
板の隙間から細い光が差していた。
その光の中に黒い鉄の面が、逆さまに覗き込んでいた。




