第42話 記録の外で
カシアンが、玉座に就いた。
六年前に、病死したはずの第六皇子。処刑人の仮面の下で、名もない者が死ぬのを見続けてきた男。心を失うことを拒み、弱くあることを選んだ皇子。
その男が、この国の新しい皇帝になった。
戴冠の日、皇宮の大聖堂は、人で埋まった。だが、カシアンは、豪奢な戴冠を望まなかった。式は簡素だった。彼は、玉座に座ると、最初に、こう宣言した。
「玉座の儀を廃止する」
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大聖堂がどよめいた。
「これより、この国の玉座は、殺し合いで受け継がない。……きょうだいが、きょうだいを殺す掟を、終わらせる」
カシアンは、続けた。
「孕み呪い《はらみのろい》を禁じる。母体を喰い、子を多子として生ませ、その中から、宝子だけを残す。……そのために、母が命を賭ける。そんな慣習は、もう終わりだ」
彼は、大聖堂を見渡した。
「添え子制度を廃止する。炉を廃止する。……人を燃料として搾る施設を閉じる。名前を奪い、番号で呼ぶことを禁じる」
以後、生まれた子は鑑定で宝子と添え子に選り分けられることなく、全員が等しく名前と身分を持つ。注ぎで魔力を捧げる義務も、なくなる。
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「そして」
カシアンは言った。
「握り潰された、すべての鑑定を再鑑定する」
大聖堂が静まった。
「教義は、嘘だった。呪いの実りは、ひとつ、ではない。……国中に、本当は宝子だったのに、添え子とされた者がいる。簿の外に追いやられた者がいる。その全員を再鑑定し、本来の身分を返す」
彼は、玉座から立ち上がった。
「簿外の民に、名前を返す。……この国は、記録が現実に勝つ国だった。ならば、その記録を正しく書き直す。本当のことを書く」
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改革は、少しずつ進んだ。
一夜にして、国が変わるわけではない。三十年、いや、建国以来の制度だ。抵抗する者もいた。宝家の特権を失う貴族。炉で利を得ていた者。
だが、証拠があった。握り潰された鑑定の束。教義の嘘の、動かぬ証拠。そして、皇帝の縛りを跳ね返した、簿外の女の光景。
記録が、現実に勝つこの国で。その記録の嘘が暴かれた、いま。制度は、少しずつ崩れていった。
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炉が閉じられた日。
私は、第四炉へ行った。
かつて、選別が行われた、門の内側の広場。焼き印を押された場所。髪を落とされた場所。番号にされた場所。
いま、そこに、収容者たちが集められていた。解放される者たちだ。
役人が、名簿を読み上げていた。番号ではなく。
名前を。
再鑑定で、身分を取り戻した者。あるいは、結社がかつて記録していた、本当の名前。一人ずつ、名前が呼ばれ、その人が進み出て、門を出ていく。
名前を持って。
*
その中に、見覚えのある老人がいた。
ルーカス翁だった。
彼は、再鑑定の責任者に任じられていた。五十年、握り潰された鑑定を記録し続けた男。いまは、それを正しく書き直す仕事をしている。
「よく来たな」
ルーカス翁は、私を見て言った。
「見てくれ。……この、名前の列を」
彼は、名簿を掲げた。番号が、名前に書き換えられた一覧。かつて、結社の壁に貼られていたものと、同じ。だが、今度は、隠れて書くのではない。国の正式な記録として。
「イグナが見たら、喜ぶだろう」
私は言った。
ルーカス翁は頷いた。目に、涙が滲んでいた。
「あの子が逃がした二十七人も、いま、名前を取り戻している。……あの子の名簿は燃えたが、名前は消えなかった。あの子が覚えていた。儂らが覚えていた」
*
その夜、私は、石段へ行った。
処刑広場を見下ろす、石段。かつて、カシアンと幾度も会った場所。
今夜は、彼はいなかった。皇帝は忙しい。改革の最中だ。
私は、ひとりで広場を見下ろした。
掲示板の日程表。
その三段目が、空白だった。
処刑が減っていた。玉座の儀が廃止され、皇族の殺し合いがなくなった。儀のために消される「影」も、いなくなった。炉の「消耗」も止まった。
台に乗る者が減った。
この国は、少しずつ変わり始めていた。
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私は、掌を見た。
手袋を外して。簿外の刻印の上に、月の光が落ちている。
いや——簿外の刻印は消えかけていた。
再鑑定で、私の身分は書き直された。添え子ではなく、宝子として。簿外ではなく、鑑定簿の内側の人間として。
私は、もう、簿の外の人間ではない。
だが。
私は、まだ、名前を公にしていなかった。
処刑された、書き手三号。覆面の、書き手七号。室長代理。皇帝の縛りを跳ね返した、簿外の女。……そのどれも、私だ。だが、どれも、名前がない。
私は、まだ、記録の外にいた。
自分の意思で。
*
足音が近づいてきた。
振り返ると、カシアンがいた。皇帝の礼服を脱いで、以前の質素な外套を着ていた。忍んで抜け出してきたのだろう。
「ここにいると、思った」
彼は言った。
「戸籍を作った」
彼は、一枚の紙を差し出した。
鑑定簿とは、別の戸籍簿。国の正式な記録。その、真新しい一頁に、私の身分が記されていた。宝家。再鑑定により、身分を回復。
そして、名前の欄に。
「……名は変えていない」
カシアンは言った。
私は、その欄を見た。
ザーラ、と書かれていた。
母が、死の床で一度だけ呼んだ名前。鑑定簿のどこにもなかった名前。私が、二十一年、胸の底にだけ持っていた名前。
それが、いま、国の正式な記録に記されていた。
*
「死んだのは、書き手三号だ」
カシアンは言った。
「覆面の、書き手七号も、室長代理も、簿外の女も。……全部、記録の外の名もなき者だった。だが、ザーラは違う」
彼は、私を見た。
「ザーラは、ここにいる。……今日から、記録の内側に」
私は、その戸籍を握った。
手が震えていた。
名前を持つ道具は、壊れる。師は、そう言った。名前を持てば、人になってしまう。命じられた通りに死ねなくなる。
でも、私は、もう道具ではない。
壊れる道具は、もういない。ここにいるのは、ザーラという、名前を持った、ひとりの人間だ。
「……ありがとう」
私は言った。
二十一年、誰にも言えなかった名前が、いま、国の記録に刻まれた。
私は、もう、記録の外の人間ではない。




